その25 大作家の遺言6
「めちゃくちゃだこんなの……! ひ、ひぃ!」
「お、落ちるぞ!」
エクスと如月は文字どおり落下し続けた。
なんといっても天と地が逆さまになっているのである。これは冗談でも誇張でもなく、本当にそれまで地面であったところが空となり、
それまで空であったところが石畳の大通りとなり、建物が建っていた。
だかたこそ、エクスと如月は落ち続ける。残念ながら二人とも空を飛ぶすべは持ち合わせていない。真っ逆さまに落下するしかなかった。
高所恐怖症の如月止水にとって、これはある意味で死よりも恐ろしい。
「これだから術士は嫌いなんだ! ひぃ、怖い! こ、怖いよう! エクス、エクス!」
「わ、わかってる! 落ち着け如月! しかしこれは……」
エクスは涙目でしがみついてくる如月を必死に抱きとめながら、しかしその一方で冷静に事を見つめていた。
まだまだ落ち続けている。
そういう中で、エクスは「目」を使った。それは言うなれば「神眼」。言葉の通り「視力」を司る神によって授けられた、「ハオルチアで一番いい視力」である。
その目で、エクスは落下先を見た。
何も見えない。
あまりにも長い時間落ち続けるので、「落下」に慣れてきた。ぶるぶる震える如月の頭を落ち着かせるよう優しく撫でながら、もう一度エクスは真下を見る。
やはり、何も見えない。ハオルチアで一番いい視力をもってしても、何も見えないのである。
つまり、落下し続けてどうなるか───────そう考えると、エクスはぞっとしてきた。このまま落ち続けながら、
どうにもできず、落ちきってしまうこともできず、無限に落下してしまうかもしれない。
しかし、予想に反して意外にも早く着地することができた。
「うわっ!」
「あいてて」
どさりという音が響いた。エクスはそこではっとする。自分が大の字になって、そうして空を見上げているのである。
如月を脇に抱きとめたまま、慌てて起き上がる。地面が下にあった。大地が下に、空が上にある。見慣れた景色だった。快晴の空は、雲ひとつない。
それだけではない。傍らに人の気配があった。
「よお。大丈夫か」
「あっ! せ、セーラさん!」
「いやあ危ないところだったな。私が来なけりゃ、そのままずーっと落ち続けて、取り返しがつかなくなるところだ」
「えっ。セーラさん……あの、どうやって?」
セーラは無言で片手を動かした。
その利き手には抜き払われた彼女の愛剣、正長剣「エリュシオン」が。四尺(120cm)ほどのオリハルコンの刃が、太陽を浴びて煌々と輝いている。
それを見た瞬間、どういうからくりかエクスはわかった。セーラも頷く。
「斬ったのさ」
「そ、そうか! オリハルコンはこの世の物を何でも斬ることができるから……」
「物だけじゃない」
セーラはその長い剣を器用に回し、かつぐ。
はばきの部分で肩をとんとんとやるのが、この若い剣士の癖であった。
「文字どおり「なんでも」だ。だから、今しがた「賢者が召喚した世界」を斬ったんだ。いくら天と地が逆になってようと、正面から両断してやれば、元に戻る」
「な、なるほど」
「いやあ驚いたぜ。帝国軍が壊滅したから、私たちも警備範囲を変えたんだ。で、こっちの大通りに行ってみれば、どういうわけか上下が全部ひっくり返ってやがる。くっくっく、自分の目がおかしくなったかと思ったよ」
と笑っていたセーラであったが、すぐに真剣な表情に戻る。
「というわけで、お前らは引き続きアイリスを頼む。彼女を安否を確認しにいくんだろう」
「あ、そうでした。セーラさんも気をつけて。あの、向こうに「賢者」がいますよ」
「おうよ」
***
それから二人はセーラと別れた。
「おい如月、もう大丈夫だ。ほら、何にも高くない」
「う、うん」
それまでしっかとエクスにしがみついていた如月は、ようやく抱きつくのをやめる。
恐る恐ると行った調子で、下駄で数回地面を叩く。
はりぼてでもなんでもなく、無論天地が逆転することもない。しっかりとした地面がそこにあるとわかると、やっと握っていたエクスの手を離す。
それから安堵のため息をついた。
「全く……許せぬ、あの術士」
「とにかくアイリスのところへ行こう。話はそれからだ」
