その0 狙撃手と神の実験台
『狙撃』。
狭義には目標を狙って撃つこと。
現在は、対象を遠方から精密射撃することを指す。 (明鏡大辞苑 第6版)
「………………ふむ」
『狙撃手』。
標的を長距離を隔てて銃で撃つことを専門とした職種。 (同上)
別名、
────────────『スナイパー』
「……見つけた」
廃ビルの屋上。
彼女のメタルフレームの奥の瞳はスコープを覗いていた。
はるか前方には三人の団体が。いずれも武装しており、ガラの悪そうな男達だ。街のはずれの路地裏、その広場で煙草なんかを吸っており、
おそらく笑っているのだろう。スコープ越しの顔が大口を開けている。彼女の手元の、お尋ね者を乗せた写真と全く同じ表情だ。前科百犯、Dead or alive no ask .
西から風が吹く。
煩わしそうに彼女は長髪を抑えた。今打てば弾丸は軌道上で反れ、目標には当たらない。
中距離の射撃と異なり、狙撃を行う際はあらゆる要素を考慮しなければならない。
風に関することはもちろんのこと、重力による弾道の下降、気温、気圧、湿度、大気のわずかな揺らぎすら、飛ぶ弾丸に影響を与えることがあるのだ。
対象との距離が離れれば離れるほど極めて高度な計算、予測、そして天性の感覚を要求される。
実際、ハオルチア大陸の銃使いの中でスナイパーの数が少ない理由の一つが、この技術的な難易度である。
彼女のように相棒を雇わなければ、さらにその倍率は跳ね上がるのだ。
風がやんだ。
「……一人目」
狙撃の利点、その1 『超遠距離からの攻撃』。
対象を1000m以上隔てた遠い距離から攻撃することは、
言うまでもなく絶大な利点である。
遮蔽物に隠れる、急所を防御するなど対策は容易であるものの、
こちらの攻撃は届き、相手の攻撃は届かない。
それが戦いにおいてどれほど強力な武器となるかは、
もはや記すまでもない。
銃声。
反動で身体が揺れる。耳にかけていた長い銀髪がパラリと解け、緩やかに肩にかかった。
一気に周囲に硝煙の匂いが散る。嗅ぎ慣れた空気に一度鼻をならす。
スコープ越しの対象、その利き足から鮮血が舞うのを確認すると、彼女はゆっくりと目を離した。ライフルのレバーを引いて、薬莢を叩き落とす。
からりからりという音が止む頃にはもう、次弾を装填していた。ボルトを押し込む機械的な音。
再びスコープを覗く。
十字の中央。痛みに悶絶する一人の男の姿。あの場にいれば、きっと悶え苦しむ悲鳴を聞き取ることができるだろう。
彼女の周囲では、虎落笛と遠くの鳥の鳴き声でほとんどかき消されてしまう。まるでスコープ越しに無声映画を見ているかのようであった。
再び、荒い風が止む。なびく銀色の髪が肩に落ちた。
ところが、今度は引き金を引かない。装填されたばかりの銃弾は、まだライフルの中に存在していた。
「十人いるはずなんですがねえ。おや……」
ビンゴ。
ソラは小さく呟いた。ターゲットは七人。その全員が悶える男の元へ駆け寄ったからだ。
狙撃の利点、その2 『対象の協力者の補足』
対象をあえて即死させないことも、ときには有効である。
特に対象が一人ではなく複数で、
なおかつその各々の仲間意識や連帯感が強固なものである場合、
そのうち一人を『殺害』するのではなく『重傷』にすることで、
残る全員を強制的にあぶりだすことも可能となる。
再び、銃声。
「……二人目」
今度は確実に『殺す』ための一発だった。
スコープ越しの男がバッタリと倒れる。
刺青とピアスを入れ放題の汚らしい顔面から血を吹き出し、それがやがて路地裏の地面に血だまりを作っていた。
ここまでくれば、馬鹿でも自分たちが『撃たれている』ことが分かる。
そして、『撃たれていることが分かる』ということ、
それはすなわち─────
「……へえ、腰が抜けましたか。前科百犯といっても、親玉以外はただのガキみたいですね」
───────『恐怖』
狙撃の利点、その3 『対象への心理的な圧力』
利点1、利点2を踏まえた上でまだ狙撃の対象が生きていた場合、
あるいは、その対象が複数いた場合。
狙撃される側に生じる『何処からともなく弾丸が飛んでくる』という心理
これはそのまま大きな精神的重圧となる。
この心理的負担は極めて絶大であり、対象の士気の低下、
および冷静な判断能力の欠落などを誘発し、
次弾以降の狙撃をそれまでの倍以上容易いものとする。
「怖いでしょうねえ……」
スコープ越しに、腰を抜かし下半身を濡らす男達。
親玉ともう一人はうまく隠れたらしい。構わない。連中がどのルートでどう逃げるかも、今までの膨大な経験からたやすく予想することができる。
それよりも今は残りのターゲットだ。せっかく動けなくなっているのだから、今仕留めておかないと勿体ない。
「楽にしてあげましょうか」
人差し指に力が入る。
……のもつかの間、スコープの向こうで大きな赤い花が咲いた。
「……三人目」
***
逃走ルートは、おそらく東側であろう。
ごみごみとした遮蔽物がたくさん存在している。なるほど正面から狙撃するには難儀そうだ。
高い建物がたくさんある場所を潜られる前に、仕留めなければならない。
彼女はスコープ越しに対象を補足していた。自分が座っている位置をずらしながら、相手を見失わないようにする。
時折その姿が隠れるものの、再び現れる場所まできちんと目で追うことができた。全く予想した通りの逃げ道だ。あくびをかみ殺す。視界が涙で滲んだ。
「さて……」
遮蔽物に入って狙撃をかわせるつもりか。
だとしたら全く、滑稽なことだ。確かに、通常の狙撃対策ならそれでいいだろう。撃たれないよう身を隠す。これ以上ないほどの防御策だ。
しかし、相手が悪かったな。『私』もそれくらいお見通しだ。彼女は再び引き金に手をかけ、ゆっくりとスコープを覗いた。
「……ん?」
そこで、
今まで見せたことのなかった表情。訝しげに眉をひそめる。
ついでそれが驚きに変わった。なんだあの青年は。
先ほどまで確かに親玉と、もう一人の子分、二人しかいなかったはずだろう。なのになぜ『三人』になっているのだ。
彼女はスコープの十字を親玉から『三人目』に移した。
「んん……?」
ジャケットにジーンズの没個性な青年。
首には何やらペンダントのようなものが光っている。