二年ぶりの帰省
特急列車から降りると、うんざりするくらい空が青かった。
温泉地の最寄り駅だけれど、旅行では無い、それは『帰省』だった。
二年ぶりの地元の駅は、知らないうちにずいぶんと垢抜けていて、駅からはひまわり畑なども見える。
中川夏波は、大学四年生の夏休み、まるまる休む事に決めて、久しぶりに地元に戻ってきた。大学四年生の七月、本来であれば、就職先から内定をもらっていてもよい時期であるにもかかわらず、夏波の就職先は白紙のままだ。
特別高望みをしていたわけではないけれど、ことごとく『お祈りメール』を受け取ると、就職難は改善して、売り手市場になっている、などという報道は別の時代、別の世代の出来事なのではないかと思えてくる。
実家の部屋はそのままのはずで、短大を卒業して、遠方に就職を決めた妹は家を出ており、この春、地元の大学へ進学した弟と、父母のいる家に戻る為、身の回りのものは少ない。
数日分の着替えと、電子書籍用のリーダー、ノートパソコン。実家にも大量の本を残してはいるが、全部読み終わった本で、電子書籍セール半額や割引で大量にダウンロードした本が、リーダーひとつで読めるのは、本当にありがたい。技術の進歩万歳、てなものだ。
駅から徒歩五分の家から迎えに来ている者は誰もおらず、懐かしい町並みの様子の変化に驚きながら、夏波は家への道を急いだ。
途中、近隣の温泉宿から送迎に来たであろうマイクロバスやワンボックスカーが止まっているのを横目にしながら、ロータリーに出ると、最近作ったのか、見慣れないモニュメントができていた。
『ようこそ、ゆかずち温泉郷』
夏波が最後に帰省した時に見たのは、昭和感いまだ残る、色の抜けきったひび割れた代物だったものが、木材の趣を残した和モダンなモニュメントに変わっていた。
見ると、送迎のバスの方も賑わっている。夏波の記憶の中にある、どこか鄙びた雰囲気は、すっかり払拭されていた。
夏波の家は、温泉街の方では無く、駅近くの為、駅前にそれほど『温泉色』は無かったが、モニュメント一つでずいぶん雰囲気が変わるものだなと、驚いていた。
見れば、足湯も作っているようで、ほぼ完成した一角が、工事現場によくあるテントで覆われ、『足湯、もうじきオープン』と、手書きで描かれた張り紙もしてあった。
元から『ゆかずち温泉』への最寄り駅ではあったものの、昔はここまで温泉一色では無かったが、近年の国内旅行ブームか、あるいは、海外からのインバウンドが増えているせいかもしれないな、と、考えながら、夏波は実家に向かう足を早めた。
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二年ぶりの我が家は、駅前の変化に反して、あまり代わり映えしていなかった。
父は趣味の工房から出てこず、母は暑い中、熱心に庭木の手入れをしていた。子供の頃から変わらない情景、けれど、出迎えた母の髪には、明らかに白いものが増えている。
「ああ、おかえり」
電話でやりとりはしていたものの、会うのは久しぶりな娘であるはずが、母はいつもの様子で出迎えてくれた。
「お昼は?」
軍手をはずしながら、日よけをとる母の後について土間に入り、そのまま調理場へ行くと、母があらかじめ用意してくれていたのか、キンピラが煮えていた。
夏波は、行きの特急列車の中で駅弁を食べていたのだけれど、久しぶりの母の料理の美味しそうな匂いに、思わず、まだ、と、言ってしまった。
母は、残り物しかないよ、と、言いつつ、冷凍してあったご飯と、キンピラ、他、昼食の残りの惣菜類を冷蔵庫から出して並べてくれた。
「ちょっとでいいから」
などと言いながらも、しっかり食べはじめた夏波に、母は温かいお茶を入れてくれた。
久しぶりの、手作りの料理、温かな食卓は、少しささくれだっていた夏波の心を癒やしてくれた。
けれど、そこまでだった。調理場側の勝手口が開き、現れたのは父だった。
「ああ、お父さん、今夏波が」
言いかけた母の言葉を無視して、父は調理場を抜けて、あがりかまちから部屋の方へあがっていく。
……無視、か。と、夏波は思ったけれど、何か棘のある言葉をもらうより、幾分マシだと思って、何も言わなかった。
「今日帰ってくるって行った時は、うれしそうにしてたんだけどね」
苦笑しながら言う母に、夏波は特に返事はしなかった。
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二度目の昼食を終えて、満腹になった夏波が、二階にある居間でごろごろしていると、弟が帰宅してきて、二年ぶりに会う姉を発見した。
「ねーちゃん、俺、まだ、女性には夢を持っていたい年頃なんだけど……」
夏波は、流石にパンツ丸出しというわけではなかったけれど、膝上までスカートはめくれあがっており、彼氏にすら見せたことがないくらいにはくつろいでいた。待ちかねた弟の帰宅に、夏波は勢いをつけて起き上がり、早速用件を言う。
