霜葉と共に
「霜葉の如く」の廉視点バージョンです。
未読の方はさきにそちらを読んでいただけると幸いです。
※個人サイトにも掲載しています。
その日、森廉が一人でその道を通りかかったのは、まさしく不運でしかなかった。
少し表道から外れたその道は、自宅への近道であった。街はすでに黄昏を迎え、夜の帳が降りはじめていた。
廉は山南藩家老森長門守の孫娘である。
本来であればこのような時間に一人で出歩くことさえ滅多にない。この日は偶々下男たちがみな所用で家を空けていたため、仕方なく一人で家を出たのだった。
下女たちはそれを心配したが
「ほんの一刻(2時間)ほど、先生の元へ行くだけですから」
と、言い残して琴の手習いへと向かったのだった。今はその手習いからの帰路である。
「きゃあっ」
突然、廉を後ろから衝撃が襲った。続いて倒れた廉の上に、ずっしりとした重みが加わった。
(えっ、なにっ)
廉にわかったのは、六尺ばかりの小汚い男が自分の上にのしかかっていることと、男の左手が自分の襟元を押さえていることだけだった。力強く押さえつけられていることもあるが、何よりも恐怖で体が硬直し、抵抗することも、声を上げることさえもできなかった。空いていた男の右手は、今まさに帯を掴もうとしていた。
(私、このまま穢されてしまうの?)
廉を支配したのは純粋な――恐怖。
肌は粟立ち、全身は総毛だっていた。
「なぜ」「どうして」――言いようのない不安が、彼女の中を駆け廻っていた。
――嫌っ
この理不尽な暴力が……。
――嫌っ
自身を支配するこの恐怖が……。
――嫌っ
ただ自分の欲望に従う化生のような男が……。
「たす……けて……」
助けを求めて力なく絞り出したその声が、廉のせめてもの抵抗だった。
(もう、おしまいね)
廉が、全てを諦めようとしたその瞬間――
「えっ」
突然、廉は拘束と重さから解放された。
先程まで自分の恐怖の対象であった男は、泡を吹いて地に伏せていた。
「さて、ここから一番近い番所はどこだったか」
静寂を遮るように響いた声の主は、鞘を付けたままの大刀を片手にどうしたものかと思案気に首を傾げていた。
「全く、こう物騒だとおちおち飲みにも行けぬ」
その物騒な対象をのした本人が何を言うのか、と廉は場違いなことを考えている自分に気付いた。
「あの……」
兎にも角にも礼を述べねばと、廉は自身の恩人であろう武家に声をかけようとして……声を失った。ここで自分の素性を明かせば、祖父や父に迷惑をかけるかもしれない。まだ手折られてこそいないが、襲われたという事実だけで自然と不利益になる。恩人を疑うのは心苦しいが、家名に傷をつけることだけは何としても避けねばならない。
「娘御」
「は、はい」
「大事ないか?」
「え、ええ」
「そう怖がらないでもよろしい。某はこのままこやつを番所に引っ立てて行きます故」
「わ、わかりました」
「それではこれにて失礼いたす」
その武家は言いたいことだけ言ってのけると、そのまま気を失った男を引きずって去っていった。あまりの展開の速さに呆然としていた廉は、結局恩人の名前さえ聞いていないことに気付いたが、その時には肝心の武家は影も形もなかった。
「大井玄蕃」という名を廉が耳にしたのは、武家の娘として手習いを共にする娘たちと帰路を共にしている時であった。
「なんでも、また縁談がお流れになったのですってね」
「まあ、お可哀そうに」
「そうは仰いますけど、貴女はどうお思いですの?」
「いえ、それはちょっと……」
