第1話―詠美という魔法使い―
赤い薔薇の咲き誇る庭は未だに脳裏に焼き付いている。
大人たちが鮮やかなドレスをひるがえし、曲名さえも知らない楽曲に合わせてひらひらと舞い踊る姿は幻想的だった。
そして何よりも、彼の手はいつも優しく包みこんでくれる。
母は言っていた。
「貴女の許婚さんよ。ちゃんとあいさつをしてあげて。」
「えっと…」
ぽんと母に肩を叩かれた時に、その時は意味さえも分からずただ名前を言った事を覚えている。
彼は赤い瞳を真ん丸とさせ、隣に立っている彼の妹と顔を見合わせていたのを思い出した。
彼よりも先に妹が自己紹介をしてしまい、彼のお母さんとお父さんは苦笑いを浮かべているのも昨日の事のようだ。
まるでお伽話の王子様のように、彼は片膝をついて私に片手を向ける。
「こんばんは。私の愛しいフィアンセ?」
演技染みたような挨拶だったが、その時の私は本当に自分がお姫様になったかのように嬉しくなり、彼の手を握り返した。
母に言われ、慣れない手つきでドレスのスカートを摘まんで笑みを返したのは、今思えばとても恥ずかしい話である。
隣でズルいと怒りだした彼の妹は、他の幼馴染の男の子に同じような仕草をされ、真似事のように私と同じ仕草をしていた。
ようはお遊び程度の感覚で、私もあいさつをしていたのだ。
毎回繰り返すあいさつのようなモノだから、皆がマネしてその度に笑い合って、それはそれはとても楽しい時間だった。
いつまでも終わらないでいて欲しいと星に願った事もある。
いつも彼は傍にいてくれて、私が転びそうになると彼の胸が必ず目の前にあった。
少し冷たい体温だったけれど、ひんやりとしたぬくもりは心地よかったものである。
どんな時も傍にあって、どんな時も慰めてくれる優しい手は、これから先も消えることが無いと思っていた。
そんな夢のような時間はあっという間に過ぎ去って、気が付けば自分も彼のように勉強をして学校へ行く様な年になった。
幼馴染の彼女達と一緒に同じ学校へ行き、帰り道は一緒に帰ってゆく。
けれども私は、道端で見つけた鮮やかな花を拝借して、両親に内緒で寄り道をする悪い子になった。
決まって彼は寄り道をした時にこう言う。
「悪い子。お母様たちに勝手に来たことがばれたら怒られるよ?」
クスクスと声をあげて笑う彼の横では、彼の妹が人差し指を立てて内緒など言ってくれる。
私は一緒に人足し指を立てて内緒だよ、と彼に言うのだ。
私達の姿を見た彼は困ったように笑うと、怒る事もなく椅子から立ち上がる。
その後の事もお決まりだ。
「仕方ない子だね。…送って行くよ。」
私はきっとその言葉が聞きたくて駄々をこねていたんだと思う。
急に声変わりをして大人になってしまった彼の姿は、日に日に色濃く脳裏に映り込み、そして昔の幼い頃よりも、とてもたくましい身体だと何度思った事だろうか。
私も早く大人になって、彼と同じ目線で世界を見たかった。
そうすれば、きっと彼も私を大人と同じように扱ってくれるんだ。
なんて、幼いながらに考えたものである。
つまり……なんていうのだろうか。
私は彼に恋をし始めていたのは、ほんの数年前の事だったんだ。
けれどもそんな夢のような世界はやっぱり長続きしなくて、気が付けば絶望が足音を立てて近寄ってきていた。
母も父も私の泣く顔にうんざりしていたのかもしれない。
そのくらい、涙がいつか一滴も出なくなる程枯れるのではないかと思うくらいに毎日泣いた。
彼が…彼ら家族が引っ越してしまうことを知ってしまったのだ。
数年経ったらまた帰ってくるよ。おじ様はそう言っていたけれど、私も彼の妹も嫌だとわんわん泣いたのは忘れもしない。
だったら詠美の家に住むと、彼女はおば様を困らせていた。
詠美の家が駄目なら彩良の家、それも駄目ならルヴィアおばさんの家。
あの話を取りだすと、決まって彼女は失笑する。
ありとあらゆる手を尽くすのが賢者のやり方だ、と最近は開き直っているようだった。
結果として彼らが引っ越しを取りやめることはなかったし、彼だけが残るだなんて甘い夢はかなわない。
もちろん、彼の妹だって同じこと。
外国で勉学に励み、家を継ぐための学びも増やさなくてはいけないと、彼は困った顔で言っていたけれど、その時の私は全く理解できず、頑張ってねとしか言いようがなかった。
本当は引っ越してしまうのが寂しくて悲しくて、彼を困らせてしまえばいいのかもしれないと、読めない魔道書を片っ端からひっくり返しては、ルヴィアおば様に怒られたのは懐かしい。
でも、この事があったから、今の秘密ができたんだけれど…
結局彼らは外国に引っ越してしまったし、手紙は書くよと言ってくれたのは良いものの、彼から送られてきた手紙を見るたびにしばらくは泣いたものである。
彼の字はどんどん大人びて、とてもまねできないようなきれいな字になってゆき、私は手紙を書くのに何時間も費やしていた。
写真が苦手な彼だったからどんな姿になったのかは分からないけれど、文字からしたら会うのが恥ずかしくなるくらい綺麗な人になったんじゃないかと、今も彩良ちゃんによくからかわれている。
大好きが愛しているに変わったのはきっと彼が引っ越す時。
その時の私はまだまだ子供で、愛とか好きとかそういうのが理解できない年齢だったけれど、彼を思うと確かに胸が痛かった。
いつ帰ってきてくれるの?なんて便箋の端に魔法で隠して書いた時があったけれど、あっけなく彼に見つかったみたいで、その時の返事は顔から火が出るかもしれないほどに恥ずかしかったのは良い思い出…だと…思う。
そんな返事が返ってくる事がわかっても、寂しかったり心細かったりした時には何度も気持ちを魔法に託して便箋に書き綴った。
