夏空の記憶
耳に痛いほどの蝉の泣き声と、青い空、肌を焼くような、じりじりとした日差し。
十三歳の夏波は、ゆかずち温泉の階段を一人で昇ったり降りたりしていた。
一緒に行動していたはずの千秋や、クラスメートが姿を消してしまったからだ。
千秋がくれた、七湯巡りの地図。
夏波が、少しばかり長湯をしたすきに、姿を消した友人達。
ご丁寧に、夏波の下着と服、いっさいを隠し持って。
最後の良心だったのか、浴衣が一枚だけ残されていた。
十三といえば、早熟な娘であれば女性らしく体の線がまろやかになりはじめる年頃で、比較的発育のよかった夏波の身体は、薄い浴衣一枚で覆うには、女の特徴が出すぎていた。
考えすぎだ、と、思いながら、通りを過ぎていく男性達が、じろじろと身体を舐め回すようにみているような錯覚に陥る。
恥ずかしさで、顔を赤く染めながら、財布も無く、携帯電話も無く、知り合いもいない場所で、途方に暮れていた夏波の前に現れたのが、『せいちゃん』だった。
「もしかして、夏波ちゃん?」
十三の夏に再会した『せいちゃん』は、今の星太夫とは一致しない。無口でも無表情でもなく、幼い頃に竹馬で遊んだ少年の面影を残す、聡明そうな少年だった。
せいちゃんは、身体を隠すようにしている夏波に、半纏を着せかけてくれた。
どうしたの? と、尋ね、電話を貸して、母が迎えに来るまで、待たせてくれた。
別れ際に、またね、と言って微笑んでいた少年を、どうして自分は忘れていたんだろう。
後日、千秋の母が、夏波の着替え、持ち物一切を持って、謝罪に来てくれたが、千秋から謝罪がある事は無かった。
そんな陰湿ないたずらをされるほどに、夏波は何故千秋に恨みを持たれるのか、結局わからないままだった。
「千秋の許嫁ってやつ、なのかな」
縮こまっている星太夫に夏波が尋ねると、星太夫がそこで初めて顔をあげた。
バスタブの中にいる星太夫と、バスタブによりかかるようにした夏波が、ぽつりぽつりと話を始めた。
「僕は、千秋を嫁にしたく無い」
「でも、千秋は既に、あなたの奥さんになるつもりのように見えたけど」
「小さい頃から、千秋はああだ、僕がどんなに嫌がっても、どこまでもついてきて、追いかけてくる」
「せいちゃんの事が好きだからじゃないかな」
苦笑しながら夏波が言うと、
「僕はッ……好きじゃ、無い」
私も好きじゃない、と、夏波は応えたかったけれど、それは今話をするべきでは無いと、黙っていた。
「僕が、好きなのは……」
バスタブから膝立ちになった星太夫が、まっすぐ夏波を見つめた。
「僕が……好きなのは」
竹馬をしただけだった。今だって、一緒に食事をしただけだ。
夏波は、次々わいてくるある考えを、自分の中で必死に否定し続けていた。
けれど、夏波の予想が当たっているなら、千秋が夏波に対して向けている怒りの理由に説明がつく。
「その話……千秋にした?」
核心をつかない形で、夏波は星太夫に尋ねた。
星太夫は、核心には触れないまま、無言でうなずいた。
「でも、あなた達の縁談は……その、家の為、なんでしょう?」
年端もいかない、少年と少女の時分から、結婚の約束をするというのはただ事ではないはずなのだ。
たとえば、異界のはずのこの場所で、若旦那と呼ばれる立場の星太夫と、夏波のいる世界であるところの、ホテルの娘である千秋が、何故許嫁なのか、夏波には想像もつかないような理由があるのではないだろうか。
夏波の言い分が正しいのか、星太夫は答えなかった。うつむいて、膝をかかえている姿は、優雅に給仕をしていた時のスマートな所作をしていた青年とは、同じ人物にはとても見えない。
「……理由があるのなら、話、聞くよ? 私が役に立つとは思えないけど」
夏波が言うと、星太夫が顔をあげた。頬が紅潮し、瞳がきらきらしている姿は、まるで捨てられていた子犬が、主を見つけたような顔で、夏波は、星太夫の髪をくしゃくしゃにしてみたい衝動にかられたが、実行はしなかった。
料理はまだ残されている、二人はもう一度、リビングへ戻り、冷めてしまった料理の続きを楽しむ事にした。
幸い、温かいままでなくても、味の落ちないものばかりで、空腹を満たす以上の満足感に、夏波は千秋に再会した事で落ち込んでいた気持ちを、少しではあるが上向かせる事に成功した。
食後には、星太夫がコーヒーを入れてくれた。