「家柄はそこそこですけど、あの容姿ではねえ」
「流石に、化生のようなお相手と添い遂げる気はありませんわ」
(化生のような……)
彼女たちが話しているのは全く関係のない人物のことだとわかっているが、廉にしてみれば先日の一件を思い起こさずにはいられない。家族には話をしたが、名前すら知らない恩人の行方など雲を掴むような話であるし、正直に言ってしまえば森家としてはこのまま何事も無かったことにしてしまうのが一番であった。
それは廉もわかっていた。何より廉が一番の被害者なのだ。それこそ、今話題になっている大井玄蕃なる人物のように縁談が調わなくなってしまいかねない。
それでも廉がその行方を探しているのは
(せめて、せめて一言お礼を申し上げたい)
あの日、自分は保身から感謝の一つも述べなかった。善意で助け、何も求めることなく去っていったあの武家に対し、自分の性根のなんと醜いことか。
(本来であれば、屋敷お迎えしてきちんとお礼するべきでしたのに)
あの時の廉にそこまで求めるのは酷なのであるが、恩人を疑ってしまったという負い目もあり、廉にとっては今に至るまでずっと忘れることができないでいた。
その時が訪れたのは、娘たちの話が大井玄蕃という男は如何に醜い風体であり、今回で二十回目を数える破談の経緯とその相手の順番まで数え終わった時だった。
「あら、噂をすれば影というやつですわね」
「みなさん、目に入れると穢れますわよ」
声を潜めてこそいるが、その内容は本人が通りかかろうとしているにもかかわらず散々なものである。
(大井玄蕃)
その男を見たこともない廉としては、そこまで悪しざまに罵られる男とは一体どんな姿をしているのか、という単純な興味だけであった。
「えっ……」
自分がどういう風に思われているか自覚しているのだろう。玄蕃はこちらの様子を見ると不快そうにすぐに顔を顰めて去っていってしまった。しかし、あれはまさしくあの日廉を助けてくれた恩人の姿だった。あの時とさして風体も変わっていないため、すぐにわかった。
「ようやく行きましたわね」
「ああ、全く不運ですわ」
「よりにもよってあの大井と遭うなんてですね」
「これから山王様で厄払いして戴こうかしら」
「ええ、そうですね」
廉は、途端に不愉快な気分を味わっていた。たしかに大井玄蕃の容姿はお世辞にも整っているとは言い難いが、そこまで悪しざまに罵るほどのものだろうか。仮に百歩譲って容姿は悪いにしても、心根まではわからないではないか。
「廉様はどうなさいますか?」
不意に声をかけられて、廉は一瞬言葉を失った。
「えと、何の話でしたかしら」
「いえ、これからあの醜男と遭った厄を払おうという話になりまして」
言われた内容が、今度は別の意味で理解できなかった。
――厄払い? なぜ? 大井玄蕃と遭ったからですって?
「ああ、そうでしたの。ごめんなさい、これから少し所用がありまして」
「それは仕方がありませんね」
廉は自分の言葉に、冷たい棘のようなものが含まれていることを自覚していた。だが、自分たちの尺度だけで人を測るこの女たちは何様だというのだろうか。ましてや相手は自分の恩人である。廉自身もつい先ほどまで知らなかったことではあるが……。
娘たちと別れて一人歩いていると、廉の中でふと疑念が湧いた。
(どうして私は大井様のことでこんなに怒りを覚えているのでしょう?)
相手はたしかに恩人ではあるが、それだけと言えばそれだけである。
(どうしてでしょう?)