「おー、お帰り、早速頼みがあるんだけど」
「だが断る」
「あんたそれ言いたいだけでしょ」
「わかる?」
弟とは時折やりとりをしていたので、父や母とはテンションがだいぶ違っていた。
「はい」
弟は、車のキィを姉に差し出した。
「さんきゅー」
「中古だけど、あんま乱暴に乗らないでよね」
「けッ、すねかじりのぶんざいでエラそーに」
「同じ立場の人間に言われたくないですぅー、しかも、俺、実家からガッコ通ってるしー」
実は、夏波も地元の大学には合格していた。しかし、東京の大学を選んだ。父と母の、地元の大学に行くなら車を買ってやるという言葉をも振り切って。
弟の方は、両親の提案に従って、姉と同じ提案をされて、車も買ってもらったというわけだった。
「んじゃー、早速借りるわ」
「え、もう行くの? 晩飯は?」
「ちょっとひとっ走りして来るだけだよ、夕飯までには帰るから」
いそいそとカバンを手にして、家を出ようとした姉に、弟が言った。
「そういえば、小山千秋サンってねーちゃんの代だっけ」
三歳下の弟とかぶったのは小学生の時だけなのだが、その口から出た名前は、夏波の中学時代の同級生の名だった。
「あー、そうね、同じ学年だね」
忌々しそうに夏波が言った。あまり思い出したくない記憶の中に、厳然と居座る女の名だったからだ。
「……そっか、同期の友達から何か聞いたりしてない?」
「んにゃ、別に」
夏波は、SNSの類をやっていない。友人達は頻繁にfacebookなどでやりとりしているらしく、地元では比較的よく遊ぶ何人からも、まとめて連絡できてラクだから始めるよう言われた。けれど、結局やっていない。もしかしたら、そちらの方で話題になっている可能性はあるが、敢えて調べる義理は無かった。
弟は、少し考えこんで、
「ま、いいや、帰ってから話すわ」
と、答えて、姉を居間から追い出すと、テレビ台の下に据え置かれているゲーム機の電源を入れた。
思い出したくもない不快な相手の名前をふいに聞いて、せっかくのドライブの気が削がれてしまった夏波は、気を取り直して思うままに車を走らせた。
山中で、起伏が激しい道が多い事を理由に、弟の車はマニュアル車だった。合宿では無く、先日通いで免許を取得したばかりの夏波は、調子にのって少々乱暴に乗り回した。
ギアを変えて、スピードを上げ、坂道発進でエンストをやらかしながらも、車が少ない事もあり、気ままに走らせても、とがめられる心配が無いのは気持ちがよかった。
ふいに、夏特有の夕立、最近はゲリラ豪雨とも言う雨に見まわれ、待避所でしばらく停車し、やり過ごした後、今度は濃霧に見舞われた。
崖沿いの道を、ガードレールと、カーブミラーに注意深く進んだものの、もう少し待つべきか、はたまた引き返すか、悩んでいたところで見つけたのは、トンネルだった。
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トンネルを抜けると、霧は晴れていた。そして、なぜか、異様に明るく、雨にすすがれたのか、緑が目にまぶしいほどだった。
緑色のトンネル、新緑、といえる季節ではもうないはずなのに、その眩しさは新緑の輝きに似ていた。
そして、一番驚くべき事に、……バックミラーの中には、抜け出てきたはずのトンネルが、……無かった。
驚いた夏波が、車を停めて車外の様子を見てみると……。
夏波がいる場所は、道路には違いないのだが、普通の道路と様子が違っていた。
そこには、二本の線路が引かれており、見上げると架線のようなものもある。
夏波の記憶に、高校の通学に使っていた線路に、こんな場所の記憶は無い。しかも、電車の線路にしては傾斜がつきすぎている。
出てきたはずのトンネルも見当たらず、線路の上で途方に暮れていると、遠くから、チンチン、という、鐘の音がしてきた。
線路、鐘の音、で、電車が来る事を察知した夏波は、あわてて車に乗り、線路上から避けなくては、と、車を発進させたものの、脇にそれる道が見当たらず、あわててハンドルを切った結果、線路をはずれ、緑の植え込みの中へそのまま突っ込んでしまった。
幸い、速度は出ていなかったものの、タイヤが何かの溝にはまってしまったのか、アクセルをふかしても、タイヤが空転するばかりで、身動きがとれなくなってしまった。
もう一度車から降りると、線路の上を、路面電車が走っていくのが見えた。一両だけの、かわいらしい車両は、急坂をラクラク昇っていく。見れば、車両には客が乗っているのも見える。電車の本体には『ゆかずち』とあり、ゆかずち温泉行きだという事がわかる。
いつの間にこんなものができたのだろうと、スマホをさぐったが、圏外になっていて、調べる事はおろか、JAFさえ呼べそうに無い。
けれど、ゆかずち温泉行きの路面電車であるならば、線路をたどって駅から路面電車に乗ることも可能なのでは無いか。そう思った夏波は、エンジンを切って、車を放置し、線路に沿って歩き始めた。