ミルで、豆を引き、ドリップペーパーに、銀色のポットから湯が注がれる。
ただ、それだけの事なのに、星太夫の所作は美しかった。
宿の若旦那というよりは、星太夫の所作は、カフェのマスターや、メートルデトルのような、直接対面して接客する為のスキルが高いように、夏波には思えた。
もちろん、ひどく無口で、必要最低限の事しかしゃべらない星太夫は、接客には適していないように思えるのだけれど、直接会話をする機会を減らしたらどうなるだろう。
「星太夫は、若旦那になるのがイヤなの?」
ふいに、夏波が尋ねると、星太夫は驚いた様子で目をむいた。
それは、何故そう思うのか、聞き返しているようにも見えた。
「何となく、三太郎の陰に隠れている時よりも、今、そうやってコーヒーを入れたり、給仕をしてくれている時の方が楽しそうに見えるから」
ポットから、カップにコーヒーを注ぎ、ソーサーと一緒に夏波の前に置かれた。角砂糖やミルクなども並べられていたけれど、夏波はまずは何もいれずに、
「いただきます」
と、言って一口飲んだ。
「美味しい」
もちろん、豆がよいものなのだろうけれど、星太夫の入れてくれたコーヒーは美味だった。異世界では、コーヒー豆はどうやってあがなうんだろう。夏波は思いながら、コーヒーの芳醇な香りをすいこんだ。
ふと、星太夫と目が合った。
わずかではあるが、うれしそうにしているように、夏波には見えた。
異世界、と、三太郎は言っていた。けれど、街の雰囲気以外、夏波には、自分のいた世界と大きく異なっているようには思えなかった。
たどりつく為に、特殊な手段か、何らかの力が必要なのかもしれない、けれど、少なくとも、今、この時まで、食べるものも、いる場所も、自分のいた世界と地続きな、ただ『見知らぬ土地』にいるだけのような気持ちにすらなる。
『帰る為の手段』さえわかり、そして、『もう一度来る方法』がわかるのであれば、また来てみたい、とすら、夏波は思い始めていた。
「千秋と僕は、生まれた時から結婚する事が決められていた」
ふに、星太夫が語り始めた。
「その前に一つ聞いていい? あなたと千秋は元々は『こちら』の人なの?」
三太郎の言うとおり、こちら側のゆかずち温泉が異世界であるならば、二人は夏波とは生きる世界を違える存在という事になりはすまいか、と、いう事を確かめたくて、夏波は聞いた。
「僕はそうだけど、千秋は違う、ゆかずち温泉には七つの宿がある、それは、こちら側にも、君のいた方にも、それぞれ七つずつ、そして、それらは、表裏一体、互いが互いの存在を知っているんだ」
「つまり、千秋は私と同じ世界のゆかずち温泉のホテルの娘で、あなたは、こちら側のゆかずち温泉の旅館の跡取り息子という事?」
夏波が尋ねると、星太夫は納得したようにうなずいた。
「仮に、君がいた方を『表』こちら側を『裏』と呼ぶと、表と裏、かつては、どちらにも七つの宿があって、七つの宿は、互いに縁組し、のゆかずち温泉を維持していた」
これまでの無口とはうってかわって、星太夫の説明する言葉にはよどみが無かった。
説明する事が思い描かれていれば、言葉に迷いが無いのかもしれない。
「けれど、ここ数十年で、『表』側の言い伝えが絶えてしまった、『裏』のゆかずち温泉の存在は、宿の主とわずかな近親者しか知らない、けれど、財政破綻で経営者が変わったり、主が意図的に『裏』のゆかずち温泉の存在を隠したりして、現時点で、『表』と『裏』の縁は弱まってしまった」
星太夫は、少し迷ったような顔をして、続けた。
「僕は、こちら側の生まれではあるけれど、母は違うんだ、母は、『表』から嫁いできた存在、だから、僕は小さい頃、『表』側で育てられた、……多分、将来『表』から嫁をもらう為の布石だったんだろうね、そこで、僕は千秋に会った」
星太夫は、遠い目をして、幼い頃の出来事を思い返しているようだ。
千秋が、『あの』千秋が、星太夫に対して『のみ』殊勝だったとは、夏波には思えなかった。
千秋は、自分の性質を、それほど悪いものだは思ってはいないだろう、けれど、底意地の悪さを自覚できるくらいだったら、あんな娘にはならないような気がする。
夏波とて、聖人君子ではないが、千秋ほどに、相手に対して自分の都合を強く押し付けたり、我が通らずに癇癪をおこしたりする事は無い。
元々の性質なのか、お嬢様としてちやほや育てられ続けた結果があれなのか、夏波には、元の性質なのではないかと思った。