一度浮かぶと頭の中を離れないのがこういった事柄である。
――果たして自分はなぜ大井玄蕃を気にしているのか。
――別に彼が陰口を叩かれていようと関係ないではないか。
そのようなことがしばらくの間ぐるぐると胸中を渦巻いていた。そんな中、ふと玄蕃の言葉が脳裏によみがえった。
『大事ないか』
言葉にしてしまえば、たった一言。だがその一言が、廉にとっては他に代えがたいほどに大切で、どうしようもないほど愛しいものに思えた。
(ああ、ああ)
(そうか、私は――)
「玄蕃様、お慕い申し上げております」
廉は自分の想いを、とうとう自覚したのであった。
自宅に帰った直後、廉は森家の当主たる祖父長門守のもとへ向かった。
「おお、廉よ。そんなに急いでどうかしたか」
「おじい様、私の恩人に当たる御方を見つけることが出来ましたの」
「そうかそうか、それは良かった」
「それでおじい様、一つお願いがあるのですが……」
廉の願いは長門守を始めとする家族全員の承認の下、すぐに叶えられることとなった。
(とうとうお逢いできるのですね)
廉は今日という日を、一日千秋の思いで待ち望んでいた。今日は森家の方から申し入れた廉と玄蕃の顔合わせである。
今は当主である長門守が玄蕃と対面していた。
「ふむ、そうじゃの。では廉よ、入ってまいれ。あとは若い者同士での」
長門守の促しで、隣室から廉は入室する。祖父と入れ違いになる形で、廉は玄蕃の正面に着座した。
「廉殿と申したか、某は大井玄蕃と申しまする」
「存じています」
存じているも何も、廉にしてみれば恋い焦がれた相手である。想いは会わない間に募ったものだが、本人と対面した今もそれは変わらない。
「廉と申します、よろしくお願い申し上げます」
「某の方こそよろしく頼み申す」
挨拶をしてから、廉は玄蕃から目線を離せないでいた。あばたもえくぼというが、廉にしてみればどうしても玄蕃が巷間で噂されるほど酷い容姿には思えなかった。
「あの、廉殿」
「はい」
「某の顔になにかついておりますか?」
玄蕃が恐る恐る訊ねた。彼にしてみれば黙ったままじっと見つめられていたのだ、さぞかし据わり心地も悪かろう。
「いえ、特に何もついておりませんよ」
廉もこのような不躾な視線を送っていたのは拙かったことに気が付いた。慌てて話題を変えようと、急いで質問を投げかけた。
「玄蕃様は、私のことをどう思われますか?」
言ってすぐに、廉は自分の失策を悟った。自分は知っているとはいえ、玄蕃にとっては実質的には初対面なのだ。そんな人間を「どう思うか」などと訊かれたところでどうしようもない。
しかし、廉の焦燥に反してすぐに玄蕃から回答が得られた。
「その、大変美しき女性かと思います」
「美しい、ですか?」
「ええ、おそらく某には釣り合わないほどと」
「そうですか」
釣り合う釣り合わないはさておき、美しいと言われればお世辞だと分かっていても喜ばないはずはない。ましてや相手は好意を持つ男性である。
それからしばらく話してお開きとなったが、廉にとってみれば大変幸せな一日だった。
その後は何も障害となることもなくとんとん拍子に話が進み、あれよあれよという間に夫婦となることができた。
しかし、上手くいったのはここまでであった。夫婦となれば、当然その夜は初夜となる。廉ももちろんそのつもりで、同衾する用意も自ら行っていた。
いざ臥所を共にしようという段になった時、廉を言いようのない恐怖が襲ったのだった。
それはあの日、小汚い男に襲われた時と同じ恐怖だった。
「嫌っ、来ないで」
気が付けば、廉は玄蕃を寝所から追い出してしまった。
あの男とは違う、相手は玄蕃なのだと分かっていても、体は拒絶し動くこともできなかった。
……その夜玄蕃は、とうとう寝所へと戻っては来なかった。
次の日からずっと、廉と玄蕃は臥所を共にすることはなかった。
