好敵手登場
静かな時間。音楽は無く、食器が動く音だけで、ほとんど会話も無いのに、夏波は不思議と自分がリラックスしている事に気がついた。
食事が美味しいというのは、これほど、同席している相手に対して優しくなれるものなのか。
給仕をしていた星太夫も、今は向いに着席して、同じメニューを食べている。
時折、夏波と星太夫の視線は重なるが、会話は生まれず、ただ、美味なものを味わい、満たされ、幸せな気持ちになっていく。
美味しいごはんは、こうまで気持ちを豊かにしてくれるのか、と、夏波は、電車の中で空腹を満たすためだけに詰め込んだコンビニのおにぎりや、元彼との食事を思い出していた。
もちろん、コンビニのおにぎりがまずかったかというえば、そうでは無かったけれど。
何のしがらみも、利害関係も、もしかすると、生まれ育った時間も場所も違う二人が、同じものを食べて、互いに美味だと笑い合うという、この、奇跡のような巡り合わせに、少しばかり酔ってしまったのかもしれない。
とも、思っていた。
けれど、そんな、静寂で満たされた時間は、ふいの呼び鈴で終わりを告げた。
広い部屋では、扉をノックしただけでは、気づけない為か、アパートやマンションにあるようなインターフォンがついていて、チャイムの音で、星太夫が立ち上がり、ボタンを押すと、女のものらしい声がした。
「せいちゃん、そこにいるんでしょう? 出てきて」
間違いなく星太夫が室内にいると確信しているらしい声のヌシは、室内の状況も確かめず、また、自分が誰なのか名乗る事もなく、自分の要望をまず伝えた。
星太夫が返事をせずにいると、扉を蹴るような音もしてくる。
もみあうような物音とノイズがして、インターフォンに、その場にいるであろうもう一人の声が響く。
「お嬢、ちあき様、いけません、今、中にはお客様が」
いさめるように言っているのは三太郎の声だった。
もみ合う様子よりも、ドアを蹴破りそうな野蛮な音よりも、夏波の肝を冷やしたのは、三太郎らしい声があげた名前だった。
『ちあき』確かにいま、三太郎の声が呼んだ名前は『ちあき』だった。
ここは、異世界では無かったのか、自分は今、偶々ここに迷い込んだはず。
けれど、先ほど乱暴にあげられていた声は、夏波の知っている千秋のものにとてもよく似ているような気がする。
そして、『せいちゃん』という呼び方。
星太夫は、一瞬不快そうに眉をひそめて、次に不安そうな顔をしてみせた。
「……もしかして、会いたくない人?」
夏波が尋ねると、星太夫は戸惑いながら頷いた。
夏波は、少しだけ悩んでから、部屋の中を見回して、ドアを次々を開け、バスルームを確かめてから、星太夫をバスルームへ押し込んだ。
不安そうな星太夫に、夏波は、確かめるようにしてもう一度尋ねた。
「隠れていられる? 本当に会いたくないという事で間違い無い?」
夏波が、きっぱりとした口調で言うと、星太夫は、一転して、不安そうな顔では無く、困ったような顔で、バスルームから出ようとしている。
「私が出るから、ここに居て」
夏波は、どうして意固地に星太夫を隠そうとしているのかよくわからなかった。
ただ、さきほどの、『ちあき』とおぼしき女の言う、『せいちゃん』という呼び方に、幼い頃の記憶が蘇っていた。
偶然の一致にすぎないかもしれない、今、ドアを乱暴に叩いているのは、夏波の知っている『ちあき』ではないかもしれない。
しかし。
絶え間ない扉を叩く音と、止めようとする三太郎の声、タイミングを図らず、思い切って夏波がドアを開けると、力の行き先を失った足が空をきって、バランスを崩した女が一人、倒れこむようにして中に入ってきた。
女は、そのまま室内に倒れこみ、カーペットの上に転倒した。
夏波はしゃがみこみ、女を抱き起こそうとして手をさしのべた。
そして、目の前の女が、自分の知っている『千秋』であったという事を理解した。
千秋の方も、目の前にいるのが、『せいちゃん』では無いという事を瞬時に理解したようだった。
「なかがわ……かなみ」
