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第4話 謁見

街の外れにある崩れかけた廃屋の隅で、小さく焚き火の炎が揺れていた。

夜の静けさが周囲を包み、薪のぱちぱちと爆ぜる音だけが、静寂を優しく切り裂く。

エリシェヴァは毛布にくるまり、まだ残る震えを抑えながら、そっと隣のミツキを盗み見た。

赤いドレスの裾を整え、火を見つめるミツキ。黒髪が橙色の光に照らされ、紅いツバキの髪飾りが怪しくも美しく輝いている。

 

「……あの」

 

絞り出すようなエリシェヴァの声に、ミツキは顔を上げ、軽やかに微笑んだ。

 

「ん? どうしたの?」

 

あまりに日常的なそのトーンに、エリシェヴァは毛布を強く握り締め、胸の奥の疑問を吐き出した。

 

「どうして……私を助けてくれたんですか? あなたまで魔女狩りに遭うかもしれないのに……。それに、あの時使った時を止めるような力も、あなたの考え方も……なんだか、この世界の人間じゃないみたいです」

 

ミツキは一瞬だけ瞳を丸くし、やがてふっと苦笑した。

 

「すごいね、エリシェヴァ。バレちゃったか。──信じてもらえないかもしれないけど、その通りだよ。私は、別の世界から来たの」

 

「え!?」

 

「だから、あたしにはこの街の『普通』がどうしても分からない。祈らなかっただけで暴行される? 病気を救っただけで魔女扱い? そんなの、気持ち悪すぎるよ。……ねえ、エリシェヴァ。こんな世界、変えたいと思わない?」

 

「変えたいって、あなた一人でですか? 教皇アダムス様の教会は、この世界のすべてですよ。数多の悪魔や魔王でさえ、かつての戦争で敗れたというのに……」

 

「一人じゃなくてもいいよ。エリシェヴァみたいな優しい人がいるんだから」

 

ミツキのまっすぐな瞳に見つめられ、エリシェヴァは力なく首を振った。

 

「私の力なんて、ただの罪です。ベルゼブブ様に与えられたけれど、人を救うたびに胸が痛むんです。故郷の村を救った時も……結局、私は魔女になってしまったのだから」

 

ぽつりぽつりと漏れ出す言葉とともに、封印していた数年前の記憶が脳裏に溢れ出した。

 

─────

 ──数年前。


エリシェヴァの故郷の村は、酷く荒廃していた。

畑は干上がり、ひび割れた土は赤茶けた傷口のようだった。井戸は涸れ、底に残る泥が腐臭を放つ。村人たちは痩せ細り、頬はこけ、目は希望を失っていた。


朝になると誰かが倒れ、そのまま動かなくなる。夜には常にすすり泣きが響いた。

幼いエリシェヴァは手に握ったパンの欠片を母に差し出すが、母は病に伏し、熱で赤らんだ顔で弱々しく微笑むだけだった。

父の瞳は、かつての温もりを失い、ただ空虚に遠くを見つめている。


エリシェヴァの胸を満たすのは、恐怖と絶望だけだった。


村の祭壇に集まり、村人たちは神に祈った。粗末な木の台に供物を置き、声を合わせて唱える。


「神よ、恵みを」


だが、空は灰色に閉ざされ、風は冷たく吹き抜けるばかり。神は答えなかった。


――エリシェヴァは、両親の墓前で膝を抱え、震える唇で祈りを繰り返す。

だが、母の荒い息、父の空虚な目が思い出され、涙が止まらなかった。


(神はいない……この村は、死ぬだけ……)


村人たちは次々に倒れ、彼女も飢えに体が弱っていく。


ある日、村の外れで老人が焚き火の前で語った。

声は枯れていたが、どこか懐かしさに満ちていた。


「むかしむかし、この地には“豊穣の神”がいたという。田畑を潤し、病を癒し、大地に恵みをもたらした。だが、いつしか忘れられてしまったのだ。」


老人の目は遠くを見、炎の揺らめきに映る。


「その神は、森の奥の祠に眠ると言う。だが、近づく者は呪われるとも……」


村人たちは顔を見合わせ、恐怖に身をすくめた。

だが、エリシェヴァの胸に、かすかな希望が灯った。


(神が応えないならその“忘れられた神”に縋るしかない。両親の分まで、生きてみせる。)


