エピローグ
夏波が駐めておいた車は、煤けてはいたが、無事だった。そもそも、こちらがわのゆかずち温泉には車が少ない。ゆかずち温泉を訪れる者は、皆、路面電車でやってくるようだ。
路面電車とっても、山を登る傾斜にそっているそれは、登山電車という方が似つかわしい。
簡単に埃をはらい、運転席に座った夏波がエンジンをかけると、無事にかかった。
溝にはまり、空転するタイヤを、星太夫の協力で抜け出し、何とか走れるところまで引き上げる事ができた。
車はこちらに置いておきたい気持ちはもちろんあったが、弟の車なわけで、一度戻ることにしたのだ。
何より、星太夫の精神衛生上、『戻らなくては』という目的がある夏波をどうにもできないから、という事もあった。一時期、だいぶその点については、二人とも忘れていた部分はあったが。
初めて夏波がくぐったトンネルによく似た場所まで、助手席に座った星太夫の案内でやってくると、夏波は一旦降りて、その様子を確かめた。
「そう! ここ! このトンネル! ……でも、なんで? 私が出てきたのは線路沿いの場所で、あそこからここまで、少しずれているように思えるんだけど」
やってきた時と同じ服の夏波と、着流しに星流楼の法被姿の星太夫は、人気のないトンネルの前で、並んでトンネルの先を見た。
「仕組みは、よくわかっていないんだ、……ただ、ユキヒト自身が境界を超える、というか、表と裏を繋いでしまう事がたまにあるらしい」
「行き来をできるのは『ユキヒト』だけなの?」
「いや、そんな事は無い、こちらには無い物もあるからね、人だけじゃなくて、『物』の行き来をするのには、電車を使うんだ」
「どういう事?」
「駅の中には、固定された場があるんだ、駅前に、運輸会社の倉庫があるだろう、あそこと、路面電車の終着駅が繋がっていて、倉庫から物を積んで、電車が物を運んでくるんだ」
「どういう仕組みになっているのか、ちょっとイメージできないなあ……」
「じゃあさ、夏波ちゃんは、インターネットがどう繋がってるかちゃんとわかってる?」
「うー、言われてみると、ルーター? とか、無線? を、ひろって繋がってる、っていうのはわかるけど……」
「世界の仕組みを全部理解、把握していなくても、それなりに周ってはいるって事さ」
「……いーのかなあ、それで」
わかったようなわからないような気持ちで、夏波が車に乗り込むと、星太夫も助手席に座った。
確かに、車がどうやって動いているかちゃんとわかっていなくても、車の運転はできるもんなあ、と、夏波は自分を納得させて、車を走らせた。
トンネルを抜けると、見慣れた国道が現れた。一時停止の表示に従って、道を曲がると、元来た道は見えなくなっていた。
「これ、大丈夫なのかな、ちゃんと『向こう』へ戻れるのかな」
夏波が不安そうに言うと、
「僕は夏波ちゃんが一緒だったらどこでもいいけどね」
と、しれっと言った。
「……なんか、星太夫ちょっと変わった?」
「そうかなあ」
「何だか、チャラくなった気がする」
「ええええ! そういうわけじゃないんだけどなあ、単に素直になっただけだよ」
運転に集中する為に、夏波は真っ直ぐ前を向いているけれど、ほのかに耳が赤くなっているのを、満足そうに星太夫は眺めている。
「ああ、こっちの温泉街、久しぶりに来たけど、だいぶ寂れてきちゃってるね」
言われて夏波も少し思った。車で便利に移動ができるせいか、道を歩いている人も少ない。
「千秋は、結局どうするのかな」
「三太郎がこちらに来る準備が出来次第戻るみたいだね」
「三太郎はいつこっちに?」
「僕が若旦那として使えるようになったら……かなあ……」
「え、それっていつ頃に?」
「さあ、できる限り早くしたい、とは思うけど、まだ、人前に出るのは緊張するしね」
呑気そうに言う星太夫には緊張感が無かった。
「私、中居として一人前になっても、星太夫が若旦那として一人前にならないなら、若女将修行始めないからね」
「ええええええ! それって、それって……」
驚いた星太夫が大声をあげた。
「だって、それってつまり……」
結婚についてはしばらくおあずけという事だ、と、星太夫は理解した。
「ちなみに、お父さんはともかくお母さんには何て言うつもり?」
「仕事が決まった、って」
「え! 僕の事は?!」
「就職先の若旦那、ってところかな」
「ええ! せめて彼氏と言ってはくれないの?」
「どうしようかなー」
ころころと笑いながら、夏波は言った。
あれ、自分、笑ってる、と、夏波は思った。
むすっとしながら、乗ってきた特急列車。憂鬱な夏休みになるはずだったのに、と。
「それに、夏休みが終わったら、一旦こちらに戻ってこないといけないし、学校も卒業しないと」
「そうなったら、次にデートできるのって……」
「桜が咲く頃、かなあ……」
タイミングよく、運動公園沿いの桜並木にさしかかっていた。今は緑の葉をたたえた並木道だけれど、桜の季節も満開になれば、桜のトンネルになる場所だ。
先ほどまでは、夏波とのドライブにはしゃいで、少しテンションを上げすぎていた星太夫は、魂が抜けたように青白い顔で呆然としいた。
「え? もしかして、車に酔った?」
あわてて車を路肩に止めて、ハザードを出す。
「大丈夫?」
シートベルトを外して、夏波が星太夫の方を覗き見ようと、顔を近づけた途端、星太夫の手が夏波の顎をつかんで、唇を寄せた。
チュッ、と、触れるだけのキスをしたところで、星太夫がいたずらっぽく笑った。
夏波は赤面して、固まってしまった。
「やった」
と、うれしそうに笑っている星太夫にあきれながら、夏波は少しだけ怒ったふりをしてシートベルトを着けて、車を出した。
緑色のトンネルをくぐりながら、目の前に温泉街が広がる、夏波と星太夫が乗った青い車は、ゆっくりとその坂を下っていった。
(終わり)




