01 馳逢
のどかな昼下がり。
とある地方都市の公立高校。
頭上に青空が広がる非常階段で、膝に載せたノートPCに何かを入力している男子生徒がいた。両手の指を高速で動かしてキーボードを連打したかと思うと、呆けたような表情で空を見上げ彫像のように固まる。この二つの動作を繰り返していた。
彼がいたのは四階建て校舎の最上階だが、時折すいと吹き抜ける春の微風に乗って、吹奏楽部の楽器音や運動部の掛け声がけたたましく湧き上がってくる。新年度が始まった第一週で、本格的な授業はこれからだったが、部活動は早くも全力モードだった。高速入力と虚空凝視を繰り返していくうちに、わずかながら凝視の割合が増えていき、やがて彼はノートPCを閉じてしまう。その孤影に、野球部の打撃音が、続いて軽音部のエレキギターが重なって降りかかる。
「うるさい……」
うめき声をこぼした男子生徒は短く息を吐くと、紙のノートに偽装させたカバーにPCを入れる。そして、ひょいと立ち上がり階段を降り始めた。中肉中背、顔はのっぺりとして何とも平凡な印象だが、茫々と乱れ伸びた頭髪は少し目を引くものがあった。よくよく見れば気づく程度だが、その切れ長の眼が険しく異彩を放っているのも印象的かもしれない。ただ、今そこには光がなく、表情も消えて能面のようだ。学ラン姿で、襟には三年生の学年色をつけた校章がついていた。
この男が漠とした面持ちで階段を降り切ったところで、その隣の校舎の陰から呼び止められる。
「軸屋くん、ちょっといい?」
少し鼻にかかったような、妙にたどたどしいところはあるが、よく通る美しい女声だった。ノートを小脇に抱えた彼は立ち止まり、声の方向を見やった。
小柄で華奢な女子生徒が、昇降口から小走りにやってくる姿が見える。肩にかかる間際といった長さの髪をなびかせて、手を振っている。丸い面貌はおせじにも端正ではないが、不思議に愛嬌が感じられる顔付きだった。彼女もまた、ブレザーの校章から三年生だと判る。
「よかったー、やっと掴まえた。随分探したよ。もう帰っちゃったかもと思って焦ってた」
彼のすぐ傍らまで来て立ち止まり、彼女は微笑みかけた。少し垂れ気味のつぶらな瞳が細められ、睫毛が目立って優しそうな弧を描いた。その笑顔はどこかぎこちなさも漂う独特のもので、どこか幼気に見える。
軸屋と呼ばれた男は無言のまま、いぶかしげに首をかしげる。相変わらず表情は浮かんでこない。
「二年の時に隣のクラスだったんだけどね、C組の三廻部です。A組の軸屋くんでいいんだよね?」
「ミクルベ……覚えてないな、悪いけど」
囀るような女声とは正反対の、若者にはそぐわない枯れた低い男声が反応する。
「下の名前が候哉くん。ほんと、いい名前!」
「いや、画数が多くて面倒くさい」
「卒業したら進学しないって聞いたけど、本当?」
目を輝かせて質問する三廻部に、軸屋は淡々と答える。
「目的が判らない質問は好きじゃないが、就職するのは事実だ」
「ごめんね、もう一つだけ。誕生日が先週だった?」
「……話が見えないが、それも合ってる」
「お誕生日おめでとう。あたしも今週土曜に誕生日だよ」
「えーと、おめでとう?」
困惑の余り動けずに要る軸屋を横目に、三廻部は「善し!」と、拳を握り胸元に引き寄せた。そのまま両手を合わせて拝むような姿勢をとる。
「じゃあ、あたしと付き合って下さい!」
軸屋は、盛大に眉をひそめる。
「何だそりゃ。就職と誕生日と付き合いを『じゃあ』でつなぐ理由ってあるのか?」
◇
同じ高校の教室。この次の日のことだ。休み時間らしく喧騒に包まれた教室で、軸屋は後ろの席の男と話していた。顔をしかめた軸屋が尋ねる。
「久瀬は顔が広いから訊くんだが、ミクルベっていう女は何者なんだ?」
鋭い視線を浴びせられた久瀬は、眉や髭が濃いはっきりした顔立ちで、表情が豊か。男にしては少々高い声の持ち主だった。背格好は軸屋と同じだったが、手足がひょろ長いのが目立っていた。短く切り揃えた癖っ毛をいじりながら、彼は肩をすくめる。
