その16 『幻想の国』へ6
そそくさと立ち去ろうとしていたセーラの足は、ピタリと止まっていた。
「おい」
振り返る。
ドレッドを見る橙色の瞳は、明らかに怒気が込められていた。件の隊員の怯えた表情を、ソラは思い出す。
「いくら真打ちでも、言っていいことと悪いことがあるだろ。剣帝」
「そう思うなら力づくで止めてみな、と言ってるんだ。なあ剣将。オレはお前とも斬り合いたい。勧誘された時は引き分けだったからな。
再戦の約束、果たそうじゃねえか」
鍔口を押し上げる音が響いた。
セーラ・レアレンシスが長剣「エリュシオン」の柄に手をかけたのである。彼女特有の、背を丸め重心を低く下げた構え。背中から抜き撃つ型であった。
動の剣気が、周囲に満ちた。数人止めようとするものもあったが、彼らを威圧で黙らせる。飄々としていられるのは、それこそこの場では剣帝だけである。
「……お前ら、下がんな。言っとくが、手出すなよ」
ドレッドは従者を後ろにやると、自らもその漆黒の剣を握り直す。橙と黒の剣気が混ざり合い、そして爆発しようとしていた。
まさにその瞬間だ。ソラが剣征会の本部を跨いだのである。獅子と虎が睨みあうような空間に、何も知らずに足を踏み入れた。今思い出すと肝が冷えた。
だが結果として、双方が刃を交えることなはなかったのである。
「お前が私に麻酔弾を撃ってくれて助かった、ありがとうソラ」
回想はそこで終わった。セーラの礼に、彼女は何も返さない。高い音を伴う風が吹き、セーラの二本縛った髪を揺らす。
「……「弟」とは?」
代わりにソラは問うた。銀髪を片手で抑える。
「……」
セーラは振り返らなかった。目の前でエレメンタリアを見下ろしている。
「死んだんだ」
やがてわずかな間とともに、短くそれだけ。
ソラは驚かなかった。そういう気が、なんとなくしていたのだ。でなければ仲間に真剣で切りかかるような真似はしないだろう。
無論「歌姫」の影響もそこに考えられるだろうが。
「……空賊に襲われた。私がまだ剣征会に入隊して間もない……三番隊の隊員だった頃の話だ」
「……」
「私はその時、どうしてたと思う? 剣征会の隊員として、果敢に戦ったわけじゃないぜ」
「逃げたんですか」
まだセーラはソラの方を見ない。しかしその沈黙は、肯定を表していることは明白であり。
「……お前には話すけどな」と彼女は前置きした。
「当時の家にな、踏み込まれた。治安の悪い国でな。自衛のために剣をかじっていたにもかかわらず、いざ実戦となると足が震えて手が動かない」
逃げた、とセーラはもう一度言う。それから情けないもんだ、と吐き捨てるように付け加えた。
目は景色に向けられておらず、橙は過去を追っているのである。悲鳴、絶叫、そして付随する恐怖。言わずともソラには、それが伝わるようだった。
普通とは異なるセーラの態度が、余計当時の迫真を伝える。当人の表情をうかがい知ることは、やはりできなかった。
「剣を放り捨ててとにかく走った。気がついたときにはもう、すべてが終わった後だったよ」
そこで彼女はようやっと振り返った。
いつもの血色のいい小麦色の肌は、色がない。顔色は青白く、瞳は揺れていた。
その橙色の瞳に一瞬憎悪の色が通ったことを、ソラは見逃さない。
「……剣帝を、ドレッドを殺してやろうと思った。あの時な……」
ヘラヘラ笑いながら「弟」を持ち出された時、セーラのその心に、燃え上がるようなどす黒い感情が宿ったのである。
それは消えるどころか、思い出せばまた点火されてしまいそうな勢いであり─────だからこそ彼女は今、背のエリュシオンを抜けないようロックしている。
トラブルの後すぐに、鍔と刀身の根元にかけてガッチリと鋼紐でたすき掛けしたのだ。一度あのオリハルコンの刀身を握れば、それだけで自制が効かなくなりそうだった。
殺人への渇望が、ふつふつと湧き上がる。それは忌避するどころか、まるで美声を聴くかのごとく魅力的なのである。
「……「歌姫」は……」
「ああ。いるな」
言いながらセーラは自分の下腹をさすった。ちょうど肝臓の位置である。
「ドレッドと対峙して構えた時だ。こっから悲鳴が聞こえてきた。……ような気がした。それだけじゃない。
あいつを斬りたい……それが楽しいとすら思える」
ソラは訝しげに眉をひそめた。「楽しい?」
セーラは俯いた。
「人を斬りたくて……斬りたくてたまらない。そんな気持ちになる時が時々あるんだ。ふとエリュシオンを抜きたくなる」
以前の自分では考えられないことだった。その心境の変化が─────人を斬る愉悦。そういうものを、セーラは今感じ始めていた。
「活人」。人を守るために剣を抜くのではなく、「殺人」のために抜こうとしている。
「……やはり……」
ソラは立ち上がった。
「こけおどしでもなんでもなく、「歌姫」は確実に効果を現し始めている。解除条件を何としても見つけなくては」
「その話、確かに聞かせてもらったのである」
そこに伝わる第三の声。
ソラは素早く「ランド」に手をかけて振り向いた。入口の階段の方からである。
「待てソラ、いい。彼女は味方だ。うちの参謀だ」
「あら、失礼」
セーラの言葉に「いかく」しようとしていたランドの銃身を下げる。
現れたのは蜜色の剣装に身を包んだ華奢な少女──────カンロ・アラニアクローバーであった。剣征会で唯一剣士ではなく、武器も所持していない。
代わりにその右腰には大きな蜜瓶がつられている。
「ソラ殿であるか。セーラ殿の旧友の。話は彼女から聞いておる。お初お目にかかる」
「まあまあ、どうもご丁寧に」
手短な挨拶と自己紹介に、ソラも同じように返した。
どこまで名乗ろうか迷ったが、向こうは言葉の通り、歩い程度は知っているらしい。「スナイパーらしいな」と付け加えられる。
とはいえそんなことどうでもよかった。直後にカンロが、ソラたちにとって驚くべきことを述べたからである。
「「歌姫」の大方のことは、わかったぞ」
「えっ!?」
ソラとセーラ、双方同時に素っ頓狂な声を上げたのはいうまでもない。




