12 画期
翌日の放課後。非常階段に来た三廻部は、少し話す時間があるかと軸屋に尋ねた。その顔色をじっと見つめた彼は、淡々と応じて腰をずらす。
「別にいいよ。今のところ納期も余裕があるし」
そう聞くと、彼女は嬉々としてノートPCを取り出し、彼の隣に座る。軸屋は素早くデータを保存すると、PCを脇に置いて彼女のほうを向く。
「どうせ例の件だろ」
「当たり。昨日、刈谷が焼かれたのは誤報だったって推理したでしょ。それで、ちょっと気になる史料を見つけたの」
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古文書十一
●解釈
三河国渥美郡七根のうち小島村一ヶ所、並びに綱次・高信両人に与えた知行、遠江国小池村のうち五十貫文のこと。付けたりとして、あの両郷の陣夫二人のこと。右は、あの小島村を切符二十貫文の代わりとして与える。去る辛亥年の増収益を合わせて合計五十貫文を経営せよという。たとえ増収があったとしても、年来の軍忠に免じて一円の知行として与えると、先の証文で明確にされていたので、間違いない。次に、棟別などの諸税は以前のように免除する。また、浦船は、櫓手供出義務が一斉課税されたとしても、連絡事項がある際は、昼夜を問わず遂行するようになっていて、他と比べられるものではない。なので、あの地一円は不入として免除する。このように先の証文にあったのだが、去年の五月十九日の合戦で、沓掛において紛失したということで、先の規約のように免除する。この旨を守り、ますます軍功にぬきんでるように。
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古文書十二
●解釈
給恩のこと。三河国吉田のうち田畠・屋敷分十一貫文の地と、古郷のうち四貫七百文、このうち二貫三十文は、荒れ地の開発をした忠節によるものとする。合計十五貫七百文、年来のように治めるように。ただし、このうち二貫四百文は、扶持銭として毎年現金支給するので蔵前から受け取るように。右は、天沢寺殿の証文を持っていたものの、去る庚申年に沓掛にて紛失したとのことなので、重ねて証文を発行する。被官の家七間の分は棟別・押立・四分一の諸税の免除を、年来通り行なう。度々の忠節があったので、相違があってはならない。この旨を守り、ますます奉公に励むように。
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もはや手慣れた感じで、テキストエディタに文字を表示する三廻部。
「今川義元が死んだ日に、大村という人と田島という人が重要な書類を沓掛で失っているの。土地の保証書で、これは命の次に大切なものなんだけど……」
「沓掛って、どこだっけ?」
「大高と一緒に『自落』した所。『自落』は自分から落城することで、まあつまり戦う前に逃げちゃったみたい」
「大将が死んだら慌てて逃げるだろうな」
「うん。でも、それにしてもその日のうちにすぐっていうのが引っかかるんだよね。その上、田島と大村はとても大切な書類を沓掛に置き去りにしているのも」
「こういうケースはそんなにはないのか?」
「うーん。あたしが見た範囲ではないかなあ。盗まれたとか、台風で家ごと流されたとかはある。あと、お寺の証文が戦争に巻き込まれてなくなったとか。ただ、戦っている場所に持ち込んでなくしたというのは、この二つだけ。大切な書類を戦場に持ち込むのは、ちょっと変だと思う」
「そうだな。それに、自分達で城を明け渡そうとしてたんだろ? 持ち出す時間もなかったというのも妙じゃないか? 普通だったら準備してから出ていくだろう」
「うーん。確かに謎だ」
こめかみを押さえて唸っている彼女とともに、軸屋も腕組みして考え込む。
