その56 その後4
鈍い音が響いた。
無言で振り抜かれる拳。あまりにも咄嗟のことなので流石の伝説の狙撃手も避けられなかったのだろう。
『主』の目の前に火花が散る。
「いてぇ!! いってぇ! おい! なにもぶん殴ることないじゃねぇか! どういうつもりだ!」
「こっちの台詞だ!」
振り抜いた拳をそのままに如月は主を睨む。
彼は赤く腫れ上がった頬をさすっていた。ずれたサングラスを掛け直す。
「ちょっと待て、嬢ちゃん勘違いするな、あのな……」
説明しようとしてふと如月が座っている椅子を見た。なんてことはなかったのだが、その背にかけられているものに目がいく。
『新緑の羽織り』だ。まるで水晶を砕いて粉にしたかのような煌めき、触らずとも視覚だけで分かる手触りの良さ。品のいい緑色。
そういえば、目の前のこの若き剣士が羽織りを愛用していたことを思い出した。たしか前は青色のものを着用していたはずだ。
「新調したのか、それ」
「え? ああ。前のが燃えちゃったんでな」
「ふーん……どれ、ちょっと見せて。おおすげえ! こりゃ色の国『十二の巻』でも最高級の生地じゃねえか。……確か高い魔法耐性があるんだったよな?」
流石コレクターズギルド所属。とても詳しいな。
内心如月は感心しながら頷いた。軽度の衝撃ならそのまま緩衝して受け切ってしまう物理耐久、多少乱暴したところで破れない強靭さ。
そして言葉の通り、魔法由来の攻撃はそのまま無効化してしまうほどの高い耐性。生地の種類としては剣征会の剣士が鎧代わりに愛用している『剣装』のそれに近い。
それから返してもらうと……ってそんなことはどうでもいい!
「で、一体用事はなんなんだ。答えようによっちゃ今度は居合いを飛ばすぞ」
威嚇するように如月は傍の刀をつかんだ。
きちりと鍔鳴りさせるも、主は眉一つ動かさない。
「……なあ、嬢ちゃんよ」
いつものように、あるいはそれは込み入った話をするときの癖かもしれず。
懐からくしゃくしゃの紙箱を取り出し、一本のタバコ咥える。それからこれまたボロボロのライターで火をつけると、大きく煙を吸い込んだ。
心なしか主の雰囲気が変わったような気がする。自分たちの周りの空気がピンと張り詰めたような気がした。
「『歌姫』ってもんを知ってるか」
***
「……歌姫?」
如月が繰り返すと、主は頷く。
どことなく彼の雰囲気が最初と違っている。やはり勘違いではない。いつになく真剣だ。
それはそうと、『歌姫』。
聞いたことがある。すっかり忘れていたが、二度ほど。一度目は路地裏で賢者の一人、ゼダムとその部下バロンボルトと交戦した時。
二度目はついこの間だ。エクスが倒した教会の跡地に現れた錬金術士と相見えた時だ。どちらもあの魔法使い連中……主に『賢者』たちが絡んでいたのだが、当たり前なだらその実態を知らない。如月は首を振った。
「『歌姫』ってのはな─────────」
黙っていると、主はなおも続けた。
***
「────────────対象の体内で『善』を『悪』へと錬金する術のことです」
魔法国家『フォーカリア』。元老院第3議会。
時刻は夜。さすがにこの時間になるともう議会に残っている魔法使いは少なかった。各々の部屋を窓から見てみるも、明かりがついている方が少ない。
閑散とした会議室の机に寄りかかりながら、薄い萌黄色の髪の召喚士、ゼダム・モンストローサは同僚の錬金術士、フィンフィア・ジュエルコレクトの話を聞いていた。
「ほう。時間差で発動する錬金術か」
「ええ。長い時間をかけてゆっくりゆっくり、少しずつ術の対象者の善の心を悪へと変えてゆく。どのくらいの期間で全て悪へ塗り替えられるかは、ひとえに対象者の精神に寄るのですが」
黒縁メガネをかけ直しながら、フィンフィアは言う。
『歌姫』とは彼女が開発したとある術式の名称のことであった。その効力は言葉の通り『心』を蝕む。どちらかというと呪いのようなものであり。
しかし、普通の魔法とは一線を貸している。正確には心を『錬金』するのだ。人間の心、精神、その構成要素を全て『善』か『悪』かに分類した場合、
このうち『善』に相当する部分が多ければ当然ながら換装に時間がかかり、反対に少なければ短く終わる。そこにさらに対象の精神の強さも加味されていた。
「錬金が終わるとどうなる?」
ゼダムは尋ねた。
「簡単なことですよ。全く善の心を持たない人間が出来上がります」
フィンフィアは清浄の魔法で綺麗に掃除された壁に寄り掛かる。通風孔からの風に切りそろえた黒髪が揺れた。
優しさ、慈愛、親切心、愛、そういうものが全く存在しない人間へと変貌するのだ。彼女は説明する。
より正確に言うなら、『善』から成り代わった『悪』の心が、もともとあった『悪』の心に加算される。それから彼女はわずかに笑った。おおよそそれは『笑い』ではなく、どちらかといえば『嗤い』であろう。
同僚のこの冷徹な振る舞いを、ところがゼダムはもう慣れっこであった。
「強烈な殺人衝動を宿した人間、とでも言いましょうか。実際に帝国から買った奴隷の親子で実験したのですが……ええ、とても仲の良い母と娘です。
母の方に『歌姫』を打ち込んだら、10日後くらいでしたかね……」
それからフィンフィアは軽く杖を振った。
虚空に展開される『念写』の魔法。ゼダムはそこに映し出された光景を見て、わずかに顔をしかめる。
「おい、よせ。さっき食ったばっかりなんじゃぞ」
彼女もまた杖を降り、反対魔法で消去した。
「ああ失礼。ですがそういうことですよ。母親ですら子を殺すんです。それもこれ以上ないほどむごたらしい方法で苦しめて」
狂ったかのような奇声をあげながら──────いや、事実としてあれは狂っているのだろう。フィンフィアは当時の様子を思い出した。
その奇声がどこか歌のように聞こえ……
「くっくっく、だからこそ『歌姫』か。なるほど」
「まあまだ実験の段階ですがね。奴隷じゃやはり弱い。少々鍛えた、かつ若い人間で試してみたかったのです。それが……」
「セーラ・レアレンシスか。なるほどな。バロンボルトの剣を介して『歌姫』を打ち込んだのはそういう……」
納得がいったというように頷くゼダムをそのままに、フィンフィアは窓の外に目をやった。
ちょうどここ、第3議会からはフォーカリアの景色を一望できる。もう時刻は夜。魔法光がダイヤモンドの粉のごとく輝いた。




