番所へ行くか、行かないか
中居のような着物姿の女性が、ティーセットを運んできてお茶を入れてくれた。夏波は、路面電車といい、温泉街の光景といい、少し古い時代の印象を持っていたので、西洋風のティーポットが出てきた事に少し驚いていた。
けれど、星太夫は和装だが、三太郎は洋装であったし、路面電車の車掌も、今思えば洋装だった。この『ゆかずち温泉郷』がどんな世界かはともかく、夏波の知っている時代よりも、技術的にはやや古い感じがするものの、文化的なものに関しては、和洋折衷なのかもしれない、と、思った。
入れてもらった紅茶は美味しく、それだけで夏波の機嫌は良くなった。
「ところで一つ提案があるんだけど」
美味しそうに紅茶を飲んでいる夏波に、下手にでるような猫なで声で三太郎が言った。
「何ですか?」
夏波の言葉の後、一拍の沈黙を経て、三太郎が言った。
「数日でいいんだけど、この宿を手伝ってもらえないかな、もちろん、報酬は出すし、勤務時間外に温泉に入ってもらってもかまわない」
「私が? でも、私、ユキヒトって奴なんですよね、働いちゃっていいんですか?」
「過去に例はあるんだよ、ほら、神隠し、とかって聞いたことは無い? ユキヒトは一種の来訪者で、いずれは帰るものだけど、短い時間この地に滞在して、それなりに楽しむユキヒトは多いんだよ」
「でも、番所? ってところに行かないといけないんじゃ……」
「ダメだ!」
唐突に、星太夫が大きな声を出した。夏波は、星太夫がこんなに大きな声を出せるという事に驚き、やはり前後の脈絡なく唐突に会話に参加する事に戸惑っていた。
「え……」
驚いた夏波が星太夫を見ると、仮面と前髪に隠され、わずかにのぞく肌が真っ赤になっているのが見えた。
夏波は、どう反応したらいいか困って三太郎の方を見た。
三太郎は、少し興奮気味の星太夫をいさめるように両肩を抑え、ぽんぽんと肩を叩いた。
「若旦那、落ち着いて」
三太郎は星太夫の両肩を掴んだまま、夏波に言った。
「お嬢さん、番所にお連れしてもいいんだが、今日はもう刻限が遅いんですよ、ねえ、若旦那、今から言っても、結局とんぼ返りになるって、言いたかったんでしょう?」
諭すように三太郎が言うと、星太夫は少し落ち着いたのか、わずかに浮かせた腰を落ち着けて、先ほどの夏波がそうであったように、深くソファに腰掛けた。
星太夫の動きを視線の端にとらえるように気にかけながら、三太郎が言った。
「番所というのは、この世界の維持・管理をしている場所なんですよ、あなたがここへ迷い込んだきっかけも、元は番所で何か起きたのかも知れません、それは、私の方で確認しておきますから、どうですか、今晩は当宿へ一泊して、明日からうちで働いてもらうというのは」
三太郎が一息に言うと、夏波は少しだけ迷っているように視線を泳がせた。
「仕事は、難しいものではありませんよ、まあ、明日やってみて、やはりできないという事でしたら、それから番所へお連れしますから」
三太郎はかなり譲歩をしてくれているように、夏波には思えた。
そして、そこまで言うのであれば、三太郎の言い分に従ってもいいかもしれない、とも、思えた。
「……わかりました」
夏波が答えると、三太郎はぱっと顔を明るくして、心からほっとした顔をした。
「では、早速夕食へご案内しましょう、すぐに案内の者を連れてきますので、このままここでお待ちいただいてもよいですか?」
そう言うと、三太郎は星太夫を連れて部屋から出ていってしまった。
残された夏波は、所在なく、室内を見回した。
見れば見るほど、調度類は意匠は古いものの、煤けてはいない。博物館にあるような代物が完全動作する形で再現されている、一種テーマパークのようにも夏波には思えた。
おおがかりなドッキリという線は無いよね、と、夏波は考えたりもしたけれど、ゆかずち温泉に縁もゆかりも無い自分が、ドッキリの対象になるとは思いがたい。
