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15 老体

 三廻部の持ち込む古文書の量が増えて、正規表現を本格的に覚えたいと言い出したため、日曜のパソコン教室は継続されていた。


 久瀬と江間が加わってにぎやかな図書館行きとなった日の翌日。やがて初夏にうつろうだろう、柔らかい風が吹く午後一時、軸屋がいつもの喫茶店に辿り着くと、通りの向こう側から三廻部の声がして足を止めた。

「ちょっと待ってー!」

懸命に駆けてきた三廻部は、ようやく彼の前に着くと、膝に手をついて荒い呼吸を繰り返している。薄い縦縞が入った淡い黄色のブラウスに、裾がひらひらした濃い褐色のフレアスカートという出で立ちだった。

「どうした?」

と軸屋が尋ねると、三廻部はいつもの困ったような笑顔を懸命に作って語ろうとするが、何分呼吸が荒く聞きづらい。

「え……っと、あの、ごめんね、ほんと、ちょっと、お願いがあるの」

そして軸屋の袖をつまんで身を起こし、

「パソコンって、直せる? あの、できたらでいいんだけど、見てほしいんだ」

と続けた。

「いいよ。でも、手ぶらだよね?」

「あ、あたしのじゃなくて、お兄ちゃんのが、壊れちゃったらしくて」

快諾した軸屋は、三廻部の息が整うのを待ちつつ、不思議そうに尋ねる。

「って三廻部さん、これからどこかに行くんじゃないの? この間よりさらによそ行きの服だよね?」

「え、ああ、これ?」

一つ深呼吸してやっと落ち着いた彼女は軽快に歩き出す。そして少し口を尖らせながら、ひらひらとスカートをつまんだ。淡い色合いの滑らかな生地で、丸顔の彼女が少し大人びて見える。

「文恵に言われて買ったんだけど、ポケットがなくて不便なんだよね。でも、着ないと昨日みたいに怒られるから、家で着てるんだ」

「俺が言うのも何だけど、普段着の観念が逆転してないか?」


 三廻部の自宅は駅前から歩いて十五分ほどの場所にあった。古そうな和風の平屋で、市道に面した部分にはごく小さな駐車スペースがあったが、舗装の隙間から草が伸びてる。その脇に門柱があり、形ばかりの飛び石の先に玄関が見えた。彼女が「ただいまー」と引き戸を開けると、上がり框で待ち構えている二十代前半くらいの男性がいた。三廻部が少し硬い声で男性を咎める。

「そんなとこで待ってないで」

と言いつつ身をずらして、両者を紹介する。

「あ、あのこれが兄です。えっと、さっき言ってた軸屋くん」

彼女の兄は娘に似た愛嬌のある目をした人物で、小柄で痩せた外見だったが、貧相というよりすばしこそうな印象を与えていた。

「兄の(あまね)と申します。胡桃子がいつも親切にしてもらっているようで、ありがとうございます」

彼は大層恐縮して深々とお辞儀をしてくるので、無愛想な軸屋も慌てて頭を下げる。

「いえ……俺も……あ、僕もお世話になってます」

「いやあ、今日は無理を言って申し訳ないです。ちょっと急ぎでありまして……」

よほど困っているのか、早足で居間に案内する。


 五分も経たずにPCは復旧。遍は大喜びで礼を言うと、そのまま自室に入ってしまった。居間の卓袱台に正座して、古びた柱時計を見ている軸屋。室内は掃除が行き届いて整頓されているものの、装飾品の類が一切見えず、それが少々侘しげな印象だった。冷たい麦茶を出しながら胡桃子が謝る。

「ごめんね、うちはみんな機械音痴なんだ……」

「ああ。すぐ直ってよかった。デジカメの接続に失敗して、あれこれ頑張った痕跡があったけど、多分それで起動に失敗するようになったんだろ」

「『今日どうしても使うのに!』って、朝から大騒ぎ。で、あたしに『そういえばパソコン友達がいただろ』って詰め寄ってきて……というか、直ったらもう一直線で部屋に籠もるとか、失礼だよね」

「はは、突進型なのは兄妹一緒なんだな」

「えー、あたしはあんなじゃないよ。あ、足崩してね」

「じゃあ、ちょっと縁側に座っていい?」

居間の外廊下が縁側になっていて、ちょうど日陰で涼しい風が入ってきていた。麦茶と茶菓子を傍らに二人が並んで腰掛ける。軸屋はうしろに手をついて、陽光の中で軽やかにそよぐ若葉を見ながら、しみじみ呟く。