……結局、彼に見つからなかった文面は今まで一つもなかったように思う。
「お父さんね。病気になっちゃったんだ。ごめんよ。」
それから時間が経って、場面は白い床と白い壁が広がる世界に変わる。
あれほど頼もしかった父の姿が弱弱しくなり、か細い声が管を通って聞こえてきたのは思い出したくない映像だ。
父の病気は魔法石を作った事による副反応ではない、お医者さんはそれをきっぱりと親戚の人達に言ってくれた。
しかし、原因は不明確であり言い難いものだと何度も説明していた姿をよく目にしている。
病名は、未だに私は知らない。
父が病院に入院すると、周りに知らない大人がどんどん増えていった。
彩良ちゃんのお家の人達がお見舞いに行った際、見知らぬ人間がたくさんいたと、前に彼女のお母様が話してくれた。
よくよく考えてみれば、あの近辺から顔も会った事が無い人間の親戚たちが家に出入りをしていたように感じる。
でも、彼らが何かを仕掛けたとは確証は未だない。
…はずなんだけれど、ルヴィアおば様も彩良ちゃんのお兄さんも彼らを未だに怪しんでいる。
あれほど元気にしていた父が、突然と具合を悪くして倒れた事に、昔から顔見知りの親戚たちは皆困惑し、何かを探る様に様々な場面で私の家に来てくれた。
時に不審者情報が家の近くで出れば、空を親戚の魔法使い達の使い魔が風に漂って飛んでいた事も多い。
私は一人で下校するなとおば様たちに怒られ、決まって彩良ちゃんや何ら関係ない学友たちと下校する事が多かった。
日に日に弱くなる父の横顔は忘れられない。
その度に母は具合を悪くしたりしていた。
私は親の事を彼に言うべきか迷っていたけれど、おば様は伝えなくていいと何度も言っていたのを覚えている。
「お前は何も気にしなくていい。詠美が気にしてしまうと、お母さんが悲しむよ?」
ルヴィアおば様は笑っていたけれど、内心は本当に辛かったんだと思う。
だってお父さんはおば様の弟だもの。
お父さんが冷たい雨の日に亡くなって、それから家の中はぽっかりと穴が開いたように静かになってしまった。
様子を見に来てくれた近しい親戚たちやおば様たちには、今となってはとても感謝している。
具合の悪くなる母を気遣ってくれたり、彼女が一人になってしまわぬようにと、おば様は店を使い魔たちに任せて毎日来てくれた。
もしかしたら、おば様も一人になりたくなかったのかもしれない。
その頃に彼から届いた手紙には小さな花のしおりが入っていた。
彼の手紙には、何もお父さんの事は書かれていなかったけれど、彼はきっと知っていたからこそ、一言も書かなかったんだと思う。
おば様が手紙に書かなくてよいと言っていた意味を、その時に何となく察した。
私が彼に逐一報告しなくても、何処かしらで…おば様や彩良ちゃんのお兄さん達が彼に報告していたのかもしれない。
お父さんのお葬式には彼の両親は帰ってこなかったけれど、母宛に彼のお母様からお手紙が届いたのは知っている。
内容は読んだことが無いけれど、あの手紙は何処に行ったのだろうか。
そうそう、花のしおりはとても大事にしているよ。
誰からも奪われないようにと、おば様に教えてもらった魔法で、別の場所に保管しているんだ。
それから少しの時間が経って、あの日がやってきた。
あの日の光景は忘れもしない。
忘れたいと願っても、いつも思い出されてしまう。
夕暮れ時の帰り道。
いつもと変わらないたわいない話をしながら、友人たちと彩良ちゃんと一緒に帰ってゆく。
明日もこんなふうに笑っていたい。できれば、あの人が帰ってきてくれる日が…明日は分かるといいな。そんなことを考えながら。
皆が自分たちの家の方へと歩いてゆく姿を見送り、家の門を勢いよく開けて玄関へと急ぐ。
今日も母に…お母さんに話したい事がいっぱいあったから。
「お母さんっ!ただいまっ!」
妙に静かな空間だったとその時気が付けなかった自分が悔しい。
ランドセルを背負ったまま、お母さんがいるであろうリビングに急ぐ。
今日は、手紙は届いた?
ルヴィアおば様はもう帰ってしまった?
聞きたい事と話したい事がいっぱいあって、そのままの勢いでリビングの方へと身体を傾ける。
酷く眩しい程に照らされた太陽の光が、気味悪いくらいに廊下へと流れていることに気が付かず。
「ねぇ、お母さん?…お母さんっ?」
私は満面の笑みを浮かべてお母さんを何度も呼んだ。
開け放たれたリビングの扉を不思議に思ってくぐり、そしてまた言葉を発しようとする。
「お母さん……?ガラスが…割れてしまって……えっ…」
足元に転がったガラス片に驚いて、思わす足元へと視線を向ける。
なんということだろうか、窓ガラスがリビングに散らばって、カーテンが外から入ってきた風でぱたぱたと音を立てているではないか。
急いでぽつぽつと呪文を唱えながら、辺りに散らばるガラスを片付けようと視線を動かす。
「…おか…お母さ…おか…あ…さん?」
ある一点へと視線が移ると、私は急に全身が氷水に浸されたように寒くなってきた。
焼け焦げた台所の床
壁に貼りついた赤黒い染みの多いこと…
あぁ、そうだった
お母さんの身体は魔法陣の真ん中にあったんだった…
その後の記憶は飛んだように覚えていない。
気が付いたらルヴィアおば様に抱かれていた。
周りには警察官の人がたくさんいて、おば様の使い魔たちがあちらこちらへと飛び去ってゆくのが見える。
ルヴィアおば様の顔は見た事が無い程に険しい顔をしていた。
私が目を覚ましたのに気が付いたおば様は、ふいにその表情を一変させ、今にも泣きだしそうな顔で私を強く抱きしめる。
怒涛のような大人たちの声が辺りにこだまし、決まって声のする方に冷たい魔力を感じた。
お母さんも死んでしまった。
小学校を卒業したら、おば様の家で暮らそう。
