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息を殺して潜むもの

 星流楼一階、従業員食堂は、調理場と寮を繋ぐ渡り廊下の手前にある。従業員食堂用の調理場は、メインの厨房とは別に備えられており、調理場の小物がまかないを務める事になっていた。ビュッフェ形式の大食堂の残り物などが並ぶ事もあり、まかないではあるが、それなりの質と量を備えている。


 従業員食堂の片隅で、六曜、源次郎、夏波が夕食をとっていると、古参二人はいるだけで威圧感があるというのと、あまり混雑していないせいか、他の者達からは遠巻きにされていた。話をするには都合がよいが、念の為、夏波は声をひそめて言った。


「……大丈夫なんでしょうか、本当に」


「あたしと! このジジイが組んでるんだよ、大船にのった気持ちでどーんとかまえてな」


 六曜は周囲も気にせずに上体をそらして胸を叩いた。


「そうでないと、くそじじいと話を通した俺が報われねえ、たのむぞ、くそばばあ」


 ジジイと呼ばれ意趣返しか、源次郎は六曜に悪態をつく。ちなみに、くそじじいとは、料理長、清次郎の事だ。


 今回、調理場はいわば中立であるはずだが、千秋側には清三がつき。千秋の側に調理場の協力はそれほど必要無いのだが、結果的に対立する形になってしまった。なにしろ、夏波側は調理場の協力が不可欠なのだ。


