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第八章

 美波と試合を観戦してから、それなりの時が過ぎた。

 復帰に向けて練習に合流した俺は、腕が痛み出したりすることもなく、二軍の試合に登板出来るほどに快復していた。とは言っても、離脱期間が長かったこともあって、二軍でもあまり結果を残せていないのが実情だ。美波が期待する一軍のマウンドに戻るのは、今シーズン中には難しそうだった。

 そんなことを思い、焦っているのが顔に出ていたのか、練習中に監督が声をかけてくれた。

 まず伝えられたのは、焦る必要はないということ。チームの好調もあって、復帰を急がず来シーズンの開幕に照準を合わせてやって欲しいとのことだった。自分でも、この結果で一軍に上がれるとは思っていなかったので、素直に同意するほかない。

 だが、監督の話はそれで終わりではなかった。シーズン終了前に、復帰に向けて一試合だけ上で投げるのはどうかと提案されたのだ。マウンドから離れていた期間が長かったため、感覚を取り戻す必要があるかもしれないと監督は言う。俺はそれに頷きながらも、同時にあることを考えていた。

 もしかするとこれは、最初で最後のチャンスなのではないだろうか。本音を言えば、美波には本調子の自分の投球を見せたい。けれど、それでは今シーズン中の実現ははっきり言って不可能だ。来シーズンを待つのも選択肢としてはあるが、最近は野球に専念していたせいで美波と疎遠になっており、来シーズンになるころには美波との縁がなくなっていることだってあり得る。それでは、意味がないのだ。

 本来の投球は、怪我さえ完治すればいつだって見て貰える。当初の目的を考えれば、監督の提案する調整登板に美波を招くのが正解だろう。俺はそう決心し、監督に告げられた登板予定の日付をしっかりとメモに残した。


 ようやく時間が取れたある日、久しぶりに公園へ足を運んでみると、美波は変わらずいつもの場所にいた。独りぼっちでベンチに座っているその姿は、快活な彼女のイメージとは違い、どこか寂しげに見える。彼女は俺に気がついても、何のリアクションもしないまま、視線を元に戻した。どういう態度を取ればいいのか、わからないのかもしれなかった。

 特に何も言われなかったので、そのまま美波の隣に腰を下ろす。彼女が見つめる先には、長らくお世話になっていたランニングコースが続いていた。

「……随分と久しぶりに現れた割には、何も言わないのね」

 視線を合わせないまま、美波が独り言のように呟く。どこか責めるような口調だった。

「何だ、怒ってるのか?」

「な、何であたしが怒るのよ。あんたはプロ野球選手で、あたしは幼稚園の先生なんだから、こんな場所で落ち合ってたあのころのほうがおかしかっただけじゃない。……そうよ、ただ元の日常に戻っただけじゃない」

「そうだな」

 俺達は、色々な偶然が重なりあって出会い、僅かな時間を共にするようになった。その時間、そして今のこの時間は、実現しないまま一生を終えても何ら不思議ではない時間なのだ。

「……でもね、やっぱり、寂しいんだ。あんたがプロ野球選手っていう遠い存在だとしても、あたしはあんたと親しいつもりだった。一緒にラーメン屋に行ったり、野球を観に行ったりするくらいにはね。だから、疎遠になったら寂しいのは、普通の友達と変わらないのよ」

「そうだな、悪かった」

 考えてみれば、俺達の繋がりはあまりにも頼りなかった。互いの名前、年齢と、職業くらいしか知らない。これでは、美波が不安になるのも無理はなかった。

 手帳を取り出し、白紙にペンを走らせる。美波が不思議そうに見つめる中、俺は自分の住所と電話番号を書いて、切り取ったそのページを手渡した。

「どう使うかは、任せる」

「いいの? こんなの渡して」

「俺が野球選手じゃなければ、簡単に知ることが出来た情報だろ?」

 美波は俺の言葉を反芻するように、渡された小さな紙を見つめる。ようやく上げた顔は、いつものあの笑顔だった。

「……ありがと。ねえ、紙とペン貸してくれない?」

「ん? ああ」

 言われた通りにまた一枚紙を切り取り、ペンと共に手渡すと、美波はすらすらと丸みを帯びた可愛い文字を記していく。それを見て、俺はすぐに彼女の意図を理解した。

「はい、あたしの住所と電話番号」

「いいのか? 一人暮らしなんだろ?」

 俺が美波と同じように訊くと、彼女はにやりと笑みを浮かべて口を開いた。

「あたしが一人暮らしの若い女じゃなければ、簡単に手に入った情報でしょ?」

「はは、そうだな」

 美波も元の調子を取り戻したようだし、後はいよいよ本題だけだ。俺は予め手に入れていたチケットを取り出すと、美波にそっと差し出した。

「……また、試合のチケット?」

「ああ。なるべく行ってやって欲しいんだが、都合は大丈夫か?」

「大丈夫だけど……そう言うってことは、あんたは行けないのね」

「悪いが、そういうことになる」

「わかった。チケット、ありがと。必ず行くから」

「よろしくな」

 これで、全ての準備は整った。後はもう、俺自身の問題だ。如何にして最良の状態で登板の日を迎えるか。今がまさに、ラストスパートをかける時だった。

「ところで、いつになったらラーメン屋に行く約束は果たして貰えるの?」

「その試合が終わったら、きっとな」

「……わかった、その言葉を信じるわよ」

 そう、全てはその試合にかかっている。そこから、何もかもが動き出していくはずだ。長らく立ち止まっていた野球人生も、プライベートも、全てがいい方向に変わっていく予感がしていた。

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