大切なモノはおば様に教えてもらった―秘密の場所―に隠すのよ。
どんな事があっても、大切なモノと魔法に関する物は全部あなたの―秘密の場所―に入れておきなさい。
お母さんはしきりに亡くなる前、そんなことを言っていた。
なぜ、そんな事ばかり言うのだろう。
あの日を過ぎるまでは、どうしてと疑問に思い続けていた。
けれども、お母さんは理解していたのかもしれない。
少なからず、いつの日か…遠からず…近からず…
自分が殺されてしまう事を知っていたのかもしれない。
今だから言える事だけれど、お母さんは部屋に大事なモノを置くことを凄く嫌がっていた。
大事なモノは―秘密の場所―に置いておきなさい。
念仏のようにお父さんや私に何度も言っていたけれど、今考えると本当に大事な教えだった。
ルヴィアおば様に教えてもらった―秘密の場所―を生成する魔法は、本当に重宝している。
できることなら…そこに自分も隠れたいほどだ。
こんな場所に居たくなくて。
こんな場所に帰りたくなくて。
言っていいのならば、助けてと叫びたい。
貴方がその声に気が付いて、来てくれるのであれば、私は叫びたい。
お母さんが亡くなって一人になった私は、ルヴィアおば様の家に引き取られる事なく、知らない人間の家に引き取られることになった。
慈悲深く優しい夫婦だと皆は言った。
…おば様は最後まで納得しないと知らない親戚たちに怒りを露わにしていた。
気が付いたらその家に引き取られ、気が付いたら部屋を与えられ、そこに帰ってくるように躾けられた。
楽しくも悲しくも感じなかった私は、ただ単に指定された場所に戻るような生活を送っていた。
希望という名で語るとしたら、彼から届く手紙だけだったと思う。
お母さんが亡くなった事に関して、彼は家族から話を聞いたという。
何という言葉をかけていいかわからない。と率直な意見が書かれていた。
私は、彼になんて返事をしていいのかわからなかった。
ただ…許されるなら…と…
また前のように、いつ帰ってくる?と隠して言葉を記してしまった。
返事は前と似たような物だったけれど、封筒の中に同封されていた押し花は赤い薔薇だった。
小学校を卒業する頃。
突然とあの人達は変貌する。
慈悲深いと言われ、人当たりの良い夫婦だったあの人達は、私にも当たる事無く両親が無くなった事を一言も聞いてくることはなかった。
ただ、ひたすらに同居している子供として扱い、学校の話も友達の話も聞いてくることはなかった。
変貌する前までの日々で、あの人達に問われた事と言えば…
魔法石はどのくらいのスピードで作れるの?
という、一言だったような気がする。
私がどう答えたのかは記憶にない。
その後、何度も同じような質問を嫌でも聞かされるのだから。
その日も同じようにおば様の家に寄ってから、帰る必要性の感じない―明生家―に帰って行った。
薄暗い天気だったと思う…雨が降り出しそうで降らなかった日。
玄関の扉を開けて目に映ったのは、見知らぬ大人の人達だった。
今まで一度も会った事が無かった彼らは、私の顔を見ると目を見開き、気味の悪い笑みを浮かべたのを覚えている。
そして、困惑する私など差し置いて早く家の中に入れと怒られた。
足がすくむような感覚を覚えたけれど、出て行ったとしても仕方がないこともあったし、何より外は暗かったから、結局いつものリビングへと進むしかない。
そこで見た光景は、正直見飽きて嫌な思いしか感じない。
細い柄の鞭をわざと音を立てて手のひらで叩いていた明生家の家主は、私の顔を見るといつもの笑みで手招く。
私は知らない大人に取り囲まれながら不自然に置かれた椅子に腰をかけるしかなかった。
「お帰りなさい。君にね…お仕事をしてもらう事ができたよ。やっとバイヤーが見つかってね。直ぐにでも取りかかってほしい。」
見慣れた微笑みを浮かべた家主だったが、その顔はどこか恐ろしいバケモノに見え、隣に佇むきれいな顔をした妻が手を向けてきた時には、私は恐怖だけしか感じなかった。
その後に見た光景はおぼろげで、痛みと恐怖しか正直覚えていない。
「ねぇ!誰かっ!出してっ!出してくださいっ!」
冷たい石の床と、鉄の扉を何度も叩いたけれど、誰の返事も返ってこなくて、戻ってくるのは外で怒鳴る大人の声だけ。
早く作業に取り掛かれ。
時間になっても一つも出来ていなければ、躾が待っているからな。
聞いたこともない大人の怒鳴り声に、私は身体が震えて動けなくなっていた。
その後は、人に聞かせたくもない無残な事ばかりだ。
恐怖で魔法石の一つも作れなかった私は、知らない大人に取り囲まれて暴言を吐かれ続けた。
生きていても意味が無いことを教えてやる。
お前は魔法石を作る道具だ。
いい加減に観念して手を動かせ。
鋭い痛みが身体を叩きつけて、痛いと助けてと泣いても誰も来ない。
泣きじゃくる私の顔の前で、呆れたような表情浮かべる明生家の夫婦が見えて、恐怖はだんだん絶望に変わっていった。
知らない大人について行ってはいけないよ。
魔法石の事は誰にも言ってはいけないよ。
恐ろしい事に巻き込まれてしまうんだ。
幼い頃から両親やおば様に言われていた事を思い出しても、結局それは手遅れで何も意味を成さなかった。
それから数時間以上。
昼なのか夜なのか。時間もわからない中で、ただ自分の命を守る為だけに魔法石を作り続けた。
大人たちに水や草花が無ければ魔法石が作れない。と何度も訴えたが理解してもらえず、部屋に用意された少ない資源が底をつくと、絶対にやってはいけないと言われた方法で生成するしかなかった。
とても痛い痛いものだった。
空気が刃物のように身体にまとわりつき、目の前にできた透明な石を叩き割りたい衝動に何度かられた事だろうか。