エクスは駆け出そうとした。
ところがである。ふと如月は足を止めている。振り返ると、なにやら思案している様子であった。
「どうした。如月?」
「……ちょっと待て。さっきセーラはなんと言った?」
「えっ。アイリスの様子を見てこいと……」
「その前だ。「引き続き」と言っただろう。引き続きアイリスの様子を……と」
「ああ、そういえば」
「どうしてセーラが、私たちの動向をあらかじめ知ってるんだ。私達がアイリスのところへ行くのは、急遽決まったことだろう?」
あっとエクスは声を上げる。
その通りである。もともとエクスたちは、本来なら中央図書館を警備しているはずなのである。
それを、第六真打ち、ロロ・ペヨーテの機転で、アイリスのもとへ向かうこととなった。それは今しがた決まったことなのである。
例えば、
「なんだお前ら。どうしてここに?」
とセーラが開口一番言ったのなら、特におかしくはないのだが。
しかし────エクスも先ほどのセーラとの会話を思い出した。
不自然なのはそれだけではない。話はさらに遡り、ちょうど「幻想の国」へ入国した当時───その警備の手順を、参謀のカンロから聞いた時の話である。
アイリスとセーラが組んで、中央図書館正面、およびどこへ続く大通りを警邏している。
アイリスとセーラが組んで。
「……アイリスは剣征会の裏切り者と戦おうとした。だから本来の警備を離れた、これはわかるが」
「セーラはどうして……」
その先を、二人は言わなかった。言うのも想像するのも恐ろしい。
ただ如月は振り返る。前方の角を曲がったら、先ほどセーラに助けられた大通りである。
当然ながら人払いが行われ、無人。
「エクス、御主はアイリスを頼む」
「え、お前まさか」
「大丈夫。確認しに行くだけだ。そもそも、「歌姫」はあと一週間猶予があるんだから。ソラも言ってただろう」
「そうだが……」
「私もあとで追いつく。だから、御主は先に言ってくれ」
「……わかった」とエクスは言う。
「ああ待て如月!」
「?」
「きっと追いついてこいよ! その、俺はへたれだからな。一人より二人で行動したい」
セーラの元へ駆け出そうとしていた如月は、エクスの言葉に片手を上げる。
「きっとまた合流するさ」と、若い和装の少女は言った。
***
再び如月はセーラの元へ戻った。
セーラ・レアレンシスは無人の本屋の軒先に寄りかかっている。陽を避けているらしい。しかしその目は大通りのはるか向こうに向けられていた。
無論のこと、視線の先の───ずっとずっと先の「賢者」ゼダムに注釈してるのである。
現在「賢者」たちの目的は定かではない。フィンフィアとゼダムは「永遠の書・第11巻」その原本を求めているのだが、それは実のところ極秘であり。したがって、セーラたちは知る由もなかった。
何かことを起こさなければ、自警団である剣征会は手出しできない。しかし、何かことを起こせばすぐさま切り込むつもりである。
そのセーラは、如月を見ると驚いた顔をした。
「あれっ。どうしたんだ如月、お前はエクスと一緒にアイリスを……」
「なに、こちらの様子も気になったのでな」
セーラはもう正長剣「エリュシオン」を背中の鞘に収めていた。
そのまま本屋の壁に寄りかかっている。時折銀の鞘がぶつかり、こつこつと小さな音を奏でた。
「どうしたんだそんなところに突っ立って。こっちにこいよ。暑いだろう。そもそも遠いし話にくいぞ」
「いや、ここで結構だ」
互いの距離は五間(5.4m)ほどであった。なるほど会話しにくい。
だらりと如月は右手を下げている。直後に吹いた突風がポニーテールの髪を揺らしたが、それは左手で抑えるのみ。利き手は常に、腰の刀のそばにある。
セーラは如月のそんな様子をちらりと見て、それから「はは」とわずかに笑った。
「……なるほど。ここで結構か」
どうやら今のやりとりで、セーラは如月が戻ってきた真意を読み取ったようである。
セーラはため息をついた。乾いた風が彼女の濃い橙色の剣装と、二本の鮮やかな橙色のおさげを揺らした。
「冗談じゃない。私は私だぞ。そんなに警戒するな、如月。そもそも「歌姫」の猶予はあと7日あるんだから」
「私だって、疑いたくないさ」
