「歌うしか能のない補助職は不要だ」と聖女パーティーを追放されましたが、わたくしの歌は三年二ヶ月で四千七百回、皆様の傷を塞いでおりましたので、どうぞそのまま素手で竜に挑んでくださいませ 〜新緑の谷で、わ
「セレナ。君は今日限りで除名だ」
王太子アルベール・ヴェルドリアは、乾杯の杯を掲げたまま、そう言いました。
「——歌うしか能のない補助職に、分け前を六分の一も払う理由がない」
王都ギルド大広間。大迷宮六十階到達の祝賀の場。
天井から吊るされた無数の魔導灯が、白銀の鎧と緋のマントを、まるで劇の一場面のように照らしています。
数百人の冒険者が、一斉にこちらを見ました。
わたくしは、腰に下げたインク壺の蓋を閉め、それから顔を上げました。
「承知いたしましたわ」
隣で、聖女ミレーユ・ラフォンが困った顔で微笑みます。白金の髪が灯りを弾いて、それはもう絵のように綺麗でした。
「ごめんなさい、セレナ様。でもわたし、一人でも回復は足りますもの」
足りている。
なるほど。
(三年二ヶ月、喉が焼けても歌い続けた結果がこれですか。前世の退職代行より雑ですわね)
笑い声が起こりました。
最初は一人、それから三人、やがて大広間の半分ほど。
「歌姫様、ついに解雇だってよ」
「ずっと後ろでフンフン唸ってただけだろ」
「あれ、意味あったのか?」
意味。
わたくしは右手で、胸に抱えた革表紙の手帳を、少しだけ抱え直しました。
三年二ヶ月、遠征中も、野営中も、毒沼の底でも手放さなかった手帳。
インクが滲まないよう、油紙を三重に巻いてあります。
前世で——日本という国で、音大の声楽科を出たのに、就職先はブラック企業の総務・経理でした。
残業記録と備品台帳。それだけをつけ続けて、ある朝、机で倒れてそのまま。
記録をつける癖だけが、骨の髄まで染みついて、魂ごとこちらへ来てしまったのです。
アルベール殿下が、書記官に顎で合図します。
卓の上に、羊皮紙が一枚滑ってきました。
『冒険者パーティー除名同意書』
「署名を」
わたくしは頭を下げました。
丁寧に、きちんと、腰から。
「三年二ヶ月、ありがとうございました」
そして、腰の羽根ペンを取り、署名しました。
文字は震えていません。総務時代に、震える手で判子を押したことなど一度もありませんでしたから。
殿下が満足げに杯を傾けます。
ミレーユ様が、安堵したように息を吐きます。
広間の隅で、水袋を抱えた下働きの少年——リコだけが、笑っていませんでした。
わたくしは羽根ペンを置き、代わりに、手帳を卓の中央に、静かに置きました。
「除名は結構です」
ざわめきが、少しだけ引きました。
「ただ——ギルド規約第十二条により、記録の突合だけ、させてくださいませ」
◆
「記録の突合?」
アルベール殿下が、眉を寄せました。
(あら、疑問形。断定しかなさらないこの方が)
「規約第十二条。『パーティー除名に際し、当事者はギルド保管記録の照合を一度に限り請求できる』」
わたくしがそう言った瞬間、広間の奥から、硬い足音が近づいてきました。
鉄灰色の髪を一分の隙もなく結い上げた、片眼鏡の女性。
記録課主任書記官、ドロテア・バーンズ。
彼女は無言で、分厚い綴じ帳を三冊、卓に置きました。
「請求、受理いたしました。書式は正しゅうございます」
「……勝手に何を」
「わたくしは判断いたしません」ドロテアは片眼鏡を押し上げました。「数字が判断いたします」
わたくしは自分の手帳を開きました。
三年二ヶ月分。日付、地点、詠唱開始時刻、終了時刻、対象人数。
「まず一件目」
指を、最初の頁に置きます。
「遠征日数、三百十二日。わたくしの【共鳴詠唱】発動回数、四千七百二回」
広間が、しん、としました。