できあがった魔法石は直ぐに回収されてしまう。
引きずり出された部屋の外はとても冷たくて、そこが家の地下だと気が付くのは数日かかった。
学校やルヴィアおば様に助けを呼ぼう。
最初にその部屋に監禁されたとき、私は絶対にそうしようと決めていた。
けれども、その決意はもろくも崩れ去られてしまう。
監禁されていた部屋から出された後に、明生家の夫婦から言われた言葉は私の決意を揺らぎ崩す言葉だった。
「もしもお前がこの事を外の連中に言ってごらん?…そうだね、最初はあの足しげく来ていた友達から」
にんまりと笑った明生家の妻は、さげすんだ目で私を睨む。
「お前の母親と同じように焼き殺してやろう。」
その言葉は、傷で痛んだ身体を忘れさせ頭を真っ白にさせるには十分な一言だったと思う。
恐ろしくて、自室に戻されても身体の震えは止まらなかった。
ただ、その時は必死になって、部屋に残された大事なモノをかき集め隠す事だけをしていたのを覚えている。
そう、とにかく―秘密の場所―に全てを隠す事にした。
絶対に…彼からの手紙も、両親の形見も渡さないと決めて。
それから先、今までの時間は酷いものだったと思う。
ルヴィアおば様や彩良ちゃんの家からは、身体の傷を問いかけられてしまったが、魔法の練習を失敗したと何度も言いくるめた。
…おば様には勘付かれていたと思っていても、それ以上聞いてほしくないと逃げ回った事もあった。
両腕の傷が癒えてきて、包帯が取れる頃になると、あの人達はまた同じように魔法石を作るよう強いてきた。
そのサイクルが毎年のように続いてゆき、時に貧血で倒れた事もある。
明生家に役所の人が来たこともあったが、決まってあの人達は人が変わった様に善人のお面をかぶり、何事も無かったように彼らを追い返して言ったものである。
決まって、帰ってゆく人たちは言うのだ。
「こんな慈悲深い方々が、子供に体罰を与えているだなんて…あの大魔女という人…あの人が、頭がおかしいんじゃないかしら?」
私はそんな人たちの背中を冷たく見つめるしかできなかった。
言ってよいのなら、おば様の悪口を言うなと叫びたかったくらいだ。
日に日に、月を増すごとに魔法石のノルマは増えていった。
必要以上に作れば身体が壊れて、これ以上作れなくなるとあの人達に食ってかかったのはついこの前くらいで、私に昔のように鞭を振るってもいう事を聞かないと分かっていたあの人達は、数の暴力で黙らせようとしてきたのを嫌でも思い出す。
あの人達はバケモノだ。魔法石と言うモノに取りつかれたバケモノだ。
あれから何年もの月日が流れた。
変わらず彼からは柔らかい字で手紙が送られてくる。
他愛もない話から、最近の私の状況を聞きだそうとする内容。
ちょっと強引にも見えるその内容は、時に私を困らせた。
彼の妹が昨年帰国し、数か月前におば様を通して会ったのを覚えている。
その時は何食わぬ顔でたわいもない話をしただけだった。
腕に巻かれた包帯を見て理由を彼女に問われたが、おば様や彩良ちゃん達と同じように答え、無理をするなと怒られたものである。
しかし、彼女はとても勘の鋭い子だ。
会いたいけれど…長い時間彼女と会えば、私の状況を直ぐに勘付いてしまうだろう。
彼女が酷い目に合うのだけは絶対に避けたい。
痛くて辛い思いをするのは私だけでいい。
きっといつか…きっと…
終わりはくるのだから。
――
ぽそりと音を立てて、鞄の中に一通の手紙が入り込んできた。
「あれ…」
自分宛の手紙は全てこの鞄へと転送されるよう、自分でポストに細工をしている。
家にいる者達に手紙を見つけられたものなら、恐らく一生見ることができなくなってしまうだろう。
あの家に引っ越してから、私はずっとそのようにしている。
豹変し暴力を振るわれる前から、どうしてもあの家の者達には近寄りたくない意識があった。
しかし、いつもなら昼前に手紙は配達され、鞄に入り込んでくる。
今は帰宅間近の夕暮れで、こんな時間に郵便が配達される事など今まで一度もなかったはずだ。
「……やっぱり、リディエルさんのお手紙で間違いないのに。」
校門を出て急ぎ足で帰宅してゆく学生から避け、私は廊下の片隅で封筒を静かに開ける。
寸分狂いのない程に綺麗な羅列をした封筒の文字はとても美しいもので、中に書かれた便箋一つ一つ見ても、センスがとてもよかった。
たまに薔薇まみれの恐ろしく情熱的な絵柄が混ざっていたこともあるが、それもそれで、彼の心情を映し出すようで何とも愛おしい。
「今日は何かな?」
両腕に巻いた包帯が取れないように止めた部分を締め直すと、私は封筒の中から便箋を取りだす。
珍しく真っ白な便箋には、黒いインクで短い文章がぽつんと書かれているだけで、沢山の言葉はつづられていなかった。
「愛しのフィアンセ。もうすぐ、貴女に会えるよ。私はこの日を心待ちにしていた。君の成長した美しい姿を見るのが楽しみだ。」
「っっ!」
後方から棒読みで声が聞こえた事によって、私は思わず便箋を封筒の中に突っ込んでしまう。
振り返ればそこには彩良ちゃんが立っており、その横では顔を真っ赤にした喜奈里ちゃんが目を泳がせていた。
「なななな、なんて文章っ。」
「…相変わらずリディ兄はぶっ飛んでるね…」
「えぇぇ。盗み見禁止っ!」
顔を真っ赤にした喜奈里ちゃんの横で、彩良ちゃんがぼんやりとした顔で静かに微笑む。
私の顔は喜奈里ちゃん以上に赤くなりだし、手に持った荷物を投げそうになってしまった。
「で、でも、文章からすると、そのあの…詠美ちゃんの許婚さん。近々帰国するって事だよね?」
「おうおう。ついにご対面か?感動の再開か?」
「そ、そうだね。それは嬉しいな…すごく…」
現状として二人の言っている事はとても嬉しい。
