死に戻り伯爵夫人は愛する人の為に再び地獄へ戻る
私が死を悟ったのは、紅茶を飲み終えた直後だった。
「……っ!」
喉の奥が焼けるように熱く、胃が捩じ切られるように痛んだ。手からカップが滑り落ち、甲高い音を立てて砕け散る。白い陶器の破片が飛び散った。
身体に力が入らず、ずるずると床へ崩れ落ちる。冷たい絨毯に爪を立てながら、震える指を前へ伸ばした。
その先にいる人物を見つめる。夫である、カイルを。
彼は椅子に腰掛けたまま、まるで他人事のような冷めた目で私を見下ろしていた。
「……どう……して……?」
震える声で問いかける。
カイルは自分のカップをソーサーへ戻すと、小さく息をついた。
「ケイティ、お前はもう用済みだからだ」
用済み……?
「君の実家からは十分に金を引き出した。領地も立て直った。商会との繋がりも手に入った。これ以上、愛してもいない妻を置いておく理由がない」
私は目を見開いた。
「そんな……っ! あなたの……ために……」
呼吸が苦しい。それでも必死に声を絞り出す。
「私は……今まで……」
あなたのため、この家のためだった。
没落しかけた伯爵家を救うため、朝から晩まで帳簿を開き、領地の赤字をひとつひとつ洗い出した。実家には何度も頭を下げて援助を頼み込み、商人たちを紹介して販路を広げたのよ。
寝る時間すら惜しんで働いた、それなのに。
「勘違いしないでくれ、君は最初から便利な財布だった。それだけだ」
「あなた!」
部屋へ飛び込んできたのは、美しいドレスと宝石を身にまとった女性だった。
カイルは彼女を見るなり、先ほどまでの冷たい表情が嘘のように、柔らかな笑顔を浮かべる。
「エミリア」
あんなにも愛おしそうな眼差しを、私は一度たりとも向けられたことがなかった。
エミリアは床に倒れる私を見下ろし、唇を歪めた。
「あらぁ、まだ息があったの? しぶといわね」
くすっと笑う。
カイルが「仕事」と称して会い続けていた女性だった。しかし、社交界では愛人だと暗黙の了解だった。
「これでようやく私が伯爵夫人になれるのね!」
エミリアは嬉しそうにカイルの腕へ抱きつく。
「ああ、長かったな」
「本当に目障りだったわ。商人風情が伯爵家の女主人気取りなんて」
カイルも自然に彼女の肩を抱き寄せた。二人こそ本当の夫婦のように微笑み合う。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
私は……。一体、何だったのだろう?
妻でもなく、家族でもない。ただ金を運ぶだけの存在……それだけだったのか。あまりの虚しさに涙が滲むが、もう涙を流す力すら残っていなかった。
「そうそう」
カイルが思い出したように笑った。
「母上も喜ぶだろうな。成り上がりの娘を嫁に貰うなんて恥だって言ってたからな」
義母は、商家出身の私を心の底から見下していた。挨拶をしても無視されるのは当たり前で、どれだけ尽くしても認められたことはない。
私が死んだと知れば、きっと喜ぶに違いない。
私が死んで……、果たして悲しむ人はこの屋敷にいるだろうか。
腹を痛めて産んだ子供――リアムさえ、義母や夫の影響で私を馬鹿にするようになっていた。
「お前の母親は成り上がりだ」「卑しい女だ」「伯爵家に相応しくない」
そう言い聞かされてきた我が子は、最近ではまともに口を利いてくれない。きっと、葬式の日も涙を流さないだろう。
誰にも惜しまれず、私は死ぬのだ。
――この男と、結婚しなければ良かった。
今さらになって後悔が押し寄せる。
けれどもう遅い。身体の感覚が消えていく。視界が暗く染まり、深い闇が訪れた。
***
――鳥のさえずりが聞こえる。
「お嬢様、そろそろ起きてくださいませ」
懐かしい声に、ゆっくり目を開けた。
窓辺から差し込む朝日が、部屋の中を優しく照らしていた。
「……え?」