「対してミレーユ様の【聖光治癒】発動回数——ギルド提出の公式報告書に記載されたもの、三年間で十八回」
ドロテアが該当頁を開き、掲げました。
第一列に、はっきりと『18』と。
「第一列、『18』。書式に誤りはございません」
「ミレーユ様。先ほど『一人でも回復は足りる』と仰いましたわね」
わたくしは、できるだけ穏やかに微笑みました。
「——足りている、とは、どの数字を指しておっしゃいましたの?」
ミレーユ様の頬から、色が抜けていきました。
菫色の瞳が、報告書の『18』の上で止まって、動かない。
「わ、わたしは……その、詠唱回数って、ただ歌ってるだけの回数で……」
「そうですわね。ただ歌っていただけです」
わたくしは頷き、二冊目の綴じ帳に手を伸ばしました。
「では二件目。ギルド魔力消費記録簿」
殿下の指が、杯の柄をきしませました。
「六十階戦。皆様が受けた致命傷——首、腹、大腿動脈、あるいは即死判定に至る負傷は、治癒師の戦後検分により合計四十一件」
頁を繰ります。
「聖女装束の魔導計が記録した、その日のミレーユ様の魔力消費量。致命傷の治癒に換算して——三件分」
羊皮紙を、卓の上に滑らせました。
数字は逃げません。逃げられるのは、人間だけです。
「三件。残りは三十八件」
静寂。
「では、あの日、皆様の傷を塞いだのは」
わたくしは顔を上げました。
「どなたの、どの魔力ですの?」
誰も答えません。
大広間の魔導灯が、じ、と小さく鳴りました。
剣聖と呼ばれる前衛の男が、自分の腹を無意識に押さえたのが見えました。
あの傷。六十階で、三十秒ほどかけて、じわりと塞がった傷。
「……偶然だ」
殿下が言いました。
「治癒師の薬が効いた。あるいは装備の加護だ。君の歌など——気休めにすぎん」
気休め。
わたくしは、三冊目に手を置きました。
一番薄い綴じ帳です。
「では、三件目をどうぞ」
◆
「四十八階、毒沼階層」
わたくしは頁を開きました。
「二年前の霜の月。パーティー全員が『紫濁毒』を受けました。解毒薬は水没で全損。最寄りの地上まで、通常行程で四十八時間」
広間の誰かが、息を呑みました。あの遠征に同行していた者が、何人かいるのです。
「紫濁毒の致死進行時間は、成人で六時間。——皆様は、四十八時間生きていらっしゃいました」
わたくしは、静かに続けます。
「【共鳴詠唱】の効果。発動条件、わたくしが歌うこと。作用範囲、声の届く半径三十メートル。効果、自然治癒力と魔力回復の三倍化、および毒・呪い・精神汚染の進行停止」
「限界が三つ、ございます」
指を三本立てました。
「一つ。即効性がない。傷が塞がるまで数十秒かかる。——ですから、劇的に見えない」
「二つ。歌が止まった時点で、効果は即座に切れる。——ですから、『ずっと歌い続けている者がいた』ことに、誰も気づかない」
「三つ」
わたくしは、喉に触れました。
薄く白い筋が、横に一本。
「わたくし自身には、効きません」
ドロテアが、三通の羊皮紙を差し出しました。
「ギルド所属治癒師の診断書。日付入り、三通でございます」
「読み上げましょうか」
わたくしは受け取りました。手は震えていません。
「霜の月十四日、深夜。患者セレナ・ウィルフォード。声帯粘膜の裂傷、喀血。休息を勧告するも、患者は拒否」
「同、十五日、早朝。裂傷拡大。喀血二度目。勧告、拒否」
「同、十六日、昼。喀血三度目。声帯に永続的瘢痕が残る見込み。——勧告、拒否」
羊皮紙を、卓に伏せました。
「四十八時間、一睡もせず歌い続けました。血を三度吐きました。わたくしの歌はわたくしには効きませんので、傷はそのまま残り、こうして記録になっております」
静かに。怒鳴らず。