結局何も思い浮かばず、軸屋がため息をつきながらぼやく。
「これが、刈谷だったら判り易いのにな。あれって奇襲して放火したんじゃなかったっけ?」
三廻部は口を大きく開いて、愕然とした表情で軸屋を見つめている。
「……」
「あれ? 俺、また変なこと言ったか?」
うろたえる軸屋を前に、彼女は硬直したままだ。丸い目だけがせわしなく動いている。一分以上そうしていただろうか、三廻部は大きく叫ぶ。
「それ! それそれそれ!」
「それ?」
「そうかそうか……そうだよ、それだよ!」
全く要領を得ない言葉を連ねているうちに興奮がおさまったのか、三廻部は目を輝かせて軸屋の右手を両手で掴む。
「すごいよ、候哉くん! そうだよ。氏真のところに最初来た情報は『刈谷城を奇襲して放火した』だと思ってたけど、実際に刈谷城は攻められていない。それって実は、『刈谷城から奇襲されて放火された』だったんだ!」
彼女の剣幕に押され、今度は軸屋が固まる。そしてそれに構わず、握った手を揺さぶりながら三廻部は話し続ける。
「そうだよ、現地が大混乱で情報が錯綜したんだよ!」
軸屋は嗄れ声で確認する。
「逆の情報が来たってことか」
「というか、断片的な情報しかなかったんじゃないかな。刈谷・放火・落城の三つの言葉だけが氏真にところに来た。別に来た『沓掛・大高は自落』という情報と掛け合わせて、氏真は『残された鳴海城の岡部元信が反撃して刈谷を落とした』と勘違いした。すごい、つながった!」
押されっぱなしの軸屋は三廻部の手を外しながら、落ち着かせようと話をまとめる。
「三廻部さん、ちょっと落ち着いて。まず、順番を整理しよう。一旦今川についた刈谷が寝返る。で、今川は前回織田に邪魔された経験から、鳴海とか大高を封鎖する。そこで、五月十九日に織田と刈谷は同時に逆襲に出た、と」
「そうそう。今川は必ず毎月の十九日に行動しているから、作戦は立て易いし」
「ああ、あの験担ぎみたいな恒例日か。スーパーマーケットのセールじゃあるまいし、そんなに律儀に攻撃日を決めてたの、本当に変だってやつな」
「それとね、この五月十九日は大高口・鳴海原のほかに武節という場所でも戦いがあったのよ」
「どこそれ?」
「鳴海からだと、ずっと東側で北の方。六十キロぐらいあると思う」
「それも、織田や刈谷が攻めたのか?」
「こっちは、美濃の遠山氏じゃないかなあ。前から揉めていたし」
「美濃ってどこ?」
「今の岐阜県。遠山氏は東のほうで、長野県境にいた人たち」
「また新しいキャラクターか……」
「何年も仲が悪くて、義元とは何度も戦っているんだよね」
三廻部手製の地図を眺めながら、軸屋が指差す。
「三河って、義元からすると、色々落ち着かないんだな」
「そうだね。一時期は三河を通り越して、尾張のほうまで一気に攻めていったんだけど……その後で途中の三河がゴタゴタしてる」
「管理できなかったんじゃないか、曖昧な処理をそのままにして、その先のプログラムを書いてもうまくいかないみたいなもんで」
「管理するって言っても、今みたいに登記簿とか戸籍があるわけじゃないの。裁判はあったけど、昔の書類を取り出して見せ合いっこして判決を下すみたいな感じ」
「ああ、だから燃えた書類は再発行したんだ」
「そうそう。発行する側も台帳は持っていたとは思うんだけど、今川氏ははっきり判らないんだよ。これが後北条氏だと、所領役帳というものが残っていて……」
ここで三廻部が絶句して、そのまま硬直した。
「……」
「またかよ。おーい、生きてるかあ」
軸屋が不審そうな顔で見守っていると、彼女は独り言のように言葉を連射する。