その日、玄蕃が書斎へと布団を運ぶのを廉は止めることはできなかった。むしろ、昨日追い出したのは廉なのである。文句など言えようはずもない。
それに、また玄蕃と同衾しようとしたとしても、廉にそれができるか自信はなかった。
このようにして、夫婦が別々に寝るという奇妙な新婚生活が幕を開けた。しかし、この件に関しては全面的に廉に非がある。そのためこれ以降、廉も何とかして距離を縮めようと試みるが、どうもうまくいかない。
ある日のことだ。
廉は話題作りに仕事の話を振ってみた。
「お前さま、隣の木村さまが勘定番頭に昇進されたそうですね。たしかお前様は木村様より藩校での成績は上だったとか」
(全く、どうしてお前さまが評価されないのでしょう。お歴々も見る目がありませんわ)
「それは祝が必要だな、明日にでも用意して渡しておこう」
こう言い置いて、玄蕃は書斎に下がってしまった。
(あらいけませんわ、たしかにご祝儀の品が必要ですものね)
別の日のことだ。
(たしかお前さまは剣の腕に覚えがおありとか)
剣術談義ならば水を向ければ話をしてくれるはず。
そう思って、今度は御前試合の話をしてみることにした。
「お前さま、先日一刀流の高木様が御前試合で見事な剣技を披露されたと聞きました。お前さまもたしか枯葉流の印可を許されたと聞きましたが」
(高木何某がどうであれ、お前さまに掛かればどうということもないはずですよね)
「試合を行うかどうかは殿がお決めになる。もしお声がかかればいややはないが、果たしてどこまで某ごときの太刀筋が通用するか」
(それはそうかもしれませんけど……。お前さまもご謙遜なさっているのかしら)
今度は、玄蕃は廉をそっちのけで庭に出て素振りを始めた。
(剣を振るうお前さまも素敵ですわね)
またある日のこと。
「お前さま、毎日遅くまで明かりをつけておいでのようですが」
(無理はなさらないでほしいのですよ)
「殿に講釈させていただく身が、日夜研鑽を積まずしてどうするというのだ」
(たしかにその通りでございますわね。お前さまも勉強熱心なお人)
さらに別の日のこと。
「お前さま、お向かいの石田様の奥様が先日見事な簪を見せてくださいましたよ」
(綺麗なお品だったんですよ)
「お前は簪なぞにこだわらなくとも十分美しかろう」
(あらあらそんな、お前さまったら)
この調子で会話になっているのだがどうにも今一つ距離が縮まらず、料理以外の家事は全て玄蕃が自分でやってしまうためなかなか顔も合わせない。
(はあ、私が悪かったのでしょうけど、どうしたらよいのかしら)
廉にしてみれば最初の失敗が悪かった自覚はあるが、どことなく玄蕃の態度が冷たい気がする。
しかし夫の同僚である木村からは
「なに、あいつは少しばかり不器用なだけですよ。あれで妻女のことはいつも気にかけていましてな」
と聞いているので、それ以上どうこう言う気も起きないでいた。
そうこうするうちに、無為のまま半年が過ぎ去ってしまった。
「高木殿ご乱心、上役の真鍋殿に斬りつけられたのち出奔」
下手人が逃走中ということもあり、この変事はすぐさま廉の耳にも入った。
「お前さまは大丈夫でしょうか」
何ということもないが、なぜだか廉は胸騒ぎがした。
「廉、いるか」
その日、玄蕃の帰宅はいつもより少し遅かった。
「なんですか、いきなり呼びつけたりして」
(心配だったんですからね、まったく)
「まあまあ、そう言うな。ほれ、土産じゃ」
そう言って玄蕃は懐から一つの木箱を取り出した。
「いったい、どういう風の吹き回しですか」
そう言った廉の手にある箱の中には、一本の簪が入っていた。
「なに、偶々見かけただけだ。それよりも、つけて見せてくれないか」
「ええ」
いつもと違う夫の様子に戸惑いながらも、やはり廉も年頃の女なのである。
簪一本とはいえ、綺麗なものを貰って嫌な気がするはずはない。
「ふむ、よく似合っているじゃないか」