 設備室との大きな違いは、未だ、代替わりしていない料理長は源次郎と異なり、調理場を完全に把握し、調理場については、ほぼ全面協力といえる状態になっていた。


 源次郎は、清次郎に頭を下げたという。


「男の意地ってのは、張りどころを間違えちゃならんもんさ」


 快活に言う源次郎はどこか晴れやかだ。


 そういう素直さを、どうして自分の下の者に向けられないのかと、六曜は思ったが、言ったところで言い合いになる事がわかっていたので、敢えて口にはしなかった。


「人数は揃ったし、後は当日の采配にかかってる、もちろんあたしらもやるが、あんたの踏ん張りどころは明日だからね」


「まあ、俺らがついてるんだから、落ち着いてやりゃあなんとかなる」


 従業員食堂での夕食であるゆえに、乾杯をするわけにはいかないが、お茶でささやかな前祝いが開催されている頃、星太夫は三太郎と対峙していた。


--


 場所は、星流楼社長室、事務所から内階段を上がったいつもの場所だ。


「随分な心境の変化だね、僕や女将がいくら言っても逃げ続けていたのに、やっぱり初恋の少女の存在は大きいようだ」


 星太夫と三太郎は、デスクではなく、応接セットの方で対面していた。どちらも座しており、視線の高さは同じだった。


「単刀直入に聞くが、夏波ちゃんを招いたのはお前か? 三太郎」


「何故そう思う? 僕にそんな事ができるとでも?」


「お前自身には無くても、それを可能にするものがあるだろう、番所には」


 星太夫は、三太郎の余裕のある顔に苛立っている自分に気づいた。


 何故だろうか。あれほど信用して、兄のように慕っていた男の顔が、星太夫に、今はひどく嘘くさく見えた。


「もし、仮に、僕にそんな事ができたとして、どうして夏波さんを俺が呼ぶのさ」


 三太郎に理詰めで問われると、星太夫は言い返すことができない。


 今度は、三太郎が苛立つ番だった。


「……だって」


 ぽつりと星太夫が唇を尖らせる。


 三太郎はがっかりした。夏波が来て以来、じわじわと自立心のようなものを見せ始めてきていたと思ったら、あっさりとあきらめてしまう。


「あーーーー、もう!」


 三太郎が星太夫のすぐ隣に座った。


「あんたは誰なんだ、星太夫」


 三太郎の顔が星太夫のすぐ横にあった。三太郎は敢えて『若』ではなく、星太夫と呼んだ。


「俺は……、俺、だ、ゆかづち温泉星流楼、当代、……星太夫」


「ああ、そうだ、お前は、星流楼、星太夫だ、今までお前は何をしていた、引きこもり、役割を果たさず、僕の影に隠れて何をしていた?」


「……何も、してない」


「そうじゃない、六曜や源次郎に教えを乞うたりしてたろう?」


「どうして、それを」


「僕に聞けばいいのに、……まあ、秘密になってなかったけどね」


 三太郎に対する対抗意識があった事すら見ぬかれていた。


「三太郎は、俺と取って替りたいんだと思ってた」


 ふいに、素直な感情を口に出した星太夫に、三太郎は驚いた。


「どうして、そう思ったのさ」


「三太郎は……ほら」


「俺が君の異母兄だからって事? もしかりにそうだったとして、この俺が、そんな簡単に目的を気づかれると思う?」


「……思わない」


「ああ、よかった、ずっと一緒にいて、そこまで僕は理解されていないのかと悲しくなるところだったよ」


 あっけらかんと言う三太郎は、いつもの何を考えているかわからない笑顔になっていた。


 三太郎はそう言うが、星太夫からすると、どうして三太郎が自分をひきたててくれるのかはいまだにわからない。他に目的があると思った方がよほど納得できた。


「……その顔、本当にわかってないみたいだね」


 俺は哀しいよ、と、泣き崩れるようなふりをして三太郎はおどけてみせたが、星太夫としてはそら恐ろしいばかりだ。


「俺は、二番手がいいんだよ、あくまでも」


 そこで、やっと三太郎は裏も表も無い、素の顔を星太夫へ見せた。


「……今のところの一番手は俺でもかまわないって事か」


「察しが良いね、気を抜いたら出て行かれる、くらいの緊張感」


 これで、やっと同じところに並べたのだろうか、星太夫は探るように三太郎を見たが、一瞬つかみかけたと思った三太郎は、またいつものつかみ所のない様子に戻っていた。


「時に、お嬢はちゃんと見張っておいた方がいいよ、あの子が何かするとしたら今夜しかない」


「ああ、六曜が一緒に……」


「確かめた方がいい、母は、ああ見えてもか弱い女性なんだから」


「六曜でもどうにもならないような力技に出るってことか」


 すでに、星太夫は立ち上がり、部屋を出ようとしている。


「俺も行くよ、……あまり若と距離を置いていると、信用をそこないそうだからね」


 星太夫に着いて、三太郎も後に続いた。


--


 従業員用の浴室も温泉である。夏波は六曜と共に湯を使ってから、鶴の間へ向かった。


「……しっかし、こんな大事な時にあんたを放っておくなんて、若旦那も甲斐性ってもんがないねえ」


 六曜がぼやいたが、夏波はやわらかく笑うだけで明快な答えを示さなかった。


「……本当に、一人でいいのかい?」


 六曜は、社員寮に個室を持っている、当初、六曜は自分の部屋へ来るように誘ってくれていた。


「ありがとう、でも、一人になって考えたい事があって……」


 夏波が言葉を濁すと、何かしらを察したのか、六曜はそれ以上の追求はせず、ただひと言、戸締まりに気をつけて、何かあったら大声を出すんだよ、と、言いおいてから去っていった。


 夏波は、そこでようやく一人になって一息をついた。


 一人になる事の不安はあったが、落ち着いて考えをまとめる時間が欲しかった。


 迷ったら前に進むというのが夏波のいつものやり方だったが、今自分は前へ進めているのか、後退しているのか、あるいは、上へ昇っているのかもしれなければ下っているのかすらわからなかった。


 けれど、少なくとも、この地に迷い込んで以降、元カレ達の事を思い出す事は無かったし、先行きへの不安についても思い悩む隙が無かった。


 このままこの地で、生きていく事ができるんだろうか。


 声には出さずに、夏波は思った。


 すでに床がのべてあり、どうも通常の客同様にアメニティ類も揃っているようだった。


 こうしてお客様扱いされる事に、どこか居心地の悪さを感じるのは、気持ちとしては、もうスタッフ側になっているのだろうか、という、寂しさと共に。


 いや、違うな。


 夏波は息を潜める。


 星太夫は、部屋は誰にも使わせないと言っていた。布団は押入れに入っているか自分で敷くように、とも。


 襖を隔てた先は、からっぽの押入れがあるはずだが、何者かが部屋へ立ち入り、床の用意をしたという事は。


 夏波は、無言で武器にできるもは無いか、辺りを見た。


 離れの入り口の傘立てには、雨が降った時に、母屋へ行く為の傘がある。


 襖の方から意識をそらさず、引き戸を開けたまま、後退り、傘をとった。


 役に立つかはわからないが、今は手の中にある傘が頼もしかった。


 夏波はやった事は無かったが、妹は剣道の有段者で、見様見真似で一緒に素振りくらいはした事がある。ぞうきんを絞るように構え、背筋を伸ばす。


 最初の一撃さえかわせればいい、一瞬の隙をついて逃げる事ができればいいのだ。


 靴を履いて、土足のまま、襖に近づいた。


 目を閉じてはダメだ。


 視線を逸らさない、見極めて、逃げる。


 気持ちを落ち着かせて、しっかり足を踏みしめて、押入れを、開けた。


 しかし、押入れの中には誰もいなかった。ほっとして、息を着いた瞬間。


 こつ。


 肩のあたりに鈍い痛みが走り、驚いて夏波が振り返ろうとしたその時に、頭から袋がかぶせられた。


 両腕ごと拘束され、誰かにすくい上げられるようにして担がれた。足が地に着かない。


「誰か! 六曜さんッ!」


 視界は塞がれたが、声が出せる事を幸いに、夏波は大声をあげた。

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