23 不可知
玄関先まで見送りにきた三廻部に、軸屋は右手を差し出す。
「え? 何?」
と、戸惑って目を丸く見開く彼女に向かって、藪睨みのしかめ面を優しくほどきながら彼は答える。
「マスターアップだから」
「マスター、アップ?」
「プログラムには不具合がたくさんあるんだ。それを直して、完成版にするのがマスターアップ」
そう言って笑いかける彼に、複雑な表情をしながら、彼女は渋々応じようとして、やはり手を引っ込めてしまう。
軸屋は不思議そうに首を傾げる。
「何だ、三廻部さんは証明終了とはいかない?」
「うーん。まだ少しモヤモヤしてる。何がって言われても、はっきりとしないんだけど」
「さすが。そうそう迂闊に結論は出さないか」
「何それ」
「猪飼から聞いたよ。小学校からの英才教育なんだろ?」
猪飼の名を出すと、三廻部は少し口を尖らせた。あまり気乗りしないような口調で、話し始める。
「猪飼くんは、うーん。何ていうかなあ。危ない感じ」
その言葉に、少し驚いて軸屋が尋ねる。
「猪飼も三廻部さんを危ながってた。お互いにそう思ってるってこと?」
「まあ、そうなるのかな。猪飼くんって『結局何も判らない、だから何でもあり』って考えてるでしょ」
「うん。だから『証拠があるからって判った気になるのが危険』ってことなんだろ」
「でもそれって、自分の主張に合うことだけ、強く言うことの裏返しなんだよ」
「どういうこと?」
首をひねる軸屋を見ながら、三廻部は「まあ判らないよね」と呟き、よく通る声でゆっくり話し出す。
「具体例を挙げるね。前に、あたしと猪飼くんとの間で『松平清康は存在したか』っていう議論になったんだけどね」
「誰だそれ?」
「徳川家康の祖父と言われていた人。あたしが調べた限りでは、同時代の史料では確認できなかったんだよね。清康と名乗っている古文書もあったけど、書かれている内容や文章がおかしくて、あとになって作った偽物にしか見えないから」
「作り出された人物ってことか」
「あたしが思うには、そう。だけど、猪飼くんは『いた』って言い張ってて」
「何で?」
「……どれだけ史料を見て考察しても、百パーセント完全に真実とは限らない、だからあたしの考えは完全ではない、つまり清康が存在したって」
「ん? いや、それは強引じゃないか? いたっていう証拠はないんだろ」
「そう、そこが詭弁チックというか……」
「猪飼が主張できるのは『いないとは言い切れない』ってぐらいだろ。何で『いた』に飛躍するんだ?」
「そう信じたいからじゃないかなあ」
「そもそも、偽の証拠がある辺りが胡散臭いよな」
「そうね。だからあたしは一旦その存在を外してる。新しい証拠が出てきたらまた検討すればいいでしょ」
「確かにそうだな……」
軸屋は少し間を開けて、口を開く。
「うん、そうだな。さっきのマスターアップ宣言はなしだな」
「え?」
「証明終了なんて、無意味だって判った。考えてみれば、バグ、不具合ってさ、完全に取り切れないのが常識なんだよね。そういやそうだった」
淡々と言い切る相手に対して、三廻部は決まりが悪そうに目を泳がせている。
「んー、何か、ごめん」
ニヤリと笑う軸屋。
「いや、三廻部さんが正しいと思う」
踵を返した彼に、彼女が慌てたように声をかける。
「ねえ、候哉くんって、やっぱり大学行かないの?」
彼は少々驚いたように眉を上げながら、振り向く。
「いきなり何だ?」
「もうちょっと一緒に、あれこれ調べたいなあ、とか……ごめん、勝手な話だね」
「まず、もう四月からの仕事をアサインし始めている。次に、大学なんて入っても時間の無駄だと思っている。なので無理」
「そうだよね。あたしだって、大学で何をどうしようか決めてもいないし。変なこと言っちゃったね。ごめん」
彼女の声は徐々に小さくなり、前髪を垂らして視線を落とす。相手は肩をすくめて、ゆっくりと言葉を発する。
「変なことじゃないと思うぞ」
「そうかな……」
「ああ。こんなに面白かったの、プログラムを覚えたての頃以来だ。それに、最後まで付き合うって約束だろう? また何か一緒に調べようぜ」
気楽な口調ながらも真剣な眼差しでの提案を受けて、彼女は一瞬返答に詰まる。その間合いには独特な意味合いがあるようで、二人の表情は刹那に様々な色を帯びた。
「……うん。じゃあまたね」
そうして笑顔になった三廻部が沈黙を破ると、軸屋は苦笑いして軽く手を振り、街灯の下を去っていった。