いや……と、夏波は室内に飾られた一枚の地図に目を留めた。
階段を挟んで、七ヶ所、ポイントらしいものが書き込まれている。
さらに、そこにはスタンプのような刻印のようなものが捺印されていて、夏波は、その地図に見覚えがある事に気づいた。
『ゆかずち温泉七湯巡り』と描かれたその地図を持って、温泉を周った記憶。
あれは、何歳の時だったろう。妹はまだ小学校に入学しておらず、夏波は泣きながら追いかけてくる妹を振りきって、友人数名とバスに乗った。
そして、その中には、小山千秋も居た。
そもそも、ゆかずち温泉へ行こうと言い出したのは千秋では無かったか。
小山千秋は、幼稚園からの同級生だ。いわゆるお嬢様で、小学校中学校の千秋はまさに女王様だった。
夏波は幼稚園の入園初日、千秋に目をつけられてしまった。
はっきりとは覚えていないけれど、入園時に竹馬をして遊んでいたら、次にやらせて、と、言ってきた男の子がいた。夏波は、普通に自分が遊び終わった頃合いで竹馬を男の子に渡したのだけれど、ふいに誰かに突き飛ばされた。
夏波は、突然の事に何が起きたかわからなかった。
呆然として、見上げると、竹馬を持ってふんぞり返る女の子がいた。髪をくるくるの縦ロールにして、大きなリボンをつけている。
「せいちゃんに触らないで! せいちゃんは千秋のお友達なんだから」
夏波は、お友達が『誰かの』ものになるという感覚がよくわからなかった。友達は友達じゃないのだろうか、なんだ、『千秋の』って、と。
夏波は、近隣の中では年長で、いつも妹や、年下の子とばかり遊んでいた為、取っ組み合いでケンカをした事が無かった。
驚いた夏波が、言い返す事もできずに呆然としていると、竹馬と千秋と『せいちゃん』は立ち去って行った。
しばし呆然として、ばくばくと心臓が動いているのがわかった。夏波は、ぽろぽろと涙を流しているところを先生に見つかり、教室へ連れ戻された。
運が悪いというか、なぜか翌日高熱を出し、さらにその原因が水疱瘡だという事がわかると、入園直後、七日続けて幼稚園を休み、登園した頃には、完全に女子の輪からハブられていた。
園には、クラスごとにおままごとセットがあるが、夏波は一年間一度もそれに触る事は無かった。年少組が終わり、年中組にあがってクラスが変わるまで、女子からの『仲間はずれ』は続いた。
救いだったのは、男子とは普通に遊べたという事だった。だから、幼稚園に入園して最初の一年間、夏波は男子とばかり遊んだ。
小学校へ進むと、幸いにして千秋とは同じクラスにならなかったけれど、中学一年で、ついに二人は同じクラスになってしまった。
後からわかった事だけれど、千秋の言うところの『せいちゃん』というのは、千秋の幼なじみらしい。らしい、というのは、その『せいちゃん』が小学校に上がる前に転校してしまい、当人と直接話をする事が無く、人づてに聞いたせいだ。
中学で同じクラスになった時に、千秋は夏波にこう言った。
「いいね、夏波ちゃんは男子と仲良しで」
中学にあがった千秋は、さすがに縦ロールではなかったけれど、凝った編みこみに、近所の雑貨屋では見かけないような垢抜けた髪飾りをつけていた。
一方、夏波の方は、髪を短く切りそろえ、ぱっと見男子と見紛うような、よく言えばボーイッシュな風貌だった。
夏波が男子と仲がよく見えたのだとしたら、たまたま同じクラスに幼稚園から付き合いのある男子がいたからだ。
そして、夏波が男子と遊ばざるをえなくなったのは、どう考えても千秋の働きかけによるものだというのに、本人はそれを忘れているのか、わざと言っているのか。
夏波は、控えめに言っても千秋が好きでは無かったが、あからさまに距離をおく事もできず、なし崩しに、『友達』然として付き合いはしていた。
そして、その頃、事件は起きた。