何年も待ち望んでいた事では変わりないのだ。
大好きな彼が帰国し、会いに来てくれる。
それはとても心が弾んで立っていられない程のなずなのだ。
しかし、今の状況としては複雑なモノである。
私の状況を見た彼は、きっとナンナちゃん以上に怒りを露わにするだろうし、事が荒立つことは目に見えて分かってしまう。
先に帰国した彼の妹ナンナちゃんには、昨年から何度か会っている。
その際には幸いにも全身に包帯を巻く様な事が無い時で、運よくと言っていいのか、彼女に勘付かれていないようであった。
だが、今はとてもまずい。
先日あの人達から暴力を振るわれた矢先で、両腕や脚には魔法石を無理に生成したせいもあって、生傷が残ったままなのだ。
ここ数日でこの傷を全て完治させるのはさすがに無謀で、更に魔法石の生成を強要するスパンが短くなっている今、とてもではないが彼に全てを隠し通せる自信は無い。
だからといって、彼に隠すことなくすべてを話せるだろうか…
それは無いだろう。
なぜなら、彼以外にも皆に危害が及んでしまう。
「え、詠美ちゃん?」
「っえっ」
おずおずと喜奈里ちゃんに目の前で手を振られ、私は我に返って素っ頓狂な声をあげてしまった。
彩良ちゃんはじっとこちらを監視するかのように見つめ、何かを探るかのように青い瞳が私を射ぬいている。
「だ。大丈夫だよ。ごめん、ちょっと考えごとしていたの。」
「そ…そう。」
不安げに見つめてきた喜奈里ちゃんを、ちょいと指でつついた彩良ちゃんは彼女と連れだって教室の方へと戻って行く。
「あ。ふ、二人とも!お先にっ!」
「えっ、う、うんっ!じゃぁ、ま、また明日っ!」
「……気を付けて帰りなよ。」
二人が荷物を持っていない事を見ると、私は笑みを顔に張り付けて帰りの挨拶をすることにした。
喜奈里ちゃんは驚いて目を丸くさせているが、隣の彩良ちゃんは相変わらずである。
私は手荷物を掴むと、その場から逃げるように歩き出した。
とにかく、今できる事をしなくてはいけない。
大好きなあの人に、こんな姿を見せたくないのだ。
校門を出て、帰りたくもない家の方へと歩いてゆく。
「っあ。」
手に持ったままの手紙を思いだし、その場に止まった私は、周りを気にしながらゆっくりと読みかけの手紙を封からとりだした。
白い便箋には続きがある。
小さく深呼吸をして、ゆっくりと視線を便箋へと落した。
「今まで辛い思いをさせてしまったね。」
急に頭から水をかぶった様に脳が冴えわたり、彼が書き綴った言葉を何度も見返してしまう。
周りでは学生たちが楽しげに会話をしながら帰路についているが、その声さえも遠い世界の言葉のように感じる。
「もう、これからは心配いらないよ。私が全てから守ってあげるから。」
手紙はそこで終わっており、最後に一言だけぽつんと書き記されている。
いつも最後は同じ言葉で締めくくられているのだが、今日はどことなく深い意味を模しているように感じてしまう。
「愛しているよ。私の詠美。」
白い便箋を静かに畳み込むと、封筒の中へと滑り込ませる。
何事も無かったかのようにその場から歩き出すと、なるべく人通りの少ない通りへと身を忍ばせるように進んでゆく。
まわりに人がいない事を確かめ、大きく深呼吸をすると手紙を両手で抱きしめるように掴んだ。
「助けてくれる…?…ホントに…?」
恐らく彼は気が付いてしまっているのだろう。
何故気が付いているのかは理解できないが、だとすれば周りもそうなのだろうか?と考えてしまった。
今まで何度もルヴィアおば様には心配されていたし、日によってはアルバイトの残業が伸びたから今日は帰せない、とあの人達に電話をかけて止めてくれたことも最近は増えている。
思い起こせば、要因となるような出来事はたくさんあったし、勘の良い周りの人達は、私自身よりも気が付いていたのかもしれない。
が。気が付いてくれたという事よりも、この現状が本当に変わるのかという不安感がのし上がってきてしまう。
周りの人達がお母さんのような目に合ってしまうのではないか。
その事を思い出すと、必要以上に喜ぶことができない。
けれども、彼からもらった手紙へと視線を移すと、どうにも不安よりも希望のようなモノを感じてしまう。
何故だろうか、理由を考えても言葉に言い現すことができない。
「名前を呼んだら…来てくれる?」
まるで目の前に彼がいるかのように、ぎゅうと手紙を抱きしめ、私は大きく深呼吸をする。
きっと今日もあの人達に作業を強いられるであろう。
彼が今日この街に帰ってくる確証は、ほぼ無いに等しい。
それなのに、私の中では不安感が薄れてゆき、この次の瞬間には彼が隣に現れるかのような感覚がせりあがってきていた。
郵便配達の時間でもない時にポストに投函されたとするならば…そう考えると自然と胸が高鳴る。
今こそ、あの場所から逃げるのだ。
自分の足で助けを求めるのだ。
数年前に抱いた決意を思いだし、まるでその頃の自分を慰めるように、私は大きく深呼吸をして歩き出した。
背中の方でほのかに冷たい風を感じたが、気のせいだとその時は振り返ることもしなかった。
――
明生家は、明月花市でも有数の住み心地が良い静かな住宅街にある。
徒歩圏内に観光名所となっているレンガ造りの建物が並ぶ商店街もあれば、近代的なオフィス街にも徒歩で行けるほどの利便性が高い住宅地だ。
しんと静まり返った道はとても気味が悪く、いつも以上に恐怖感を覚えてしまった。
鞄の中に入れた手紙を思いだし、大きく深呼吸をする。
「大丈夫…大丈夫よ。」
前に脱走を企てようとした時は小学生の頃だ。
その頃に比べれば自分でも魔力は増幅している事はわかるし、何より体力や俊敏性だって子供の頃とは異なる。