「うち、マンションだからこういうのって珍しくてさ」

「いやいや、古い家だし、庭も狭くて草が生えてて恥ずかしいよ。マンションのほうが、かっこいいよね」

「手入れは楽だろうし、見てくれは立派そうだけど。こういうのんびり感はないなあ」

「そうなんだ。うちはみんなせっかちだから、あんまり判らないかも」


 と、背後から深い低音で声がかけられた。

「胡桃子、お客さんかな?」

軸屋が振り返ると、着流し姿ですっと背筋が伸びた老人が微笑んでいた。

「あ、おじいちゃん。軸屋くんが、お兄ちゃんのパソコンを直しに来てくれたの」

「ああ、朝から大騒ぎしていたあれか。それはありがとう。胡桃子の祖父で三廻部(しゅん)と申します」

「あ、いえ、こちらこそお邪魔してます」

「胡桃子、この方が例のお友達かい?」

「うん。図書館とかパソコンとかで助けてもらってるんだ」

「そうか。少し、話に混ぜてもらっても構わないかな」

「あ、でもこのままじゃ駄目だよ。ちょっと待ってて」

胡桃子はバタバタと立ち上がり、襖の影から籐椅子を持ってきた。祖父は「じゃあ失礼するよ」と椅子に沈み込む。よく見ると老人の顔色は不自然なほど青白く、身体もやせ細っていた。

「心臓を痛めてしまってね。それはともかく、君はなかなか面白い着想を持っているね。胡桃子から聞いて、とても楽しみにしているんだ」

軸屋が驚いて胡桃子を見やる。彼女はにっこり笑う。

「おじいちゃんはずっと郷土の歴史を調べてて、あたしの古文書の先生なんだ。といっても、具体的なことは自分で調べろって、最小限しか教えてくれないけど」

「歴史の解釈は人それぞれ。私の解釈を継いでほしいわけじゃない。ただ、私も少し考えてみたことがある。聞いてくれると嬉しいんだが」

これに胡桃子が食いついた。

「善し! おじいちゃんがいればもう解決したも同じ!」

「こら、お前は何でも安直に考えるのがいかん。試案の一つを思いついただけだ」

たしなめられて頬を膨らます胡桃子を横目で見ながら、軸屋が頼み込む。

「ぜひ、聞かせて下さい」


 祖父はゆっくりと言葉を出す。

「毎月十九日に決まって作戦をしていた義元の目的だ」

胡桃子が「あ」と身を乗り出し、軸屋も耳を澄ませた。老史家は語る。

「吉日を選んだのではという仮説は面白い。だが、それだけでは弱いかなという気がする。それで考えたんだが、それは、番替(ばんがえ)をやりやすくするためじゃないか」

「番替……?」

「城を守っている番兵を、交代させる仕組みだ。胡桃子は心当たりがあるだろう? 後北条(ごほうじょう)の文書で何度も出てくる。どこかの城を守っている被官(ひかん)に、何日に交代して、この場所を何日守備しろとか、あとから来る担当に引き継ぐまでは帰るなとか、人数が足りないがすぐ応援に行くから大丈夫とか」

「ゴホージョー?」

と呟く軸屋に、胡桃子が早口で説明する。

「今川と同じような存在で、お隣の伊豆とか神奈川とかに領地を持ってたの。あたしが元々調べてたのはこっちで、ものすごい細かい規則を出してて、面白いんだ。で、後北条だと、所領役帳は完成してたし、兵を何人連れてきて、どんな武器を持つとかも決められてたよね?」

彼女の後半の質問に答えて、老人は言葉を節約するように短く答える。

着到定(ちゃくとうさだめ)だな。原則、正月と七月に出していた」

「あれって、細かい後北条文書の中でもとびきり長くて細かいよね。ほんと、びっくりするくらい」

「そう。そこまで管理していた後北条ですら、守備の当番を効率よく回すのは苦心していた。日程がずれて、人が溢れたり足りなくなったり」

「じゃあ、毎月十九日に決めてたのって、シフトを組みやすくするため?」

胡桃子の「シフト」という言葉を聞いて、若干置いていかれていた軸屋が口を挟む。

「なるほど、バイトと同じだね。ただ、個人の都合を聞いているとややこしいから、毎月同じ日に、人の入れ替えと補給を一気にやってしまう感じ? であれば、バイトたちも予定を組みやすいし、管理する義元も勤怠を把握しやすいな」