その夜、彼女は両親の墓前に花を供え、村の外へ走った。


森は暗く、木々の間を冷たい風がうなる。足元の小石が素足を刺し、棘がスカートを裂いた。

だが、エリシェヴァは止まらなかった。母の温もり、父の優しい手──それらが、彼女の小さな体を突き動かした。


やがて森の奥、苔むした祠が現れる。

古びた石には誰も読めない文字が刻まれ、湿った空気に草の匂いが混じる。


祠の前で、彼女はなんとか掻き集めた少量の葡萄酒とパンを供え、膝を折り、両手を組んだ。


「どうか……この村を救ってください! 私をどうなさってもかまいません。だから、お願い!」


涙が頬を伝い、雫が地を濡らす。


その瞬間、祠から淡い緑の光が零れ、視界が歪んだ。

エリシェヴァの体が浮き上がり、まるで何かに引き込まれるように闇に溶ける。


森の木々が遠ざかり、彼女は目を閉じる。

次の瞬間、足元に固い石の感触が戻った。


開いた目に広がったのは、古びた神殿のような空間だった。

柱は苔むした石ででき、壁には古い文字が刻まれている。天井は高く暗く、淡い緑の光が全体を照らしていた。空気は湿り気を帯び、草の香りが濃く漂う。


(ここは、どこ?)


「その願い、確かに聞いたよ。」


背後からの声に振り返ったエリシェヴァは、息を呑んだ。


月明かりのような淡い光に照らされ、そこに立っていたのは青年の姿をした存在だった。

淡い茶髪が風に揺れ、草原を思わせる深緑の瞳が彼女を見つめる。整った顔立ちは穏やかで、微笑みは人間以上に優しい。


だが、その背に広がる羽が、彼の正体を物語っていた。

頭には二本の羊のような大きな角。片翼は蛾の翅のように透け、粉を散らすほど脆い。もう一方は先が蜂の羽のようにねじれた異形。


かつて白く美しく輝いていたはずの神の翼は、天の神々の呪いによって歪められていた。


「あなたは……」


エリシェヴァの声は震えた。恐怖と希望が交錯し、足が動かない。


「かつては“豊穣の神”と呼ばれた者。今は──ベルゼブブと呼ばれている。」


その名は、村人たちが恐れ忌む“魔王”の名だった。

だが、目の前の存在は恐怖を煽るどころか、膝を折り、幼い彼女と目線を合わせた。


「怖がらなくていい。君の祈りが、あまりに必死で、応えたくなっただけだ。」


声は柔らかく、まるで風に揺れる草のようだった。


「村を、救ってくださるんですか?」


エリシェヴァの声は涙で掠れる。

ベルゼブブは頷き、静かに言った。


「そのために来た。だが、力を渡すには契約が要る。君の命の一部を私に預ける代わりに、“癒し”の力を授けよう。」


彼の深い緑の瞳は、悲しみと優しさに満ちていた。


エリシェヴァは震える手でスカートを握り、両親の顔を思い出す。母の温もり、父の優しい手──それらが、彼女の小さな体を突き動かす。


「はい。」


ベルゼブブは微笑み、彼女の小さな手を取った。

瞬間、緑の光が二人を包み、熱と温もりが体を駆け抜ける。心臓が脈打ち、命そのものが流れ込むようだった。


光が収まると、エリシェヴァの手にはかすかな緑の輝きが残っていた。


村に戻ると、奇跡が起こっていた。

衰弱していた村人たちが呼吸を取り戻し、頬に血の色が差す。畑に緑が芽吹き、井戸に水が湧く。村人たちは地に伏して涙を流した。


「神の恵みだ!」


彼らは叫んだ。


だが、エリシェヴァは知っていた。

救ったのは“神”ではなく、忘れられた“豊穣の魔王”であることを──。


 ————————

 

「……神様が助けてくれなかったから、私は魔王様に縋った。村は救えたけれど、両親は戻らない。そして私は、悪魔と契約した魔女になったんです」

 

溢れ出た涙を拭うエリシェヴァに、ミツキは優しく寄り添い、その肩を抱き寄せた。

 

「罪じゃないよ。君は自分の命をかけて、大好きな人たちを守ろうとしたんでしょ? それが、ベルゼブブが君を選んだ理由じゃないかな」

 

「……ミツキさん……」

 

「これからは私を信じて。あなたは、もう一人じゃないから」

 

ミツキの温もりに胸が熱くなる。エリシェヴァは深く頷くと、決意を込めて懐から一つの小石を取り出した。苔むした表面に古い文字が刻まれた、あの祠の石。

 

「ミツキ……ベルゼブブ様の領域へ、お連れします。」

 

エリシェヴァが古い言葉で祈りを紡ぐと、石から溢れ出た緑の光が二人を包み込んだ。

空間が歪み、廃屋の風景が闇の中へと溶けていった。 

 


 

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