10 指南
翌日は梅雨の先触れともいった風な天候で、小糠雨だった午前中から徐々に雨脚は強まり、放課後には本降りになっていた。非常階段を追われた軸屋は、空いた教室を見つけて三廻部を座らせる。
「いいか、このままじゃ体力がもたない。俺だってプログラムが行き詰まって徹夜を何度もしたから判るが、最後は思考停止して変な迷路に入っちまうぞ」
三廻部は肩を落としつつも、口をへの字にして抗議する。
「でも……」
「ちょっと聞いてくれ」
軸屋は彼女が言い募るのを遮る。
「ここまで来たら、俺もとことんまで調べて考えてみたい。最後まで付き合うよ。ただ、三廻部さんばかりに負担が行って倒れるのはおかしい。俺達はチームだろ?」
それを聞いて、驚いたように目を見開いている三廻部。固まっているようだったが、軸屋は構わず続ける。
「ということで、俺なりに対応策を考えてみた。三廻部さんが時間を使っているのは、手書きやコピーの紙に頼っているからだ。なら、テキストデータにすればいい。今までの史料から、短めのやつをちょっと見せてくれ」
軸屋はノートPCを広げてテキストエディタを起動する。
「えーと、この感状かなあ」
三廻部がおずおずとコピーを差し出すと、高速タイピングを開始する。が、すぐに行き詰まる。
「読めない。これ、どう読むんだ?」
それに応じてノートを彼女が覗き込むと、彼の指が『畢』という文字の上にあった。
「ああ、これは『おわんぬ』だよ。『畢生の大作』とかで使うから『ひっせい』って入れれば出てくると思う」
「なるほどー。っと、おお、出た。じゃあこれは?」
この手順を何度も繰り返して、ようやく古文書がPCの中に入り込んだ。軸屋は三廻部を隣に座らせて、画面を見せる。
「いいか、検索機能を使うと『あれ何だっけ?』がすぐ出てくる。まだ一つしか入ってないからしょぼいが……」
と言って、古文書に含まれる文字を検索してヒットさせてみせた。
「おおー、これは凄い。便利!」
「な、捜し漏れもないから一発で片がつくだろ」
「でもあたし、候哉くんみたいにボタンを押せないよ。あの、ピアノみたいなやつ」
「……キーボードか。これはホームポジションさえ覚えればいいんだ。この本で練習すれば、二週間ぐらいで何とかなるさ」
軸屋が渡した本をめくりながら、まだ三廻部は逡巡している。
「でも、うちのパソコンはお兄ちゃんのだし……」
「ということで、これをプレゼント」
軸屋がノートPCを指差す。
「ええ? 何で何で?」
普段は無愛想な軸屋がニコニコと別人のような笑顔になって、鞄からさらに薄いノートPCを取り出す。
「じゃーん! 新しいの買ったから」
「えええ! あたしのために?」
「いや全然。ただ単に新しいのが欲しかっただけ」
「でもこれ、まだこれ使えるんでしょ?」
「仕事道具だからな、余裕があったら換えていくよ。古いほうは中古屋に持っていけば買い取ってくれるから、大体一年で換えてる」
「あ、そうか。お仕事用だもんね」
「とはいえ、中古屋に出してもそんなに元はとれないから、プレゼント」
三廻部は目を一瞬見開いて瞬きを繰り返し、
「だから、何で?」
「今回早く納品できたのは、集中できる環境を教えてくれたからだし……まあそれと、いつも手書きで書いてて、それを見かねた」
「いやー、あたし機械音痴だから。ほんと、気持ちだけもらっとく」
少し距離を開けながら、例の困ったような笑顔を貼り付けて三廻部が拒絶する。
「ちゃんと教えるから心配ないって」
「いやいやいや、あたしの音痴は凄いよ。ほんとにほんと。常人のなせる技じゃないよ?」
「何だそのたとえは……検索をマスターすれば、さっき見せたのより複雑な条件でヒットさせることもできるんだけどなあ。残念だ」
「条件?」
「一回検索した後に絞り込みもできるし、たとえば『今川の後に義元と続かないものだけ』とかいう除外指定でも、お好みのまま」
「え! じゃあ、今川治部大輔か上総介かどっちかで検索、とかもできるの?」
「当然。日付をアラビア数字にしておけば、範囲指定したり並べ替えたりもできる」
「うー、それはいい。すごい!」
「どうかな、頑張ってみる?」
「ぜひ宜しくお願いします、軸屋先生」
「うむ。任せなさい。じゃあこのPCを早速持って帰りたまえ」
「でも先生、今日は雨と風がひどいので濡れちゃうかも」