「ありがとうございます、それで、どうなさったんですか」
心なしか、廉は玄蕃の口調が柔らかいことに気付いたが、別に悪いことではないと気にしないことにした。
「気にするな、結婚してこの方、何も夫らしいことはしてやってないことを思いだしただけだ」
「それは、その……」
私もです、そう言おうとした廉の言葉を、玄蕃は遮った。
「ただ、今日は疲れたのでな。早く夕餉にして寝ようと思う」
「そうですか、そう言えば今日は上様のお相手をなさる日でしたものね」
「ああ、殿は聡明であらせられるだけに、講釈する側も大変疲れる」
その日は珍しく、大井家の時間が温かく過ぎ去っていった。
時刻が九ツ(午前0時)を迎えるころ、廉は物音によって起こされた。恐らく玄蕃なのであろうが、先程見つけたものについて問い質したいこともあったので、廉はそのまま玄蕃のもとに向かうことにした。
ところが、書斎はもぬけの殻であり、どういうわけか玄関の方から物音がする。廉は昼間にも感じた胸騒ぎを覚えたので、速足で玄関へと向かった。
するとそこには、襷がけに大小を差した物々しい恰好で今にも出立しようとしている夫の姿があった。
「お前さま、どうなさったのですか」
「なに、少しばかり所用でな」
そのまま玄関を出ようとした玄蕃を、廉は急いで呼び止めた。
「もう夜も遅い、お前は休め」
「お前さまこそ、このような夜中にどこに行かれるのですか。私もついてまいりますよ」
「すまん、付き合いでな。木村のやつと女子と行けぬようなところに行くことになっておるのだ。すまぬ、許してくれ」
「なるほど、私よりも売女のほうがよろしいというわけですね」
「いや、あくまで付き合いであってだな」
玄蕃は頭を下げていた。しかし廉は、玄蕃の用事がそのようなものではないことを察していた。なによりこの半年、玄蕃が夜に家を空けたことなどほとんどない。そんな夫が商売女に入れ揚げているなど、信じろという方が難しい。
「いい加減にしてください」
廉は顔を真っ赤にしながら言った。
(お前さま、どうして、どうして本当のことを言ってくださらないのですか)
廉は夫の様子から先程見つけたものが関わっていると見て、それを突き付けることにした。
「箱を開けて驚きましたよ、隠し箱が中にあって、そこに三行半が入っているのですから」
三行半、すなわち離縁状である。しかしながら、これがなければ一度結婚した女は再婚できない。夫がこれを用意したことと、今日の変事とが関わり合いの無いはずがないことは、廉にもおのずからわかった。
しかしながら、玄蕃はあくまで白を切り通そうとする。
「いや、なにさな。身請けして妻にしようと思っておってな」
「私よりその人の方がいいなんて、よほどの美人なんですね」
(嘘ね)
「はははっ、まあ、その、な」
「ではこの簪は、手切れ金代わりとでも?」
「いやいや、それはそれ。ちゃんと手切れ金は別に用意するので、な」
(これも嘘ね)
「お金の問題じゃありません」
(別にお金なんかいらないのです。どうして本当のことを言ってくださらないのですか)
廉は、だんだん自分が抑えきれなくなっていた。玄蕃が自分に打ち明けてくれないことが、ただただ悲しかった。何よりそのように夫にさせてしまう自分に、何を置いても腹が立った。
もはや半狂乱である。
「よしわかった、お前の気持ちはよーくわかった」
(本当ですか。本当にわかってくださったのですか)
「ただ、断るにせよ話をつけに行かねばならん。今日はそれで帰ってくるから見逃してくれ。なに、すぐに戻ってくるさ」
(やっぱりわかってない。どうして本当のことを言ってくださらないのですか)
廉もわかってはいた。玄蕃は自分のために何も言わないでくれるのだと。そういう関係にしてしまったのは、ほかならぬ廉自身のせいであった。まさしく身から出た錆とはいえ、ここまで夫を頑なにする自分が悔しくて悔しくて仕方がなかった。