思わず声が漏れる。見慣れた天井ではなかった。
伯爵夫人の部屋とは名ばかりの、あの寒々しい寝室ではなく、大きな寝台に磨き上げられた家具。クリーム色の壁紙に、小花模様の可愛らしいカーテン。窓辺には花が飾られた花瓶が置かれている。
それは伯爵家ではない。男爵家だった頃の、自分の部屋だった。
「ど、どうして……私は……」
死んだはずなのに――。
慌てて身体を起こし、鏡台に映った姿を見て息を呑んだ。
そこには、私――まだ十代のケイティ・ライアンがいた。頬にはまだ少女らしい丸みが残っている。仕事に追われて疲れた肌ではなく、張りと艶のある肌をしている。
恐る恐る、自分の頬に触れた。温かい……生きている。
「お嬢様? 何をぼんやりしているんですか?」
不思議そうな声が聞こえる。視線を向けると、そこには若い侍女が立っていた。
その顔を見た瞬間、懐かしさに胸が締め付けられるようだった。結婚後は会うことも叶わなかった、長年世話になった侍女だった。
「女王様との謁見も済み、とうとう社交界デビューの日ですよ。あんなにも楽しみにしていらっしゃったではないですか」
侍女の言葉に、私の心臓が止まりそうになる。
社交界デビュー、その一言だけで全てを理解した。
そうか、女王への謁見を終え、正式に社交界へ出ていない時期。まだ誰とも婚約していない。まだカイルと出会ってすらいない、その頃だという事に。
「私は戻ったの……?」
信じられない思いで呟く。死んだはずなのに、神がもう一度だけ機会を与えてくれたかのように人生が巻き戻っている。
カイルと出会う前へ。あの地獄が始まる前へ。
そこまで考えた瞬間、全身が歓喜で震えた。
もう一度やり直せる。今度こそ、絶対に――あの男とは結婚しない。
私は強く拳を握り締めた。
***
王都の大広間は、今夜も眩い光に包まれていた。
無数のシャンデリアがきらめき、磨き上げられた大理石の床に黄金色の輝きを落とす。優雅な音楽が流れる中、色とりどりのドレスを纏った貴族たちが、笑みを交わしながら談笑していた。
社交界デビューの夜会。一度目の人生でも、私はこの場所にいた。
けれど、今はあの時とは何もかもが違って見える。
静かに会場を見渡しながら、私は無意識に指先へ力を込めた。私の人生を狂わせた男が、この中にいるはずだった。かつて毒が全身を巡った時の苦しみを思い出し、背筋の奥が冷たくなる。
前世の私は、「カイル様はやめておきなさい」という母の助言を聞かなかった。恋に浮かれ、自ら彼を選んだ。その結果、あの有様だった。
だから今度こそ、母の助言を聞いて結婚相手は慎重に選ぼうと、心に決めたその時だった。
「こんばんは。良い夜ですね」
聞き覚えのある低い声に、背筋がぴんと強張る。
振り返るまでもなかった。そこにいるのが誰なのか、嫌というほど知っていたからだ。
それでもゆっくりと振り返れば、予想通り。上質な礼服を身に纏い、整った顔立ちに優しげな微笑みを浮かべた男――カイル・グレイヴァルが立っている。
「……ええ」
私は努めて穏やかに微笑んだ。
相変わらず、見た目だけは周囲の令嬢たちが思わず見惚れるほどの好青年だ。前世の私は、その外面にすっかり騙された。
「今夜が社交界デビューですか?」
「はい、……そうです」
「でしたら、緊張されているのでは? よろしければ少しお話でも」
あの時の私は、この優しい声に胸を高鳴らせた。そのままダンスに誘われ、慣れない夜会に怯えていた私を、彼は慣れた様子で導いてくれた。
腕の中の私を優し気に見つめるその眼差しに、私はあっけなく恋に落ちたのだ。
けれど、今なら分かる。
彼が見ていたのは、私ではなかった。私の実家の財産だ。
世間知らずだった私は知らなかったが、グレイヴァル伯爵家は深刻な財政難に陥っていた。