少しばかり今の身体には無理を強いてしまうかもしれないが、様々な魔法を駆使してゆけば捕まらずに目的地へと行くことができるだろう。
しかし、自分が逃げ延びる事だけが全てではない。
逃げ延びた後に、この家の者が悪であることをまわりに知らしめることが重要である。
言葉で言いくるめられてしまえば、この家の者達の力は人一倍だ。
他人には善人として振る舞っている家主たちの言葉と、自分の言葉では太刀打ちが出来ないのはみて一目である。
であるならば、決定的な証拠を皆に知らしめなくてはいけない。
なんでもいいのだ。とにかく、彼らが私の生成した魔法石を悪行に使い込んでいる事を、多くの人に教えなくてはいけないんだ。
「……。」
意を決して入り口の門を開け、いつもであれば鍵をかけ直すのだが、この後の事を考え開けておくことにする。
不自然に開いた門であるが、気にして声をかけてくる気配はない。
石段を上がり玄関へと手を伸ばすと、手が震えているのに気が付く。
これから起こるであろうことを予測しているのか。
それとも、不安がせりあがってきているのかは分からない。
震えた手で玄関のノブをひねった私は、大きく息を吸い込んだ。
「…え……」
しかし、その手は開いた玄関の先で、足さえも止まってしまう。
目の先には明かり一つ付いていない廊下が広がり、その手前には複数の人影が見える。
視線の先には血眼になった目を左右に動かし、こちらをじっと見つめている男の姿があった。
手にはロープと鞭を持ち、わなわなと腕を振るわせている。
彼こそが、この家の明生家の家主だ。
「やっと帰ってきたか。……あぁ、そのまま聞いてもらいたい事がある。」
ぞくりと背筋が凍るような彼の表情に、思わず悲鳴が上がりそうになる。
よく見れば、彼の後ろに立っている彼の妻も同じような顔色をしていた。
見慣れた傲慢そうな笑みはそこになく、余裕のないその表情は、少しでも刺激すれば感情を爆発させそうな程に震えている。
「状況が一転してしまってね。仲間が警察に捕まってしまったんだよ。どういう意味かわかるだろう?終わりだ…この家にも直ぐに警察がくるだろうさ……」
「さすがに、特殊部隊が関わっているようだし、私達はここに長いができなくなってしまったのよ。」
狂ったように肩を震わせて笑った女は、片手に持った銀色の刃物をカチカチと音を立てて構えだす。
彼女の前に佇む男は、一歩一歩と私の方へと近づいていた。
明らかにおかしい彼らの言動。
頭の中は真っ白になりつつあるが、本能が私を奮い立たせていた。
そう、ここで足を止めたら……殺される……
「すまないね。計画が変わってしまった。元々君には命尽きるまで働いてもらうつもりだったのだが。まぁ、少しばかり時期が早まってしまったということだ。……さぁこちらにおいで。両親の所に送ってあげようじゃないか。」
「っっっ!」
にやりと崩れた笑みを浮かべた明生家の家主に、私はとっさに彼の手を叩いて後ずさりをする。
玄関にロープと鞭が転がり、彼はそれを唖然と見つめ、そして私の方へと視線を向けた。
「っっ、に、逃げやがったっ!」
「追えっ!はやくっ!警察に見つかる前にッ!」
その後はもう一目散にその場を転がる様に動いていた。
玄関の扉を勢いよく閉じ、門の入り口を越えて明生家から駆けだす。
後方で彼らの足止めになるようにと簡単な魔法で門の錠前を改造して、振り返る事無くその場を後にした。
耳が痛い程に周りの音が聞こえなくなり、何を考える余裕もなく薄明りの灯りだした商店街の方へと駆けてゆく。
後方から車の音が聞こえたと思えば、音に顔を向ける事無く車両が入れない路地へと曲がる。
罵声のような男の声が響き、後方に迫ってきていた車が追っ手だとその声で気が付くが、今は振り返ることはしない。
とにかく、ありとあらゆる路地や細い道を駆使して、彼らをまくように動くしかなかった。
「誰かっ…」
助けを呼ぼうと声を出そうとするが、その度に背後から気配が近づく様な気がして、ヒトの見えない路地で闇雲に声をあげる気が失せてしまう。
さすがに昼間と違って商店街の入り口は人通りも少なくなり、一心不乱で走っている私が異様な光景となっていた。
しかし、皆帰路に就くことで頭がいっぱいなのか、それともただ学生服の女子高生が何かの待ち合わせ時間に遅れそうで焦っているように見えるのか、誰一人として声をかけようと近寄ってくる者がいない。
「うぅっ!」
薄暗い公園の方へと駆け入り、草花や木々の間を舗装された石畳をかけて更にその先へと進もうとする。
無理に走った事もある為、少しでも足を止めれば身体のあちこちが激痛を発し、思わずその場にうずくまりたくなってしまった。
けれども、ここで足を止める訳にはいかない。
一度止めた足を動かし、息を吸い込んで前方へと視線を移す。
「見つけたぞっ!」
「っっ!」
息を飲むような光景が前方に広がり、私は思わずその場に止まり後方へと振り返る。
前の前には血相を変えた大人たちが複数待ち構えており、振り返った先にも同じような表情を浮かべた見知らぬ大人が駆けて来た。
その中には、明生家の夫婦も含まれている。
「このっ!手こずらせやがってっ!」
「いやっっ!」
ふいに背後から乱暴に手が伸びてくると、男が私の髪を思い切り掴んで地面に身体を叩きつけようとした。
抵抗してその腕を掴もうとすると、鈍い音が腕を叩きつけ、痛みのあまり目を見開きうずくまるしかない。
腕に巻いた包帯が赤黒く染まりだし、身の危険を感じた私はその場から転がる様に動いた。
「大人しくあの場に残れば、こんな痛いことをされずに楽に両親の所に行けたものをっ!」
血眼になった目をぎょろりと動かし、女が地に濡れたナイフを揺らして近づいてくる。
