その13 幻想の国へ2
「コーヒーでも淹れましょう」
さて仕事の話はこれで終わりだというように、彼女は立ち上がる。
「いやいや、僕が。「賢者」を動かすわけにはいかない」
彼女を制すると、バロンボルトは流しに立った。
手際よくカップを準備する。フィンフィアは安楽椅子に座り直し、その背中を眺めた。
「……どうでもいいことよ。「賢者」なんて」
「一度くらい僕もそういうセリフを言ってみたいものだ」
「あなたがゼダムの下についたから、私も元老院に入ったのよ。そもそもあの召喚士のところじゃなくて、私の下にくればよかったのに」
豆を直接マグカップの中に入れる。剣のつかをわずかに動かすと、たちまち芳醇な香りが満ちた。
「いや。私「が」あなたの下に着けばよかったわ。そうすればいつも一緒に居られるもの」
「よしてくれ。賢者を部下に? 冗談じゃない」
マグカップの一つを──赤いほうをフィンフィアの前に置く。
もう一つ、青いほうを引き寄せ彼は座った。
「その様子じゃあ、『歌姫』のほうも順調みたいだな」
「ああ。あれは順調も何もないわ。剣征会の真打ちの肝臓で、いま少しずつ歌い始めてるはずよ」
対象を介してその「悪」を増幅させる錬金精製物「歌姫」。
非常に複雑かつ繊細な工程を要するそれを苦もなく作り上げ、学術的興味というだけで試す。バロンボルトは自分の恋人の膨大な魔力に、身内ながら恐ろしくもあった。
「賢者」は古から畏怖される存在である。ある国では彼、あるいは彼女を神と崇め、ある国では魔王と恐れる。一定の敬意と恐怖が混在しているのである。
その賢者が、今回。幻想の国に2体。
もっとも、やはりどーでもいいとフィンフィアは思っているらしかった。その証拠にゼダムからの文を、封を開こうともしない。
バロンボルトは横から開けたい欲求に駆られたが、封は賢者の魔力でしか破れなかった。
「今日は、泊まっていってよ」
「それはできない。泊まりたいのは山々だが、ゼダムさまが待ってる」
「あいつには私から言っておくから。少しくらい待たせたほうがいいわ。どうせ今は前祭、私たちが動くのは一週間後の本祭中なのだから」
そうk─────
言おうとしたバロンボルトの口が柔らかいもので塞がれる。離れると、二人の唇から唾液の架け橋がたわみ、服に落ちた。
「賢者になりたいならね、欲求に忠実になることよ。規律に背いて、我を通してこその大魔法使い。
他の奴らをご覧なさい。そんなのばっかりでしょう」
「……なるほど。確かに一理あるな」
バロンボルトは直属の上司を思い浮かべた。いやはや確かに。あの老召喚術士のわがままに振り回されたのは一度や二度ではない。
一番直近ではつい先日、銀色のスナイパーを襲った時だ。彼がそう思考していると、目の前のもう一人の賢者はわずかに笑った。
「でしょう? 我慢しても体に悪いわ。……ねえ」
もう一度、今度は長いキスだった。バロンボルトの方から舌を入れる。粘膜をこすり合わせる水音が、静かな宝石鑑定屋に響いた。
そこにチャイムが重なったのは、直後のことである。互いに重なり合い、沸点を目指し上昇し始めた体温をそのままに、フィンフィアは心底うっとおしそうに入り口を見た。
ノックの音が響く。返事をすることなく彼女は杖を振る。間髪入れずがちゃんと錠が下される音が響いた。あれ? フィンフィアさん? 変だなあ。そんな声が外から断片的に聞こえてくる。
「……いいのかい?」
バロンボルトは尋ねた。
「ここでやめろっていうの」
はだけた胸元をそのままに、フィンフィアは伏し目がちに彼を見る。それもそうだとバロンボルトは思考した。
もつれ合うように抱き合いながら、二人は床に倒れる。フィンフィアは杖を一振りし、ランプの火を消した。
***
「『強くなりたい。今よりもずっと』」
「…………ふーん。…………続きは?」
「1巻はこれで終わりだぜ。しかし「永遠の書」は面白いなあ。さすが最高傑作なだけある」
「…………あ、そう」
沈むように深くソファにかけていたロロ・ペヨーテは、緩慢な動作で起き上がった。
「…………じゃあ2巻、読んで」
「えーっ。また? いや、もう勘弁してください」
「…………いいじゃないの。暇なんでしょ。運転手なら」
「いや暇じゃない。あと運転手でもない」
2巻をエクスに差し出していたロロは、どろりと不健康に澱んだ視線を向けていた。彼が音読しないなら読む気はないらしく、無造作に机に投げ出す。
東部の図書館が、現在「幻想の国」の剣征会の詰所となっていた。現在アイリス、ロロ、朧、そしてドラセナの四人が警備に当たっている。各人配置についているわけで、ロロは図書館そのものを警護対象としていた。
次回更新は→9月11日(予定)




