ゆかずち温泉の七湯巡り
ゆかずち温泉、ホテル春秋は、千秋の父が経営しているホテルだ。夏休みのグループ研究として、近くの温泉について調べようと言い出したのは千秋で、どうせなら、温泉郷でやっている七湯巡りをしようという話になった。
夏波は、千秋の言い出した企画に、特に異は唱えなかった。異議を唱えたところで、他数名と組んで言い返される事は目に見えていたし、ホテルの娘である千秋が、色々便宜を図ってくれる事がわかっていたからだ。
夏波の両親は、温泉地の近くに住みながら、温泉に対してテンションが上がらない。のぼせやすく、お金を払ってまで湯に浸かる事に意味を見いだせないと言って、行楽地としてゆかずち温泉のレストランやイベントに来る事はあったけれど、日帰りの温泉施設すら、家族で立ち寄った事は無い。
母は、PTAや地域の集まりでゆかずち温泉に来ることはあったようだが、たいてい宴会にだけ顔を出して、湯につからずに帰宅していた。
そんなわけで、夏波は、温泉地近くに住みつつも、足湯以外の温泉施設には足を踏み入れた事があまり無かった。
一度は行ってみたい、という気持ちはあったので、千秋の言いなりになるのはしゃくだったが、いい機会だ、とも思っていた。
それが、間違いの元だった。
「これにスタンプを捺していけばいいんだね」
夏波が尋ねると、千秋はにこやかに、そうそう、と、答えて、他の皆にも同じように地図を渡した。
「実際のイベントは八月に入ってからなんだけど、お試しって事でね」
特別だから、と、千秋は皆に三回ほど繰り返していた。皆もそのあたりは慣れたもので、白々しくありがとう、すごい、と、口々に、心ここにあらずな様子で口先での謝礼をのべていた。
夏波は、もう感覚が麻痺していて、忘れていた。夏波が千秋を快く思っていない以上に、千秋の方も夏波を良く思っていない、それどころか、憎いとすら思っているという事に。
嫌なことを思い出したな、と、思いながら、夏波は地図に視線をおとした。
捺印箇所は七ヶ所、けれど、そこに、夏波の知っている屋号は無かった。千秋の父が経営しているホテル春秋も無いし、一軒たりとも聞いたことのある屋号が存在しない。
大日屋
月夜館
星流楼
雪輝荘
呉花亭
雨蕭閣
闇音陣
七ヶ所のうち一箇所が、今いる星流楼、それから、路面電車の車掌とのやりとりで耳にした、雪輝荘、かろうじてわかるのはその二つだけ。けれど、源泉が配分される階段の両脇に並ぶようにして建っているその場所については、おぼろげではあるが記憶に残っている。
ホテル春秋があったと思われる場所にあるのは……。
「お待たせしました」
扉が開き、三太郎が姿を表した。背後にいるもう一人。漆黒の髪は綺麗に三つ編みで一つにくくられ、三太郎とよく似た洋装だが、色は髪と同じ黒。
「私は仕事に戻らなくてはなりません、これから先は、若旦那がご案内します」
そう言われて、夏波は驚いた。
「若旦那……って?」
夏波は、三太郎の周囲を二度見した。
「こちらが、若旦那ですよ?」
三太郎が背後に控えていた黒衣の青年の肩をもってずいっと夏波の前に押し出すと、夏波と青年の目が合った。
切れ長な目元、すっと通った鼻筋は、美形と言っていい風貌で、顔半分を仮面で覆って、ほとんど口をきかず、時折素っ頓狂な声をあげていた若旦那と同一人物とは思えなかった。