けれど、千秋が、『せいちゃん』をとても気に入って、好きだった事は、夏波にもわかった。
いくら千秋といえども、好きな男の子の前では、かわいらしい面を見せる事だってあるのではないだろうか。
「僕は、千秋が怖いんだ、真っ直ぐに向けられる感情が、本人は愛情だと思っているのかも知れないけど……」
怯えたように言う星太夫は、男としては情けないのかもしれないけれど、と、少し自嘲気味に苦笑いしながら言った。
「でも、結婚しないといけないんでしょう?」
『裏』のゆかずち温泉のルールが何なのか、夏波にはわからない。けれど、自分のいた世界でも、いわゆる名家や、王家のような、やんごとなき家の人たちというのは、思い通りに好きな相手と結婚するというわけにはいかないのだろうか。
夏波の言葉に、星太夫は、青ざめて、瞳に涙すらためているように見えた。
「……そうだ」
恐怖に、顔を青ざめながら、星太夫が言った。
「君、僕のお嫁さんになってくれない?」
「はい?」
唐突な申し出に、夏波は星太夫を二度見した。
「ちょっと待って、どうしてそういう話になるの?」
「いくら千秋でも、僕に他に好きな人がいると言えば、あきらめてくれるんじゃないかと思ったんだ」
「いや、それ、逆だから、ターゲットがあなたから私に移るだけだから!」
夏波は、幼稚園の時の事を思い出していた。夏波と星太夫が、一緒に竹馬をしていただけで、年度いっぱいハブられた。千秋の標的になる事は、できれば今後は勘弁して欲しかった。
「僕が、君を守るから」
「だったら、自分の身を守ってよ、無理よ、私には、第一、私は『表』のゆかずち温泉の宿には、縁もゆかりも無いし」
「君のお父さん、ゆかずち町の役場勤めだよね」
何でそんな事を知っているんだろう、と、夏波は思いながら、もしかして、千秋からそんな話を聞いたのかもしれない、とも思った。
「そうだけど……、温泉街の方とは関係ないはず……」
「いや、役場でも、一部の人間は知っているはずなんだ、でないと、戸籍の帳尻が合わなくなる。君のお父さんが、関わっていたかどうかはわからないけれど、もしかしたら、君と僕にだって『縁』は繋がるかもしれない、何しろ君は名前に季節の文字を持っているし」
後半は、何を言っているのか、夏波にはよく聞こえず、
「え? 今、なんて」
と、夏波が聞き返すと、星太夫は、これまで出したことのないような、明瞭な滑舌と声で言った。
「せめて、ふりだけでいいんだ、千秋が、僕をあきらめてくれさえすれば」
「でも、それだと、『裏』と『表』の縁ってやつは……」
「年頃の縁者は、他にもいるんだ、千秋には、そちらを」
もごもごと言う星太夫に、夏波は少し怒ったように言い返した。
「どうして? 千秋はあなたの事が好きなんでしょう? でも、それに答えられないからと言って、どうしてだますような真似をするの? さらに、他をあてがおうなんて……それは、傲慢な事だし、そういう風に、誰かを自分の思い通りに動かそうとするのは、あなたが怖がっている千秋と同じよ」
夏波は、千秋の事が好きでは無いし、星太夫が、千秋を好きになれない気持ちも何となくはわかる、けれど、だからといって、こっそりと騙すようなやり方は卑怯だし、断るのならば、きちんと向き合って断るべきだと思ったのだ。
「……ごめん」
星太夫が、素直に謝ってくれたので、夏波は、星太夫に失望せずに済んだ。
「でも、千秋を恐れる気持ちはわかる、……そうだなあ、その、他の人っていうのは、どんな人? 千秋の事をどう思っている?」
夏波が尋ねると、星太夫が答えた。
「彼は、ちょっと事情があるんだ、……でも、そうだな、千秋の事は気に入っている、少なくとも、僕よりはずっと」
「……そのお相手は、千秋のおメガネにかないそうなの?」
夏波が尋ねると、星太夫は、かくかくと首を縦に振った。
少しばかり、夏波は思案した。星太夫が千秋を恐れ、対峙できないのであれば。
「……わかった」
夏波が言うと、星太夫が目を輝かせた。
「本当に?!」
ずいっと、星太夫が身を乗り出すと、夏波の目の前に星太夫の顔があった。
よく見ると、星太夫は睫毛も長く、目も切れ長で、至近距離で見ると、美形である事がわかった。
これが、千秋の好みであるのだとすると、簡単に他の相手がいたとして、納得するものだろうか、とも思った。