「あのなあ、ほれみろ。どこでどう歌姫がいるってんだ」
セーラはおどけたように両手を広げ、それからくるりと一度回る。
無論どこもおかしなことはない。背中も、着ている服も、当たり前だが得物も、全てセーラのものだ。どこも変わらない。
濃橙の剣装も、銀の鞘に納められたオリハルコンの剣も、その全てが見慣れたセーラのものである。
だが如月の警戒が変わらないとわかると、もう一度セーラは深いため息をついて、それからまた壁に寄りかかった。がちゃんと鞘のぶつかる音が響く。
「……参ったなあ」
「なあセーラ! 私も本当はこんなことしたくないんだ。でも、万一のことを考えてだな。その剣を」
「「歌」がな」
「え?」
思わず如月は聞き返す。
セーラのその言葉は小さかったが、しかし、確かに如月の耳に届いた。
「……歌が聞こえるのさ。自分の体の中から、突きあがるような「歌」がよ。きいきい声の、鼓膜が破れそうなほどの大音響、不協和音で」
「なんの話だ」
「その「歌」が!!」
大きな声である。
びくりと如月は肩を震わせる。思わず居合腰になりかけた。
セーラはそんな如月の様子を見て、くっくと喉を鳴らす。ゆっくりと壁から体を話した。
「人を殺した時だけ、すっと消える。それもただ消えるだけじゃない。聞き惚れるような、美声に変わるんだ。病みつきになる。まるで、耳から聞く麻薬みたいなもんだ」
「……」
「そうらしい」
セーラは言った。
「「歌姫」が完全に機能したら↑のようになる。カンロが調べたのさ。でも私はそんな「歌」はまだ聞こえないぜ。……って、言っても信用されないか」
セーラは困ったように、ぽりぽりと頬を掻く。「困ったな。どうすりゃいいんだ」
「なあセーラ……御主の剣を、「エリュシオン」を、渡してくれぬか」
「なに?」
「今だけでいい。もしなにか起こったら即返す。それだけじゃない。丁重に扱うさ。それに、持って行くわけじゃない。今ここで、私が持っておくだけだ」
なるほど良策である。
セーラを真打ちたらしめているのは、本人の剣術能力、身の程の長剣を片手で振り回す身体能力、そして概念や事象すら断ち切るオリハルコンの剣である。
それらは実質、得物を失ってしまえば半減してしまうのである。いや、半減ではない。四が一ほどになってしまうといってもいいだろう。
セーラは最初如月が冗談でも言っているのかと思ったらしい。しかし、如月の真剣な顔つきと、それからセーラが近づこうとした際の、
「来るな。そこから私に剣を放り投げてくれ」
という言葉で、ようやく本心であることを悟る。
するとセーラは悲しそうな顔をした。伏し目がちでそれからすっと如月から視線をそらす。
「そうかい。どうやら本当に信用されてないみたいだな」
「……悪いな。私だって本当はこんなことしたくないんだが」
力なく首を振ると、それからセーラは背中に手を回す。
剣装と鞘をくくっているあさの紐の結び目をほどき、鞘ごと正長剣「エリュシオン」を外した。
銀色の鞘が、陽光を受けて眩しく輝いている。セーラはそれを如月に突き出した。
「ほれ、取りに来いよ」
「投げてくれ、そこから」
「あのなあ。私は剣士だぞ。これでも剣征会の真打ちだ」
セーラは言う。
「真打ちが自分の剣を放り投げられるか。お前だって侍なら、わかるだろう」
なるほど。
その通りである。もし妖刀「疾風」を投げろと言われたら、如月は行うだろうか。否だ。
「そもそも剣を渡すのだってご法度なんだぜ。刃の十戒に反するかもしれない。ほら、早く」
如月とセーラの視線が交錯した。
セーラの橙色の目も─────これまた普通通りだ。今まで見慣れた、強い意志を感じさせる橙色の瞳。それがあるのみである。
である、が。
どこか違和感を覚えているのも、また事実であった。そして如月はそんな自分に嫌気がさしていた。
あのセーラが。ソラの友人にして剣征会の総大将が。「歌姫」に支配されるわけないだろう。なにより、歌姫にはまだ猶予がある。七日ほど。
誤差を考えても、五日ほど。そう考えると、ありえないだろう。
「……わかった」
如月は応じた。
ゆっくりとセーラに近づき────やがて水平に差し出されたオリハルコンの正長剣「エリュシオン」を受け取ろうとした。