「お前さま、嘘を仰るのもいい加減にしてくださいませんか」
「嘘とは異なことを言う。たしかに身請けしようと思ったが、お前にそこまで言われれば仕方なかろう。ちゃんと話は付けてくるさ」
(この人は例えばれていると分かっていても、このまま嘘を貫き通すのかもしれない)
愚直だった。
ただひたすらに愚直だった。
何があっても自分には言わない、そう夫が決めてかかっていることが見て取れた。
廉はそんな夫が愛おしいと感じた。それでも、いやだからこそ、自分は今ここで本当のことを言わせなければならないと思った。そうしなければ、この不器用でどうしようもなく愛おしい夫が、自分の手の届かない場所に行ってしまうような予感がするのだ。
「高木清左衛門」
「うっ、た、高木がどうかしたのか」
下手人の名を告げることで、廉としては言外に伝えたつもりだった。「もう隠さなくていいですよ」と。
しかし玄蕃は、突然高木の話が出たことで見るからに焦っていた。
そこで廉は、さらに畳み掛けることにした。
「恍けても無駄です。乱心した高木の討手。お前さまなのでしょう」
もはや最後通牒である。
「何をバカなことを言っているのか。藩内にはまだまだ高名な剣士はたくさんおる。なにも某とは限るまい」
玄蕃は明らかに動揺しているが、それでもなお必死に否定している。
(それならなおのこと、行かなくてもよいではありませんか)
廉にしてみれば、別に玄蕃が討手でなければ構いはしない。しかし残念ながら、この様子ではやはりそうだろう。
「討手は基本、夜陰に乗じて向かうのでしょう。そして今は九ツ、討手が出向くには頃合いですわね」
「ほう、そうなのか。お前はよく知っているな。いやさ、そのようなことは初めて知ったとも」
「襷がけにして、いつも差さない大小を揃って差してですか。揚屋ならば脇差だけで十分でしょう?」
「いやはや、木村に先日自慢したら今度見せてくれと言いおったのでな」
「たしかに、銘は国俊と国光ですものね。いつも持ち出さないで大事に仕舞ってある方の」
「良く気付いたな、お前の目利きは並ではないな」
(本当に、お前さまはどこまで誤魔化すおつもりなのかしら。討手の件も、国俊と国光の件も、以前ご自分でお話になったではありませんか)
このことからも玄蕃が余裕を失っているのが分かる。だが、ここで下手を打つとそのまま出立しかねない。
一歩、また一歩と玄蕃との間合いを詰めた。先程まで半狂乱だったが、ことここに至っては不思議と冷静だった。
じっと玄蕃を逃がすまいと見据えながら近づいていった。
「お前さま」
「おう、なんだ」
「もう、いいでしょう?」
「な、なにがだ? ちゃんと話は付けてくるとだなあ」
この期に及んでなおも嘘をつき通す玄蕃をすごいとも思うが、廉にとっては素直に称賛してもいられない。このままでは、玄蕃はきっと自分の手は届かないところに行ってしまう。それは、廉の中では予感などと言う曖昧なものではなく、もはや確信となっていた。たとえ離縁されようが棄てられようが、それに比べればはるかにましだった。
「……逃げましょう、二人で」
廉はとにかく、自分望みを言った。
「はあ? 突然何を言い出すのだ、お前は」
「今までのことは謝ります。だから、逃げましょう」
廉にとっては藩も家もどうだってよかった。
「何を謝ることがある。商売女に入れ揚げた某が悪かったと言っておろうが」
「追手の届かない田舎へ行って、寺子屋でも開いて生きていきましょう」
これまでのことは自分に非がある。自分は決してできた嫁ではなかった。
「だからなんだというのだ、いきなり」
「二人扶持ぐらい稼げますって、なんなら私が春を売りますから」
だから自分は何をしたっていいのだ。玄蕃が死ぬよりは、万倍もいいのだから。
「バカを言うでない、というかいきなり何なのだ」