彼女の後方からも同じようにナイフをかざして、こちらへと近づいてくる大人の姿が見えた。
背筋がじわりと凍るような思いを感じ、震える口を必死に私は動かそうとする。
「だ、誰か助けっ!」
「黙ってろっ!」
「っあぁっっっ!」
未だ明るい商店が幾つも公園の外に見えるのを確認し、思いの外大きな声で人に助けを呼ぼうと私は叫ぼうとする。
しかし、後方から近付いてきた男に鞭のようなもので叩かれ、痛みとその勢いで地面に倒れ込んでしまった。
受け身をしようと腕を伸ばせば、傷口の開いたところが激痛を起こし、思わず歯を食いしばるしかない。
ざわざわとあたりに人の気配が集まるが、どれも私の叫び声を聞いて集まった人ではない事は、嫌でもわかっていた。
「お前の助けなど誰も聞こえていないんだよっ!」
「い、痛いっ!」
「あの家の地下で静かに死んじまえばよかったものをっ!」
「やめてっ!」
「この川に投げ捨ててやるかっ!」
「いっ、いやっあぁっ!」
空も地面もわからなくなる程に、前後左右から激痛を伴うような攻撃が体中へと振り下ろされる。
時に髪を掴みあげられ引きずられると、腕や足に巻きつけた包帯が引きちぎれて剥がれてしまう。
「っげっっあっ!」
言葉にならない悲鳴をあげ、私は震える身体で目の前に近づいてくる大人たちを見上げるしかない。
なんと恐ろしい顏だろうか…皆が同様に殺意を向け、誰一人として正常な表情を浮かべていない状態だ。
「顔だけは傷つけずに終わってやろう。それが最後の慈悲だ。」
「最後まであまり役に立たない魔法使いだこと…」
「いそげっ、警察が来てしまうぞっ!」
身体の傷を押さえ、私は高々とナイフを振り上げた男を見上げる。
脳裏には無残な姿となったお母さんの姿と、冷たい病室で静かに眠っているお父さんの姿が映し出された。
銀色のナイフに赤いしずくが滴れているのに気が付き、それが自分の物だと気が付くのに時間はかからない。
「……助け…て…」
震えた声で微かに発せられた言葉は、鞄に入れられた手紙の送り主に向かってのものだ。
昔、二人で約束をした秘密があるのを不意に思い出した。
「吸血鬼は、一度飲んだ血の味を覚えているんだ。それが愛しい人であるならば…狂おしい程に欲してしまうほどにね。」
白い手が私の手をゆっくりと掴み、赤い薔薇の花のような唇が手のひらに軽くあたる
「君を味あわせて。そうすれば、どんなに離れていても遠くにいても、君の血をたどってすぐに見つけられるから。」
くすりと笑った彼は私の頭を優しく撫でた
「愛しい私のフィアンセ。…私と二人だけの秘密を作ろう。誰にも知られてはいけないよ?…これは誓いだ…結婚と同じくらい重い誓いだ。」
難しい言葉はその時はわからないと言った覚えがある。
彼は目を丸くさせて笑っていたけれど、愛おしげに私の傷ついた指先を見てぽつりと呟いた。
「これで、何処にいても君を…詠美を探し出せるよ。」
震えた手が止まらなくなり、見たくないと思って目を強く閉じてしまう。
こんな所で嫌な思いを抱えたままに、死ななくてはいけないのかと頭に浮かんだ途端に、風を切る様な音が耳の上で聞こえた。
きっと、次の瞬間には真っ暗な世界が目を開いても広がるんだろう。そんな事を考えてしまう。
「ひ、ひぃぃぃぃっ!!」
しかし、次に来るはずの痛みはどこにもなく、変わりに間の抜けた悲鳴が耳の向こう側から響いてきた。
驚いて目を見開くと同時に、地面にナイフが音を立てて落ちるのが視界に入ってくる。
鈍い音を立てて男が尻餅をつき、彼の後方にいた大人たちも恐怖におののいた表情で後退するのが見えた。
「………。遅くなってしまった。」
「ひ…ひあ……ひ…っ」
大きなため息が静かに聞こえると、革靴の音を響かせて黒く長いマントが視界を埋め尽くす。
マントの中から現れた白い手が私の方へと伸びてくると、そっと指先が頬へと触れられた。
「痛かっただろう?……あぁ、こんなに傷だらけにされてしまって…」
「……んっ。」
彼は白い手で私の腕を持ち上げると、ためらうことなく顔を近づける。
赤い舌が整った口の中から覗いたと思えば、私の傷口を舐め上げた。
鋭い痛みが舌先から伝わり思わず顔をしかめると、赤い瞳が私の顔をじっと見つめてくる。
次の瞬間には傷口はふさがり、舐めあげられた部位から痛みが遠のくのを感じた。
「昔と変わらず、とても甘美な味がするよ。もう少し、我慢できる?」
「…え、えっと…」
長い金色の髪を揺らし、彼はくすりとほほ笑むと傷口の開いたままになったもう片方の私の腕を片手でつかみあげる。
私が頷くよりも早く彼は顔を動かし、地面に滴れそうになった私の血を赤い舌で吸い上げた。
彼が血を飲み込むたびに、今まで私を殺そうと躍起になっていた大人が震えたような弱弱しい悲鳴をあげる。
「後は帰ったら処置をしよう。とりあえず止血はできたからね。……立てるかな?」
「だ、大丈夫…。だと、思い…ます。」
「無理は良くないよ。」
子供を説き伏せるように優しく言葉をかけてくる彼を見て、私は伝えたい言葉や言いたい言葉が溢れかえってしまい、思ったように頭が動かなくなってしまう。
今の今まで考えていたことを忘れてしまい頭が真っ白になり、ただ彼の言葉に端的に答える事しかできない。
「っ?」
彼は自分の服が汚れるとも思っていないのか、生傷だらけの私の身体へと近づくと、ひょいと軽々と身体を抱え上げてしまった。
人の体温よりも少しばかり冷たい彼の身体だったが、今は温かみを感じてしまう。
「あ…あの…」
「お話は帰ってからしようか。今は…ね?」
「え…っと……はい。」
やっと安心できると頭が理解できたのだろう、急に震えが収まりだし、彼にすがる様に私は抱き着いてしまった。
「大丈夫だよ。…もう、誰も君へ触れさせない。」