「気休めが、人の喉を裂きますかしら」
「セレナ姉ちゃんの水」
広間の隅から、声がしました。
リコでした。荷袋を抱えたまま、十四歳の少年が、震える声で。
「セレナ姉ちゃんの水、いつも三つ要るんだよ。遠征から帰ると、絶対三つ。一つじゃ足りないんだ。喉が、」
最後まで言えずに、俯きました。
三年間、誰も理由を尋ねなかった。この子だけが、黙って三つ渡してくれた。
ミレーユ様が、両手で口を覆いました。
白絹の聖女装束が、小刻みに揺れています。
「わたし……わたし、六十階で、光を出しました。三回です。三回しか出せなくて、でも、みんな治ってて、だから、だから、わたし、」
「わたし、すごいんだって、思って——」
彼女は、ずっと知っていたのでしょう。
数字はいつもそこにありました。目を逸らしていただけです。
孤児院から掬い上げてくれた『聖女』という名前を、失うのが怖かった。
「ええ。ずっとご存じだったのでしょう」
わたくしは言いました。
「それは罪ではありますけれど、人間というものでもありますわ」
アルベール殿下は、杯を持ったまま動きません。
金髪碧眼、肖像画のような立ち姿。
兄と比べられ、父王に『お前は何も成していない』と言われ続けた男。
派手な戦果と、それを語る証人が欲しかっただけの人。
数十秒かけてじわじわ塞がる地味な歌より、一瞬で光る聖女の方が、物語になりますものね。
わたくしは、手帳を閉じました。
◆
「では、もう一枚、署名をお願いいたしますわ」
わたくしは腰の革袋から、二枚の書類を取り出しました。
ギルド印が押された、正式なものです。
『詠唱補助契約解除書』
『共鳴詠唱・使用許諾の撤回届』
「……何だ、それは」
殿下が、初めて掠れた声を出しました。
「【共鳴詠唱】は、範囲内の者全員に作用いたします。逆に申しますと、わたくしが『この者に効かせない』と指定することもできますの。スキル保有者の許諾制。規約第四十一条ですわ」
ドロテアが淡々と頷きました。
「事実でございます。効力発生は、受理の翌日午前零時」
「三年二ヶ月間、わたくしは『暁の白百合』全員に、無期限・無条件の使用許諾を出しておりました。本日をもって、撤回いたします」
羽根ペンを、殿下の前に置きました。
「殿下」
わたくしは微笑みました。
三年二ヶ月ぶりに、心から笑えた気がいたします。
「先ほど、わたくしの歌は『気休め』と仰いましたわね」
「……」
「では、気休めですから。明日から要りませんわね」
杯が、傾きました。
葡萄酒が、白銀の鎧を伝って落ちていきます。
誰も拭いません。
「六十一階からは竜種の階層と伺っております。炎竜、氷竜、それから——毒霧竜」
わたくしは、除名同意書を指先で押し返しました。
「どうぞそのまま、素手で竜に挑んでくださいませ」
殿下は、何も言いませんでした。
断定調しか使わないこの方が、初めて、言葉を失いました。
わたくしは頭を下げ、手帳を胸に抱え、踵を返しました。
大広間の中央を、まっすぐ歩きます。
数百人の冒険者が、道を空けました。
笑い声は、もうどこからも聞こえません。
扉の前で、リコが水袋を三つ抱えて待っていました。
「セレナ姉ちゃん……水、三つ持ってきた」
「ありがとう、リコ。でも、もう一つでいいのよ」
「なんで?」
「明日から、歌わないから」
少年は、ぽかんとした顔をして、それから泣きそうになりました。
扉を押し開けると、王都の夜風が入ってきました。
冷たくて、少しだけ、喉に染みました。
背後で、ドロテアの声がしました。
「ウィルフォード嬢」
振り返ります。
片眼鏡の書記官は、こちらを見ずに、綴じ帳を閉じながら言いました。