「ああ、よく知ってるよ。三廻部さんって、C組の『ミコちゃん』だろ。不思議な子だよ」
「不思議……まあ確かに」
「帰宅部で成績もいいんだけど、ガリ勉じゃあない感じ。『可憐な感じがいい』って、うちのクラスでも気になっているやつが何人かいたっけ」
「可憐……強引じゃなくて?」
「何だ、ミコちゃんがどうした?」
「うーん。ますます掴めなくなったが、まあいいや。さんきゅ」
面倒そうに話を打ち切ろうとしている軸屋に、久瀬が呆れたように話を続ける。
「いつも思うが、お前はちょっとうとすぎる」
「お前が顔広すぎなんだって。そもそも、俺の話し相手はプログラムが書けるやつだけだからな。就職するのも俺だけだし、放っておいてくれ」
「いきなり就職せずに大学に行けばいいのに……」
「進学するお前らには悪いが、俺には無駄にしか思えない」
言い切る軸屋に向かってため息をつきながら、久瀬は話を戻す。
「で、もう一度訊くけど、ミコちゃんがどうした?」
そこで軸屋は昨日三廻部に声をかけられたことを説明する。
「という何だか判らない言動なんだが、妙な勧誘じゃないよな?」
「ミコちゃん、いい子だと思うよ。……ちょっと変わり者らしいという噂も聞くけど、話してみると素直な感じだし」
「不思議とか、変わり者ってどういうことだ?」
久瀬は少し首をひねって考えながら答える。
「うーん。枕みたいな分厚い魔術書を持ち歩いているとか、ノートにお経を書いているとか。あだ名も神社の巫女さんにかけてるとか」
「それ、ちょっとのレベルじゃないだろ。やっぱり怪しいような気がする」
「お前、疑いすぎだって。噂みたいな黒魔術は俺も見たことないし、話してみると普通の子だよ。というより、お前だって変人だろ。いいじゃん、付き合っちゃえば」
「説明がまずかったな。付き合うというのは男女交際じゃない。一緒に出かけてほしいという依頼だ」
「お、デートか?」
「俺の乏しい常識ですら、これをデートというかは微妙だ。だって目的地は……」
◇
場面は前日の非常階段下に戻る。軸屋は思わず訊き返していた。
「図書館?」
三廻部が今週末付き合ってほしいと告げた場所は、軸屋が知っている近所の図書館ではなく、彼らが住んでいる街から電車で一時間ほどかかる巨大な図書館だという。彼女が言うには、この図書館が使えるのは十八歳からで、しかもほとんどが閉架方式になっていて、一人が同時に借りられるのは三冊まで。なおかつ、図書館内での閲覧しか許されないのだという。
「ちょうど誕生日だから行こうと思うんだけど、一回三冊の枷があるとちょっと厳しいんだよね。だから貸出枠の要員を探してて」
「なるほど。俺は先週十八になったし、進学しないから受験勉強で忙しくもない。合理的な誘いだ」
「でしょ! ありがとう!」
ぱっと笑顔を見せた彼女。先程と同じく、少し困惑したように見える奇妙な笑顔だが、喜びようからすると、それが彼女にとっては普通の笑顔のようだった。しかし軸屋は無表情なまま抑揚なく切り捨てる。
「勝手に決めるなよ。そっちはメリットがあるが、俺にはない。交通費や外食費をかけ、さらに時間を使っても、得るものがないじゃないか」
「え……? 電車代くらいならあたしが……」
「そういう意味じゃないよ。必要性があれば自分で払うさ。何というか、他人の役に立つ代わり、俺が退屈になることに付き合えるほど善人じゃないだけ」
「そんなあ……」という悲しげな声を背に踵を返した軸屋は、
「残念だが他を検討してくれ」
と数歩踏み出した。
とその時、どこかから吹奏楽部の練習音が鳴り響き、グラウンドからはサッカー部の歓声が沸き上がった。忌々しげに空を見たあと、軸屋は振り向いて尋ねた。
「その図書館、PCを使えるのか?」
「あ、うん! もちろん! 静かで、クーラーもほどよく効いてるよ!」