若旦那の恋の行方
星太夫は、一人、すっかり準備を整えていた。
これで大丈夫、いつ夏波が来ても、支度はできた。
建て増しに継ぐ建て増しで、星流楼館内は、複雑な構造になっている。後から付け足しのように作られた社長室もそうだ。事務所から階段で昇り、さらにはフロアにも繋がっている。その一部は、外へ直接繋がる階段もあれば、地下へ向かう階段もある。
社長室周辺は、特に立ち入りできる者が限られているがゆえに、正しくその構造を把握している者は少ない。
星太夫が源次郎にこっそり依頼したその場所は、源次郎と星太夫以外、知る者が無い。
その部屋への扉は、本棚にカモフラージュされている。
パタパタパタパタ。
階段を早足で昇る足音に、あわてて星太夫は隠し扉を閉めた。
「失礼しますッ!」
ノックの音もそこそこに、現れたのは夏波だった。
「色々、聞いていたのと話が違うんだけれど、説明、して、もらえない?」
息を切らせながら、一息に夏波が言った。
ここからが正念場だ、と、星太夫息を吸い込んで、夏波に向き合った。
「いらっしゃると思ってました、どうぞ?」
わずかに震える腕を、それとさとられないように、星太夫は夏波にソファを薦めた。
「私は、ふりだけだと聞いていたわ、でも、あれでは……」
「待って下さい、あれは、僕も知らなかったんです」
自分でも驚くほどにスラスラと言葉が出た。そして、そんな星太夫のよどみない様子に夏波も驚いている。
「その……母が、候補が二人いるのなら、その適性を判じたい、と」
「無理よ、私も、私と組んだ源次郎さんも、千秋と藤五郎さん達とでは、勝負にならない」
星太夫が、言葉をつまらせる。
「私は、負けてもかまわないけど、あなたはそれでいいの?」
そもそもは、星太夫が婚約者でもある千秋と距離を置くためのものだったはず。しかし、今のままでは勝負にならず、星太夫の思惑通りにはいかない。
「事情を話して、お母さんに言った方が……」
「ダメですよ」
きっぱりと、星太夫が言った。
「だって、そうしたら、君は『帰って』しまうでしょう?」
夏波は、星太夫のただならぬ様子にどきりとした。
コトリ、と、何かを置いた音がした。星太夫が、仮面を外して机に置いたのだ。
「星……太、夫?」
前髪をかきあげると、顔を赤らめた星太夫がいた。
「僕は、君がいいんです」
一歩、星太夫が夏波に近づく。今はまだ、夏波のいるソファとは、間にテーブルと、椅子を隔てているものの、星太夫の様子は、それらを軽々飛び越えてきそうな鬼気迫るものがあった。
「どういう、事……」
夏波が、逃げ場所を探すように室内を見回す。
一瞬、星太夫への注意が削がれ、その隙をついたように、星太夫が一足飛びに夏波の元へ跳びかかった。
家具が大きな音をたてるが、誰かが不審に思って近づく様子は無い。
目の前に、赤面した星太夫の顔があった。
「僕は、君の事がッ……」
星太夫の手が、夏波の腕をソファへ縫い付け、逃げようとする夏波に、強引に口付けた。
「ンンッ……」
夏波が、口を閉じるよりも早く、星太夫が侵入する。
夏波は、体の自由と、呼吸を奪われ、力づくで星太夫を引き剥がそうと必死でもがいた。しかし、星太夫の力は強く、絡め取られた両腕は、押さえつけられて身動きがとれない。拒まなくては、と、夏波は思いながら、星太夫に向けられた熱情を、心のどかで好ましいものだと思っていた。絡み合う熱量に、とろかされそうになっている。
もし、両腕が自由だったならば、夏波の両手は星太夫の両腕に絡みつき、その身を委ねてしまっていたかもしれない。
反して、こんな形で奪われてはならない、とも思っていた。
ただ奪われる事を、夏波は自分に許さなかった。
そう思って、なんとか足をばたつかせるものの、夏波の両膝の間に、星太夫が足を入れ、足の自由さえも奪われる。
着慣れない着物が、着崩れて乱れる。裾は乱れて、夏波の足は腿のあたりまであらわになっていた。
息苦しさに、夏波が星太夫の舌に噛みつくと、ようやく星太夫は夏波の唇を解放した。
「どうして、こんな……」
呼吸を整えるように夏波は言いながら、驚いていた。星太夫の行動力に。
そして、思わず受け入れそうになっていた自分自身に。
星太夫の不慣れな口づけを、夏波はどこかで受け入れそうになっていた。星太夫の求めに応じて、等しく熱情を帰したいと、交わしたいと。
乱れた着物からのびる自分の肌に驚いて、夏波があわてて裾をかき合わせ、視線を上げると、赤面し、狼狽している星太夫が見えた。
「ごめん、こんな、無理矢理するつもりじゃなかったんだ、でも、君が……」
「……どうしよう」
唐突に夏波が言った。
「私、あなたの事が好きかもしれない」
急な事ではあったし、驚きもした、けれど、夏波は、それが『嫌』では無かった。
むしろ、時分の中に、どこか星太夫を求める感情すらある事に気づいてしまった。
思わず出てしまった言葉だったが、それだけに、混ざり気の無い、それは夏波の素直な気持ちだった。
夏波の言葉に面食らったのは星太夫の方だった。
星太夫の言葉を聞かずに夏波が続ける。
「でも、ダメよね、私では、星流楼の若女将にはなれない」
そう、単純に好意があるというだけで、問題は済まないのだ。
星太夫は、気軽に相手を決められないし、夏波にだって、その覚悟は無い。
第一……。
「どうして、そう思うの?」
星太夫が尋ねた。
「だって、湯引きは、人手がいると聞いたし、私はこちらに知り合いもいない、源次郎さんも、無理だって……」
「僕が手伝うよ」
星太夫が、夏波の手を握り、目を輝かせて言った。
「だから……、考えてくれる? 『ふり』では無く、本当に若女将になる事を」
「即答は……できないけど、前向きに考える、って答えでもいいかな」
おずおずと夏波が言うと、星太夫は夏波を抱きしめた。
星太夫は、夏波を抱きしめながら、隠し扉を使う事が無くなってよおかった、と、思っていた。扉の向こうに隠している、秘密の部屋の存在を夏波に告げるのは、もっとずっと先でいい。……と。