「三年間、あなたの記録は、書式が正しゅうございました」
それだけ。
でもわたくしは、断罪の最中に一度も出なかった涙が、ほんの少しだけ滲むのを感じました。
三年間、あの帳面を『内容まで読んでいた』人が、一人だけいたのです。
◆
王都を出て、六日。
乗合馬車を三度乗り換え、最後は徒歩で二日。
地図に載っていない辺境、『エルネの谷』。
魔物が出ると噂され、誰も近づかない土地。
わたくしがそこを選んだ理由は、単純です。
古い文献に、『声がよく響く谷』と一行だけ書いてあったから。
前世で音大にいた頃、教授が言っていました。
『反響の良いホールは、それだけで歌い手を倍にする』と。
谷に入った瞬間、わかりました。
両側にそそり立つ岩壁。底には湧き水。
試しに小さく「あー」と発声すると、声が五重になって返ってきました。
(まあ。天然の反響室ですわ。ここなら、わたくしの遅い歌も、少しはマシになりますかしら)
そして、湧き水のほとりで、それを見つけました。
巨躯。
身長は二メートル近く。深緑の鱗が首筋と前腕を覆い、その鱗が——何枚も、剥がれ落ちていました。
血だまりの中に、うつ伏せに倒れています。
竜人族。
普通の令嬢なら、悲鳴を上げて逃げる場面でしょう。
わたくしは手帳を開き、日付を書きました。
『芽吹きの月二十一日。エルネの谷、湧き水前。竜人族と思われる男性一名、重篤。鱗剥離、多数。呼吸あり』
記録は、まず事実から。前世からの癖です。
近づくと、金色の瞳が、うっすら開きました。
縦に裂けた瞳孔が、こちらを捉えます。
殺気。
本物の、殺気でした。冒険者なら三歩下がるような。
わたくしは三歩下がりませんでした。
下がったところで、この足では逃げられませんもの。
男は、血で汚れた指で、傍らの石板に何かを書きました。
炭の欠片で。
『声が出ない』
次に。
『お前は何ができる』
わたくしは、少し考えました。
正直に答えることにしました。もう嘘をつく相手も、守る看板もありませんので。
「歌しか。しかも、遅いんです」
金の瞳が、まばたきをしました。
炭が、石板を擦る音。
驚くほど几帳面で、小さな字。
『……ならやってみろ』
——ああ。
何でしょう、これは。
三年二ヶ月、わたくしは『歌え』と命じられ続けました。
『もっと大きく』『まだ塞がらないのか』『使えないな』
『ならやってみろ』と言われたのは、生まれて初めてでした。
条件も、期待も、評価もない。ただ、やってみろと。
わたくしは、湧き水のほとりに膝をつきました。
喉に手を当てて、白い筋をなぞります。
そして、息を吸いました。
誰にも命じられず。
誰のためでもなく。
——歌いたいから、歌いました。
◆
谷が、歌いました。
わたくしの声が岩壁に当たり、跳ね返り、重なり、幾重にもなって降ってきます。
自分の声が自分の声に追いつかれて、和音になる。
共鳴詠唱の光が、いつもの三倍の濃さで、谷底に満ちました。
(まあ……倍増どころではございませんわ)
竜人の男が、目を見開いています。
剥がれた鱗の下の傷が、ゆっくり、ゆっくり塞がっていく。
相変わらず遅い。一件塞がるのに三十秒。
でも、止まりません。
日が落ちて、月が昇って、また日が昇りました。
水を飲み、また歌い、眠り、起きてまた歌う。
三日目の朝。
男は、自分の足で立ち上がりました。
わたくしは焚き火の前で、へたり込んだまま喉を押さえていました。
声が、もうほとんど出ません。掠れた息が出るだけ。
目の前に、木の椀が差し出されました。
湧き水。冷たくて、水面に朝の光が揺れています。
見上げると、巨躯の竜人が、無言で立っていました。
『前から気づいていた』
石板。
『歌ったあと、必ず喉を押さえる。水を飲む。三回』