「そんなにナーバスなものでもないけど。うーん、ちょうど納品も終わったし、明日は開校記念で休みだからなあ。一式持っていくついでに、どこかでパソコン講座でも開くか」
軸屋は一駅電車に乗って高校に通っていたが、三廻部は徒歩通学だった。ということで翌日、高校の最寄り駅近くにある喫茶店で、臨時のPC講習会が開かれた。
「でも、やっぱりこんな高いものもらえないよ。自分で買うから、おすすめのものを教えて!」
三廻部がメモを取り出して促す。
図書館に行く時と違って、三廻部の服装は大人びたものだった。ウェストを太めの革ベルトで締めたアイボリーのワンピース姿で、髪もきっちり整えて下ろしている。とはいえ巨大なメガネと鞄というアイテムはそのままという少々バランスを欠いた出で立ち。軸屋は、紙袋に入れたPC本体と電源アダプタ、ケース、マウスなどを取り出しながら応じる。
「だから、高いっていったって、かなり使い込んでるから中古屋では大した値はつかないよ。というか、まあそういう言い訳があったから最新のを買えたんで、実はそれが最大の要因」
「何だか話がねじくれてる気がする……うーん、じゃあ、お借りするってことでは? あ、でもだめか。教えてもらうんだから授業料を」
「俺が好きで教えるんだからいいよ。今のとこ、コーディングで稼いだ収入は全部手元に入ってるし」
「せめて、ここのお勘定はあたしが払うよ」
「おっけ。じゃあそれで」
◇
その日は基本的な操作を何度も繰り返し教えて、あとは学校で、放課後の空き教室を使って三廻部はタイピングの練習、その向かいで軸屋が古文書のデータ化をすることに決まった。
「存在すら知らなかった漢字が出てくるから、俺だけでは無理」
「ほんとはあたしが入力できればいいんだけど……ごめんね」
「悪いと思うならタイピングを覚えること。データ化が済むまでは歴史話は禁止だ」
「そんなあ……」
「過労でフラフラした奴は絶対に見落としをする。だから駄目」
「土曜の図書館はいいでしょ?」
「まあ、それはさすがに禁止しない」
「善し! 頑張る!」
何日目かの放課後。ここしばらくの二人は黙って作業に没頭する日々が続いていたが、入力するために古文書を見ているうちに、軸屋が妙なことを言い出す。
「俺、天才的な図を思いついた」
彼がPCのモニタに表示させたのは、
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ノブヒデ(信秀)-ノブナガ(信長)
ヨシモト(義元)-ウジザネ(氏真)
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という図だった。
「父親と息子が、これを見たら一発で判るだろ」
「……読み仮名の概念を覆すなあ。というか、これ家系図だね」
「何? もうそういうのがあるのか?」
「一般常識だと思うけど」
「……」
黙り込んでしまった軸屋に、慈悲の笑みを向けて三廻部はフォローする。
「うん。でも前より進歩したんじゃない? 候哉くんがここまで一緒に調べてくれるとは思わなかったなあ。嬉しいよ」
「そんなに喜ぶことか?」
「古文書の話って、友達には言えない雰囲気なんだよ。文恵が時々興味本位で訊いてくるぐらい」
「文恵って……ああ、江間さんも興味あるんだ?」
「うん。文恵は文芸部で時々古典の現代語訳とかやっててね。それで訊いてくることがあるんだけど」
「けど?」
「あたしが読んでるのは殺風景で色気がないって言って、あんまり深くは訊いてこないんだよねえ。だから、古文書をがっちり解釈してくれるのって、候哉くんが初めてだよ」
ニコニコと彼を見つめる視線にたじろいで、軸屋はぶっきらぼうにノートPCを閉じた。
「自販機で何か買ってくるけど、何か要るか?」
「うん。じゃあ緑茶」
小銭を受け取った軸屋は、教室を出る間際に立ち止まる。
「ロジックに基づいて組み立てているほうが、俺は性に合ってるからな。変な謎が段々ほどかれていくのも、デバッグしてるみたいで面白いし」
と、捨て台詞のように言い残して、そそくさと出ていった。三廻部はずっと微笑んだままでそれを見送る。
その後「使われている文字種はさほど多くない」ということを軸屋が発見し、三廻部が集めた古文書は実質一日で入力完了した。三廻部のタイピングは若干難航したものの、軸屋の予言通り半月ほどでマスター。付箋まみれの紙束をゴソゴソやっていた手間が減ると、彼女の体力はみるみる回復していった。