「な…何も…者…だっ!」
「……。」
震えた声で叫んだ男の声が耳にこびりつき、私は不安げな表情で彼の胸にすがりながら男の方へと視線を向ける。
先程まであれほど血気盛んにナイフを振り回していた明生家の夫婦と、彼らの仲間達が一つにかたまり、皆が同じように彼と私を恐怖におののいた顔で見つめていた。
「……お前達がこの子を弄り遊んでいたんだね。…愚かな人間。」
「っ、か、彼女には躾として教え込んでいただけでっ!」
情けなく手を震わせ声を荒げた男を睨み、彼は呆れたようにため息をつくと、かつりと革靴を鳴らして一歩前に出る。
「もう、喋らなくていい。耳触りにもほどがある。」
「え……」
冷たい声が彼の口から発せられると、今まで声を荒げていた男がぴたりと停止し、突然とその場に倒れ込んでしまう。
よく見れば、倒れた男を取り囲むように黒い霧のようなものが地面からかすかに溢れていた。
女の甲高い悲鳴が辺りに響き、耳の奥が少し傷む。
「私の可愛いフィアンセに…お前は何をした?」
「わ、私達はっ、ななな、なにもっ!」
「ひぃぃ!」
小首を傾げ、女たちの方へと彼が一歩踏み込むと、その度に彼らは逆に後方へと下がってゆく。
彼の進む地面からは泡水のように黒い霧のようなものが湧き上がり、その度に冷たい空気が辺りにまき散らされた。
地面から這い出た黒い霧のようなものから逃げようと、情けなく地面を這いずって大人たちは動くが、彼らを取り囲むように地面から霧が湧き上がり続けている。
一歩一歩と彼が前に進むと、言葉にならない悲鳴をあげて明生家の夫婦や彼らの仲間は情けない表情を浮かべた。
「そこまでにしてやってくれ。あとは、こちらの仕事だっ。」
「む……。」
突然と頭上から女性の声が響き、私は声の方へと顔を向けようとする。
しかし、今までの疲労と安心感が身体を包みだした今、ぬぐえ切れない程の眠気が一気に襲いだしていた。
かろうじて頭を動かそうと彼の腕の中で顔を動かすが、やはりあまり長い時間目を開けていられそうもない。
コートをなびかせて地面に降り立った女性は、背中から細身の何かを引き抜き、高々と上空にそれを振り上げる。
「っっ!」
「け、警察っ!」
それを皮切りに辺り一面に様々な気配が現れ、同時にけたたましいサイレンが車道の方から響きだす。
今までそのような気配は微塵もなかったはずだが、瞬時にしてそれらは姿を現した。
「君は彼女を連れて先に帰りたまえ。どうせ、病院に連れて行こうとしても君はこちらに彼女の身柄を引き渡さないだろう?」
黒い髪を夜風になびかせた女性は、片手に構えた長い刀を指揮棒のように振りながら彼に言葉をかける。
「…そうですね。絶対に引き渡しません。」
彼は淡々と女性に答えるが、その声は今までと同じようにどこか冷たい印象を受けるものだ。
「ならば、事態が動く前に離脱してくれないか?…こちらも全てをかばいきれる自信が無い。」
呆れたようなため息をついた女性に、彼は何をいう訳でもなく小さく頭を下げると、靴の音を響かせてその場から歩きだした。
「あの…いいの…かな?」
「いいんだよ。あの人が言うんだもの。ここに居たら厄介ごとに巻き込まれてしまうよ。詠美。」
「あ…。」
彼は羽織ったマントを器用に引き寄せ、私をそれで隠す様に歩き出す。
先程の女性と話していた表情とは打って変わり、私を見つめる彼の瞳は酷く穏やかだ。
まるでその背中越しに聞こえるけたたましいサイレンの音や、情けない悲鳴など聞こえていないかのようである。
「いいかっ!全員残らず身柄を拘束しろっ!逃げ惑う奴は容赦なく扱っても許可するっ!極悪非道な犯罪者どもだっ。手加減はするなっ!」
女性の凛とした声が辺りに響き渡ると、雄叫びのような声が耳に聞こえ、まわりを幾つもの気配が通り過ぎてゆく。
その中には日ごろから親しんでいた気配が混じっており、また別の方向から通り過ぎる感覚は、感じたことが無い不思議な感覚を覚える。
多くの人々が近くを通り過ぎているはずなのだが、誰一人としてその姿は見えない。
「全く騒がしいね。日本の警察と言う奴は。」
くすりとほほ笑んだ彼は、私の顔を見て目を細める。
私はもうろうとする顔で彼を見つめ返し、大きくため息をついた。
何と言えばいいのだろうか。先程まで感じていた不安感はなくなりつつあり、今は安堵のため息しか出てこない状態である。
「リディエルさん……?」
「なんだい?詠美?」
うとうとと瞬きを繰り返しながら、私は頭上で聞こえた優しい声に微笑み返す。
「おかえり…なさい…」
リディエルさんの服を掴むように身体をすがる様に近づけ、大きく深呼吸をすると、彼の息を飲むような声が微かに聞こえた。
「ただいま…遅れてしまってごめんね……私の愛しいフィアンセ。」
彼は耳元でささやくように言葉を返してくれると、賑やかな場所を避けるように歩き続ける。
ゆらゆらと動く彼の腕の中がとても心地よく、未だに夢ではないかと思ってしまう程だ。
「もう、怖い思いはさせないよ。…ゆっくりお休み。」
彼の言葉に頷く事しかできない私は、白濁とした夢の中にいざなわれるように身体から力を抜いていった。
パトカーの音が目まぐるしい程に鳴り響き、事件は大きく進展しようとしている。
後で聞いた話だけれど、私の関わった事件はその日から数日間ワイドショーで特集を組まれるほどの騒ぎとなったらしい。
世間的に善人として慕われていた明生家の悪行は広く知れ渡り、同業者からは酷い落胆の声に包まれた。
しかし、事態を最初にくつがえしたリディエルさんの事は、誰の一人として話しは出ていない。
まるでそこに彼などいなかったと言わんばかりに、警察が全てを終結させたように世間では広まって行った。