……三回。
数えていらしたのですね、この方。
わたくしは椀を受け取り、少しずつ飲みました。
冷たさが、裂けた喉を撫でていきます。
三年間、誰にも尋ねられなかったことを、会ってたった三日の竜人が、数えていた。
「……ありがとうございます」
声にならなかったので、口だけ動かしました。
男は少しだけ、目を細めました。
彼はガルドと名乗りました。ガルド・ヴェスティグ。
竜人族の、若き族長。
この谷は竜人族の療養地で、近年『竜化病』という病が広がり、族の者たちは次々に声を失って衰弱しているのだと、石板が教えてくれました。
『お前の歌』
彼は書きました。
『祖霊の子守唄と、同じ旋律だ』
わたくしは驚きました。
そして、すぐに理由がわかりました。
前世の音大で学んだ、古い教会旋法。
ドリア旋法、フリギア旋法——現代の長調短調が生まれる前の、古代の音階。
わたくしは無意識に、それで歌っていたのです。
身体に染みついていたから。
『祖霊が、返してきた』
ガルドはそう書いて、少しだけ、笑いました。
凶相の巨躯が笑うと、なかなかの迫力でしたけれど。
◆
谷での暮らしは、ゆっくり進みました。
朝は露の匂いで目が覚めます。草と湿った土と、冷たい石の匂い。
湧き水で冷やした木苺は、噛むと酸味が舌の奥ではじけます。
焚き火で炙った黒パンからは、湯気が立ちます。
木苺を煮詰めてジャムを作り、パンに塗りました。
一口食べて、わたくしは動けなくなりました。
「……おいしい」
声に出して、それから気づきました。
三年二ヶ月。
わたくしは一度も、『美味しい』と思う暇がなかったのです。
遠征中の食事は、歌の合間に流し込む携行糧食。
王都に戻れば書類。
前世でも、コンビニのおにぎりを片手に台帳をつけていました。
二度の人生を通じて、わたくしは初めて、ものを味わいました。
目の前で、ガルドがパンにジャムを塗っています。
分厚い。
パンが見えないほど分厚い。
「ガルド様。多すぎますわ。パンが見えておりませんけれど」
石板。
『少ない』
「どう見ても多いです」
『少ない』
……この方、族長なのですよね?
わたくしは、久しぶりに声を上げて笑いました。
喉の傷が引きつって痛みましたが、それすら、なんだか可笑しくて。
笑い声が、谷に五重に反響しました。
◆
ひと月後。
エルネの谷に、小屋が三棟建ちました。
ガルドの一族が、岩を切り出し、木を組んで作ったものです。
竜人族は手が早い。二メートルの巨躯が十人がかりで働くと、家が三日で建ちます。
看板を掛けました。
『共鳴療養所 エルネ』
そして、わたくしは机に向かいました。
前世の総務・経理時代の姿勢に、自然と背筋が戻ります。
『患者台帳』
『詠唱記録帳 第二巻』
『薬草・食料在庫表』
『収支簿』
(まあ、懐かしい書式ですこと)
患者番号一番、ガルド・ヴェスティグ。
竜化病、進行度四。詠唱による治療開始日、芽吹きの月二十一日。
二番から十一番までは、彼の一族。
声を失い、鱗が白く濁り、寝床から起き上がれなかった者たち。
毎朝、谷底に彼らを並べ、わたくしは歌います。
遅い。相変わらず遅い。
一日目は何も変わりません。三日目にようやく、鱗の色が少し戻ります。
十日目に、寝床から起きられるようになります。
でも、記録をつけていると、わかるのです。
『七番、進行度三→二。所要十四日』
『四番、鱗再生確認。所要十八日』
遅くても、確実に、前へ進んでいる。
数字は嘘をつきません。
そして数字は——誰にも、軽視させません。
ある日、郵便竜が谷に降りてきました。
王都冒険者ギルドの封蝋。
中身は、辺境施設登録申請書一式でした。
記入例まで丁寧に添付されています。