どうやら、千秋の方も、対面している相手が誰なのかわかったようで、素早い身のこなしで立ち上がり、服についた埃をはらった。
体勢を崩す千秋を助けるそぶりも見せず、後から現れたのは三太郎だった。
「夏波、さん」
若旦那は? と、続けたそうな三太郎に、無言の圧力をかけるように夏波が睨みつけると、三太郎は降参、とばかりに両手を出して、丸腰である事を示してみせた。
「三太郎、あなた、ここにいるのがこの女だと言わなかったわね」
キッとした目つきで千秋が責めるように言ったのは、夏波では無く三太郎だった。
「お二人は、お知り合いだったんですか?」
白々しく、とぼけるように三太郎が言うと、千秋と夏波は罰が悪そうに互いを見た。
「どうかしら、私は確かに中川夏波だけど、あなたは小山千秋なの? 確かに見覚えもあるし、久しぶりではあるけれど」
むっとした様子で、千秋が答えた。
「そうよ、私は千秋、でも、今は違うわ、星流楼、若旦那、星太夫の妻になる女よ」
千秋は、夏波に尋ねられてもいない事を言ってのけた。
「それで、その妻になるお方は、来客中に何のつもり? あなたが、星流楼若旦那の奥さんになる人だというならなおさら、ここは、来客をもてなす客室のはずでしょう? それを、名前も名乗らず、こちらからの答えも待たず、ドアを乱暴に叩くようなやりようは、若女将にふさわしいふるまいと言えるの?」
夏波が、一息にまくしたてると、虚をつかれたせいか、千秋は言い返すことができなかった。
夏波は、長年胸につかえていた千秋への屈託を、一気に吐き出せた事に少しだけ満足していた。初めて会ったあの時は、圧倒されるばかりだった自分が、今や千秋に言い返せるほどになっているとは。
千秋の背後で、三太郎がぱちぱちと手をたたいているのが見えた。
千秋が、三太郎を睨みつけると、三太郎は、やれやれといった様子で首をすくめた。
「あなたには関係ない事よ」
苦し紛れにひねりだした千秋の言葉が、むなしく床にちらばって砕けた。
「関係ない? 星流楼の最上の客室で、私は今、もてなされる立場のはずでしょう? では、あなたの立場は?」
夏波は、これでもかとばかりに大上段にかまえて言った。
千秋に対して、真っ向から言ってのけるチャンスなどは、そう無いはずだ。
しかも、今回、千秋は自分から自分の立場を言っている。
このタイミングが、わずかに違ってたならば、星流楼で働く者としての立場で千秋に会っていたならば、雇い主の妻と、雇われ者という事で、とうてい上段に立って何か言ったりすることはできなかっただろう。
今だからこそ。
三太郎が余計な事を言う前に。
夏波はそう思って、一息に言ったが、三太郎は女二人のやりとりに口を挟む意志は無さそうだった。
「三太郎、本当に星太夫はここにいるの?!」
千秋は、詰問する相手を変えたようだ。
「さあ、どうだったかな」
とぼけるように言う三太郎に、千秋が顔を真っ赤にして反論した。
「なッ……さっきあなたそう言ったでしょう?」
「お得意様のおもてなしをしている、としか言ってませんよ、あなたが、客室の使用状況を調べて、女一人の部屋をみつけてきたんでしょう?」
三太郎が説明すると、千秋は赤面して、もう一度夏波の方を見た。
夏波は、何も答えなかった。
「失礼します、お騒がせして、申し訳ありませんでした」
かろうじて、絞りだすような声ではあったけれど、なけなしの礼儀をもって千秋は言うと、踵を返して出て行った。
三太郎が、そっと扉を閉めると、スイートルームに再び静寂が戻ってきた。
夏波が、バスルームへ戻ると、湯のはられていないバスタブの中で、星太夫が膝をかかえてうずくまっていた。
長身の星太夫が身体を丸めるようにしてちんまりとしている姿は、何とも情けなく、どれほどスマートで、流麗な振る舞いを見せていても、顔半分を覆う仮面をつけて三太郎の背後に隠れていた時の姿と、本質的には同じなのだと思った。
「ねえ、あなた、子供の頃、私と会った事は無い?」
夏波の記憶にある、一緒に竹馬をした『せいちゃん』は、今目の前にいるこの人ではないんだろうか。
……そして、
「それから、十三の夏にも」