「役帳か、そうか、そう。義元は三河の役帳を作ろうとしていたんだ。だから、大村と田島の判物も一ヶ所に集められていた。それだけじゃなくて、三河の判物はほとんどが沓掛に積み上げられていた。そうだよ、役帳だよ」
「役帳って何だ?」
「所領役帳っていうものが、隣の後北条氏のところにあったのね。課税台帳みたいなもので、誰がどの土地を持っているか、それがいくらの収入になるかを列挙しているもの」
「へえ。それは便利そう、というか、義元も持っていたんじゃないのか?」
「あったかは判らない。息子の時に駿府を攻められて、書類が全部燃えてしまったから。ただ、三河に限ってはちょうど死の直前に作ろうとしたんじゃないかな。後北条氏の役帳って、父から息子への代替わりの時に作られたみたいなのよ」
「義元もそうだったと?」
「死ぬ三年前くらいから、部分的にだけど、義元から氏真に家督継承が始まっていたんだよ。この頃は義元の文書も極端に減って、息子の氏真の出す文書が増えつつあったの。とはいえ、氏真のものもまだそんなに多くはないんだけど」
「そうすると、義元としては、三河を完全に把握してリストを息子に渡したかったってことだ。で、最後まで反抗していた刈谷を何とかしたかった」
「うん。刈谷を支援する織田を封じるため、大高・鳴海を中心に封鎖作戦をしていた。で、その拠点である沓掛にずっといて、そこで三河役帳をせっせと作っていた」
そこまで話すと、三廻部は興奮して足踏みをしだす。
「これだと思う。でも、ああ、もっと裏取りがしたい。土曜が待ちきれないよ!」
◇
この高校では文芸部の活動が図書室で行なわれている。読書会のほか、掲示する図書紹介の作成、オリジナル文集の制作などが主な活動内容だった。
部長を務めている江間は、既に決まっている次の部長に、あれこれ引き継ぎをしているところだった。他の部活動の場合は夏くらいが引退時期ではあったが、個々人の行動が多い文芸部ではその手前で世代交代をして、文化祭への準備で二年生が初陣を飾る。引き継ぐ内容は毎年流用している基本書類に網羅されており、江間が口頭でそれを補う程度だった。
引き継ぎは順調に進んでいる。あとは後進に委ねようと、江間は一人で昇降口に向かう。
「何だか寂しいよねえ」
通学用の外履きに履き替えながら彼女は呟いた。
と、そこへ威勢のよい足音とともに、三廻部が飛び込んでくる。
「舞い降りちゃった……」
「何が?」
片足だけ履き替えた状態で固まった江間が、困惑して尋ねる。対する三廻部は有頂天を絵に描いたように破顔し、胸元にノートPCを抱えたままくるりとその場でターンしてみせる。
「神様……解釈の神様が」
そう言うと目を潤ませて遥か天上を仰ぐ。江間もつられて視線を上げたが、隅に土埃がたまっている無機質な天井があるだけだった。
「ミコ大丈夫? 何があったの?」
「いやー、神様が教えてくれたんだよ。史料を見ただけじゃ判らないつながりを。ああ、どうしよう、仮説が止まらない」
三廻部はそのままブツブツと呟き始めた。
「とすると義元の三河守任官に合わせて……遷宮と御所修繕が見返り……ただそれを氏真は知らなかったというのは……まあ遠州萱料も彼は知らなかったんだし……」
意味不明な言葉の羅列を聞いて本当に心配になったらしい江間は、彼女の肩を掴んで声をかける。
「どうしたのよ、しっかりして!」
「あれはすごいわ。文書の陣中持参と役帳作成とを絡めるとか、神としか言いようがない」
「神様? それって、頭の中に湧いて出たとか? あんたやばくない?」
「ちょっと、変なこと言わないでよ。神様って、候哉くんだよ」
「ごめん、話が見えない」
「図書館行く前にあれこれ整理しないと。じゃあね!」
機嫌のよさを全身で表現しながら、ふわふわと三廻部が去っていく。それを呆然と見送ったあと、江間は眉をひそめて、グラウンドへと向かった。