必要な添付書類、提出期限、担当窓口、すべて赤インクで注記付き。
差出人の名前は、ドロテア・バーンズ。
本文は、ありません。
ただ、申請書の余白に、一行だけ。
『書式は正しく』
わたくしは、しばらくその一行を見つめていました。
愛想のない、たった六文字。
三年間、わたくしの帳面を黙って受理し、正しく綴じ、正しく保管し続けてくれた人からの、おそらくはこれが、最大限の激励なのです。
「……ドロテア様」
涙が一粒落ちて、申請書にインク染みを作りました。
(いけませんわ。涙で書式が乱れます)
慌てて袖で拭いていると、背後に影が立ちました。
ガルドが、木の椀を差し出しています。
湧き水。
心配そうに、わたくしの喉を見ています。
「泣いただけですわ。喉は大丈夫です」
彼は石板に書きました。
『飲め』
「はい」
『歌いすぎるな』
「はい」
『お前は、お前には効かない』
……この方は。
この方は、わたくしのスキルの説明を一度聞いただけで、その三番目の限界を、ずっと覚えているのです。
三年二ヶ月、誰も気に留めなかったことを。
わたくしは椀を受け取り、水を飲みました。
谷の夕陽が、深緑の鱗を金色に染めていました。
◆
三ヶ月後。
谷の入り口に、そばかすの少年が転がり込んできました。
「セレナ姉ちゃーん!!」
荷袋を抱え、赤毛を跳ねさせて走ってくるのは、リコです。
ギルドの下働き少年が、伝令として王都から六日かけてやって来たのでした。
「ドロテアさんの使いで来た! あと、これ、手紙!」
焚き火の前に座らせ、黒パンに木苺のジャムを塗って渡すと、彼は一口かじって目を丸くしました。
「うまっ」
素直な子です。
その横から、深緑の腕が伸びて、二枚目をさらっていきました。
「あーっ! ちょっと、竜人の兄ちゃん、二枚目取るなよ!」
ガルドは無表情で、パンにジャムを分厚く塗っています。
「……こわ……」
リコは震えながら、それでも三枚目に手を伸ばしました。たくましい子です。
「で、報告なんだけど」
少年は、急に声を落としました。
「『暁の白百合』、壊滅した」
焚き火が、ぱちりと爆ぜました。
「五十九階。竜種の手前で、毒霧に呑まれて。撤退中に八人、毒で脱落した。死者はゼロ。でもみんな、もう冒険者は無理だってさ」
わたくしは、静かに聞いていました。
「ミレーユ様は」
「……治癒が間に合わなかったって。十八回分の魔力じゃ、八人は無理だったって。毒を止められなくて、ずっと光を出そうとして、出なくて」
リコは、パンを握ったまま俯きました。
「その場で泣いたんだ。『わたし、こんなに何もできなかったんだ』って。……聖女様が、みんなの前で」
そうですか。
彼女は、初めて自分の数字を、目を逸らさずに見たのですね。
「聖女の座、返上した。今は王都下層の治療院で、包帯の巻き方から習ってる。毎日、朝から晩まで。給金なしで」
「……そう」
わたくしは、それ以上何も言いませんでした。
罰は、もうご自分で受け取っていらっしゃる。
わたくしが上乗せするものは、何もありません。
「アルベール殿下は」
「王太子位、返上した。今は北の砦で、普通の兵として剣振ってるって」
リコは、荷袋から一通の書状を取り出しました。
「これ、あの人、谷の入り口まで来たんだ。三日前。でも、中には入らなかった。おれに、これ渡して、帰った」
受け取りました。
封蝋は、王家のものではなく、ただの無地の蝋。
開きます。
一行だけ、書かれていました。
『あの歌が、聞こえなくなって初めて聞こえた』
……ええ。
そうでしょうね。
効果が切れて、初めて存在に気づく。
そういうスキルですもの。
わたくしは書状を、焚き火にくべました。