「だって、だって……」
このままでは、夫は必ず死地に向かう。そんなことは、到底耐えられそうにない。
だから……。
「廉、この手を」
玄蕃が、これまで一度も聞いたことがないような優しい声色で話しかけてきた。
だが、それでも廉は首を縦に振ることはできなかった。
「この手を離してくれないか、廉」
二度目だが、これも首を横に振るしかない。この手を離したが最後、もう二度と玄蕃を捕まえることはできないと思ったからだ。
「廉よ、この話はな。某から申し上げたのだ」
そう聞かされ、廉は信じられないという風に玄蕃の顔を見つめた。しかし、今度ばかりはどうやら本当らしい。
「なぜですか、どうしてそんな危険なことを……」
廉は必死に問い詰めた。別に玄蕃である必要などどこにもないではないか。
「実はな、今井も山口も酒井もな、高木に斬り伏せられたのだ」
「そんな」
三人とも、廉にも聞き覚えがあるほど藩内で高名な遣い手である。その三人を一人で斃した相手に今まさに自分の夫は立ち向かおうとしているのだと知り、廉は言いようもない恐怖を感じた。
「そして殿にはな、多大な御恩がある。某の汚名を雪ぐために無高なれど講釈役というお役目を下さった。某はその御恩に報いなければならぬ」
「それでも、死んでしまっては元も子もないではありませんか」
(恩も何も、生きていてこそのものでしょう)
そう思ったのが伝わったのか、玄蕃は決まりが悪そうに話を続けた。
「だがなあ、某以外の者にやらせるのもどうかとも思ってなあ」
「ご自身で仰ったじゃないですか、藩内に剣士はいると」
「だが、某も含めてみな高木には一歩劣る」
その言葉には、有無を言わさぬ力があった。それが厳然たる事実なのだと、これでもかというほどに廉には伝わってきた。その言葉から、一気に廉の体中から力が抜けていった。
次の瞬間、廉の脾腹に衝撃が走った。
玄蕃が当身を食らわせたのである。玄蕃は素早く身を翻すと、そのまま玄関から外に向かった。
「喜べ、明日にはお前は晴れて自由の身だぞ」
「待って、待ってくださいお前さま」
息も絶え絶えであるが、それでも廉は必死に玄蕃を引き止めようとした。
「待たぬ、刻限だ」
それを玄蕃はすげなく聞き流し、戦場へと向かった。
(玄蕃様、お慕い申しております。だから、どうか)
どうか無事に帰ってきてくれと、廉は消えかかる意識のなかでそう言った。
廉が気が付いたのは、朝日が昇ろうかという時間帯だった。
「……お前さま」
気を失う前のやり取りを思い出し、廉は涙が止まらなかった。
無事に帰ってきてほしい。ただひたすらそれを願って、廉は玄関で待ち続けていた。
「妻女殿、いるか?」
それから半刻(約1時間)ほど経った頃だろうか、外から声が聞こえた。
何ごとかと見てみると、木村と戸板で運ばれる玄蕃に、老齢の医師が付き添っていた。
「お前さま」
廉は恥も外聞もなく、玄蕃のもとに裸足のまま駆け寄った。
「処置は終えました。夫君は寝ているだけです」
医師からそう伝えられると、廉は一気にその場にへたり込んだ。なんとか立ち上がった廉は寝室まで案内し、それからはつきっきりで玄蕃の看病を行った。
濡れた手拭いで汗を拭き、血の滲んだ晒を新しい清潔なものに取り換える。特に右手は手首から先を失っているため、すぐに新しいものへと替えていく必要があった。
「ううっ、むっ、なんだお前か」
玄蕃が意識を取り戻したのは、日が高々と昇った昼ごろであった。
「良かった、もうこのまま目を覚まさないのかと思いました」
「くっ、お前にとってはその方がよかったやもしれぬぞ」
そんなことを言う玄蕃であったが、失った右手を気にしていることがわかった。
「利き腕がなければ三行半も書けませんね」
「それはたしかにそうだが」
昨日の意趣返しをしてみたが、正直なところそんなことはどうでもよかった。
(もう二度と離したりするものですか)