「そうやってやりくりしても、五月の十九日はシフトに入れる人が少なくて、義元が自分で運んだんだ。店長さんが加わるみたいなものだね」


 二人のやり取りを聞いて、微笑みながら祖父がまとめる。

「胡桃子達が考えたように、作りかけの役帳は沓掛に置きっぱなしだったとすれば、義元も補給が終わったら戻るつもりだったんだろう」

「でもさ、義元本人が行かなくていいんじゃない? まあ本人は殺されるとは思ってないんだろうけど」

「理由を二つ、考えてみた。まず、総大将である義元本人が残れば、当然警護の人間も沓掛に残るだろう。その人数も惜しいくらい、人が足りなかった」

「そんなに少なかったのかなあ。だって、攻め込んでるのって義元のほうでしょ?」

疑問を口にする胡桃子に割り込むように、軸屋は老人の説に賛同を示す。

「遠距離を攻め込んだからこそ、人が足りなくなったんじゃないか? 結果として大将が討たれちゃってるんだから、今川のほうが兵力は少ないはずだ。合理的な理由だと思う」

「君は話が早くていいな」

笑みを深める祖父に、孫娘は続きをせがむ。

「で、あと一つは?」

「箔付け。同世代のお隣さんである武田晴信(たけだはるのぶ)北条氏康(ほうじょううじやす)に比べると、今川義元は戦場経験が少ない。もう隠居する間際になって、武名を残したかった。危険は承知の上だったろう」

これには、若い二人は疑問を感じたようだ。

「えー、でも危ないでしょ。あたしだったら行かないなあ」

「合理的ではありませんね」

困惑する若者に向けて、ほろ苦い笑みを浮かべた老人は、独り言のように呟く。

「人生の終わりが見えた男ってのは、そんなもんだ」


「男ってそうなの?」

「判らないよ」

反論のしようがなく、納得できない顔で囁き合う二人を眩しそうに眺めながら、祖父は改まった口調で告げる。

「それで、一つ提案があるんだ。現地に行ってみないか?」

「え……でも、名古屋のほうだよ」

「電車代なら私が出そう。本当は一緒に行きたいが、どう考えても足手まといだ」

老人からの提案に、意外にも軸屋が乗った。

「確かに、地図を見ても何だか全然実感が湧かないと思っていました。だから、その場所を見たいですね」

「ええー、でも、今は建物とか道路があるから、昔の地形は判んないよ、きっと」

尻込みする胡桃子だったが、祖父は譲らなかった。

「方角や距離感、微妙な部分は実際に歩かないと判らんぞ。お前は頭でっかちになりがちだ。そこは気をつけなさい」

やり込められた胡桃子に代わって、軸屋が今度は意見する。

「ただ、僕の分の費用は自分で出します。自分で稼いだ分はありますから」

「ほう。では、新幹線の代金だけ出させてくれ。観光に行くわけじゃないから、あとはそれぞれやりくりしなさい」

「えー? 学校に怒られないかなあ」

「日帰りならあれこれ言うまい。ただ軸屋くん、念のため君の連絡先を教えておいてくれ」

胡桃子はまだ困り顔だったが、祖父は「これぞ年寄りの道楽」と満足そうだった。


 疲れた様子の老史家が自室に戻ると、今度は玄関で大きな声がした。

「ミコー! 来たよ。お邪魔するねー」

不意を衝かれた軸屋がその声の所有者を認識する前に、勝手知ったるといった風情で、制服姿の江間が今の入り口から顔を覗かせる。縁側から腰を上げた軸屋が驚いて中腰のままでいると、彼女は「あ!」と短く声を上げ、にやりと笑うと胡桃子を手招きし始めた。

「ごめん、今日は文恵が来るんだった。ちょっと待ってて」

顔をしかめて見せ、胡桃子が廊下に去っていく。

「何で江間さんがいるんだ? というか、俺は帰ったほうがいいんじゃないか?」

軸屋が居心地の悪く居間で立ち往生していると、江間がにこやかに戻ってきた。

「軸屋くん、買い出し宜しく!」

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