「あっ、燃やした!?」
紙が縮れ、文字が炎に舐められて、灰になりました。
「恨みもありません。赦しもありません」
わたくしは言いました。
「ただ、もう、わたくしの帳簿には載らない項目、というだけですわ」
「あ、あとこれ! 一番でかい話!」
リコが、跳ね起きました。
「王国が、正式に決定したって。【共鳴詠唱】を、国家指定治癒術に登録。名前はね、この谷の名前を取って——」
少年は、胸を張りました。
「『エルネ式』!」
谷の名前。
わたくしの名前ではなく、この場所の名前。
(まあ、それでよろしいですわ)
わたくしは笑いました。
だって、ここで初めて、わたくしは自分のために歌えたのですから。
◆
リコが小屋で眠ってしまった後。
焚き火の前には、わたくしとガルドだけが残りました。
木苺のジャムを塗った黒パンを一枚、差し出します。
「どうぞ、ガルド様。最後の一枚ですわ」
彼は受け取り、しばらく手の中でそれを見ていました。
それから、息を吸いました。
喉が、動きました。
深緑の鱗に覆われた首筋。
三ヶ月前には白く濁って、ひび割れていた場所。
今は、艶やかに月光を弾いています。
低く、少し掠れた、けれど確かな声で。
「……もう一度、歌ってくれ」
焚き火が、ぱちりと爆ぜました。
わたくしは、手にしたパンを取り落としそうになりました。
声。
彼の、声。
竜化病で失われ、石板と炭の欠片でしか語れなかった人の、取り戻された声。
その声で、最初に言われたのが、それ。
「……ガルド様。声が」
わたくしは、なんとか微笑みました。
涙声にならないように、少しだけ意地悪を言うことにしました。
「——それは、命令ですの?」
彼は、金の瞳でわたくしを見ました。
二メートルの巨躯。竜人族の族長。
黙って立っているだけで冒険者が三歩下がる男。
その男が、少しだけ、視線を落としました。
「……頼みだ」
頼み。
三年二ヶ月、『歌え』と命じられ続けたわたくしが。
生まれて初めて、頼まれました。
「——よろこんで」
わたくしは立ち上がり、湧き水のほとりへ歩きました。
喉に手を当てます。
白い筋の傷痕。もう消えることはないそうです。
でも、これは勲章でもなんでもなく、ただの記録です。
四千七百二回分の、記録。
息を吸います。
夜気が冷たくて、木苺の匂いがして、焚き火の煙が少し混じっています。
歌いました。
古代の旋法。祖霊の子守唄。
谷の岩壁が受け止めて、返して、重ねて、幾重にもして、空へ運びます。
小屋の中から、竜人たちが出てきました。
回復した者、まだ寝床の者、その家族。
みんな黙って、月光の下に立っています。
リコが寝ぼけ眼で戸口に座り込みました。
ガルドが、焚き火の向こうで、目を閉じています。
歌の効果は、相変わらず遅い。
傷が塞がるまで数十秒。歌をやめれば即座に切れる。
そして、わたくし自身には、何も効かない。
それでいいのです。
わたくしは、癒やされるために歌っているのではありませんから。
歌い終えて、小屋に戻ると、机の上の手帳を開きました。
羽根ペンを取り、インク壺の蓋を開けます。
『実りの月十二日。詠唱一回。対象十二名。深夜、谷底。』
そこまで書いて、少し考えて、わたくしは余白に一行、付け足しました。
『備考——依頼者より、命令ではなく依頼を受領。本日分、最も良い歌であった』
インクを乾かして、手帳を閉じます。
窓の外で、ガルドがまだ焚き火の前に座っていました。
明日は、木苺をもっと採ってこなければなりません。
ジャムの在庫が、あの方のせいで、想定の三倍の速度で減っておりますので。
新緑の谷に、わたくしの歌が響く。
今日の分も、きちんと帳簿につけておきますわね。