廉としては、再び玄蕃が自分の所へ帰ってきたことこそが幸せだった。
一度掌中から零れ落ちた珠が、奇跡的にまた自分の手に戻ってきたのだから。
「お医者様によるとしばらく安静にということですから、大人しくじっとしていてくださいね」
「ああ、わかった」
さすがに玄蕃も、こればかりは素直である。
「剣も振れず、字も書けず、大井玄蕃もこれで仕舞いだな」
その声色には、諦念に少しばかりの淋しさが混じっていた。
「それならしばらく快復してからも出仕しなくて済みますね」
「まあ、勘定方としては不要だからな」
「たしかに字が書けないと帳簿はつけられませんものね」
(これからはずっと一緒ですよ)
廉にとっては、玄蕃の世話ができることそのものが幸福なのである。
「ははっ、悠長にしてはおれんぞ。取り潰しになるやもしれんからな。お前は実家に帰れば済む話だが」
「帰りませんよ」
玄蕃の言葉に、すぐさま廉は反論した。
「はあ?」
「ですから、実家に帰らないと言っているのです」
「まったくこの人は、一体何を言っているのでしょうね」とでも言いたげな様子で、さらに言葉を重ねた。
「だが、某は片手になったのだぞ」
「何を言っているのですか。そもそも片手になった程度でどうこう言うようならお前さまに嫁いだりしませんって」
昨晩二人で逃げようと言ったのは、廉にとっては伊達でも酔狂でもなく、本心だった。それは今も変わらない。もし玄蕃が今すぐどこかへ行くと言われれば、例え地獄の底ででもついて行く覚悟があった。
「もう二度と離さない」そう誓ったのだから。
「いや、でもな。食い扶持の問題があってな」
「それくらいおじい様に頼んで実家から出してもらいますよ。子供ができて家を継ぐまで」
「そうか、たしかに御家老のところなら二人扶持くらい……」
生きていくだけなら何の問題もないのである。仮に実家がなかったとしても、二人で生きていくためなら何だってできる。そう思えば過去に囚われて玄蕃に迷惑をかけた今までの時間が勿体なくすら思えた。
「えっと、子供?」
「はい、だってそれまで藩からはくださらないでしょう?」
「いやたしかにそうだろうが、子供だろう?」
「はい、そうですよ」
「作るのか?」
「はい」
「誰と?」
「何を言っているのですか、お前さまとに決まっているじゃありませんか」
廉は今までは考えて来なかったが、玄蕃との子供が欲しいと思う自分に気付いた。玄蕃と自分と子供と、きっと幸せになれるはずだ。
「お、おお。そうだな」
「やっぱり、まだ休んでないといけませんよ」
「ああ、そうしよう」
どうやら玄蕃に無理をさせ過ぎたらしい。何より今まで寝所も別にしていた間柄で子供の話は少し急だったのかもしれない。思えばつまらないことで遠回りをしてしまったものだ。
しかし、あそこで襲われることがなければ、そもそも玄蕃と出会ってすらいなかったことを思うと、それはそれで仕方のないことにも思える。
「あ、お前さま」
「どうした」
「ずっと以前から言おうと思っていたのに、言えなかったことがあります」
「おう、なんだ」
それでも、これだけは言っておきたかった。
これだけは、誰にでも胸を張って言える事実だから。
「玄蕃様、ずっとずっと、お慕い申し上げておりました。初めてお会いしたその日から」
実は廉視点は最初書くつもりはありませんでした。
ただリアルからもなろうの方でも「廉視点を」というご要望を頂きましたので……。
こちらのせいで「霜葉の如く」の方と登場人物のイメージが違うという方がいらっしゃったら申し訳ありません。
あくまでこちらは廉がどう見て、どう感じたかを書きました。
向こうは玄蕃が同じくどう思い、どう感じたかであります。
この度は拙作を読んでくださりありがとうございました。
それではこれで失礼いたします。
2015年3月08日、加筆・修正
2016年6月19日、修正