一方で、私の実家であるライアン家は商売を大きく成功させ、国の経済を支えるほどに繁栄していた。その功績を認められ、爵位を授かったのだ。今や国で随一の商家として莫大な財を築いており、その資金力は伯爵家にとって喉から手が出るほど欲しいものだったのだろう。
莫大な結納金と、男爵家からの資金援助。それを得るために、カイルは私に近づいたのだ。
私はそれに気が付かず、愛するカイルの為に尽くした。カイルは私を利用するだけ利用して、捨てたのだ。
だから私は、微笑みを崩さぬまま答えた。
「お気遣いありがとうございます」
カイルの瞳が期待に揺れるが、私は言葉を続けた。
「ですが、申し訳ありません。お待たせしている方がおりますので」
「えっ……」
「失礼いたします」
きっぱりと断り、私はそのまま踵を返した。
待たせている方がいるというのは、もちろん方便にすぎない。会場に着くなり友人夫人のもとへ挨拶に行った母の元へと向かう。私は母の友人へ丁寧に挨拶をする。母に勧められるまま、その友人の息子である男性とダンスを踊った。
その間ずっと、背後から突き刺さる視線を感じていた。
ちらりと視線をやれば、案の定、カイルがこちらを見ている。自分の思い通りにならなかったことに苛立っているのだろう。夜会の間中、彼の目は執拗に私を追い続けていた。
カイルは私を諦めなかった。
次の夜会でも、その次の夜会でも、カイルのアプローチは続いた。
「ぜひ、一度だけでもお話ししたい」
「次はぜひ、ダンスをご一緒に」
甘い声音も、柔らかな笑みも、前世の私ならすぐに頷いてしまっただろう。だが今回は違う。私はそのたびに、きっぱりと断った。
母もまた、私の意見に賛成してくれた。
「彼は確かに好青年だけれど、グレイヴァル伯爵家は財政難ですもの。わざわざ嫁ぐ必要はないわ」
けれど、父と兄は違った。
「お前が気に入った相手に嫁げばいい。もし嫁ぎ先が財政に苦しんでいても、お前が困らないように私たちが支えるよ。お前の幸せが、一番大切なのだからね」
一度目の人生の私は、その優しさに甘えてしまった。
伯爵家へ嫁いだあと、父と兄は何度も援助の手を差し伸べてくれた。高位貴族との縁が広がったことで、我が家にも多少の利益はあったのだろう。けれど、それ以上に心配をかけ、負担を背負わせてしまった。
だからこそ、今度こそは違う。大切な家族に、もう二度とあんな苦労をさせたくない。
「もう二度と、あの男とは結婚したりしない」
そう心に固く誓っていた、ある日のことだった。
兄嫁が、無事に子を出産したのだ。
屋敷は明るい空気に包まれていた。私も胸を弾ませながら、産後の兄嫁が休む部屋を訪れた。
普段は落ち着いた父まで目を細め、兄は隠しきれないほど嬉しそうな顔で何度も赤子を覗き込んでいる。
「お義姉様、おめでとうございます!」
「ありがとう、ケイティ」
柔らかな陽射しが差し込む寝室で、兄嫁はベッドにもたれながら優しく微笑んだ。その腕の中には、小さな小さな赤ん坊が抱かれている。
白い産着に包まれたその子は、眠っているのか目を閉じ、小さな胸を規則正しく上下させていた。
あまりにも愛らしくて、思わず息を呑む。
「良かったら、この子を抱いてあげて」
兄嫁はそう言って、そっと赤ん坊を私へ差し出した。
「……私が、抱いてもよろしいのですか?」
「もちろんよ」
私は恐る恐る両腕を伸ばし、その小さな命を胸に抱き上げた。
軽い。あまりにも軽くて、壊れてしまいそうだった。ふわりと漂う乳の匂い。温かな体温。小さな指がぴくりと動く。
その瞬間――胸の奥に封じ込めていた記憶が、静かに疼いた。
一度目の人生で、私が産んだ息子のリアム。
最期には、義母や夫の影響を受け、私を蔑むようになってしまった。冷たい視線を向けられ、母親として否定されるたびに、胸が裂けるほど苦しかった。
それでも。……それでも、あの子との日々がすべて不幸だったわけではない。
生まれたばかりの頃、私が顔を覗き込むと、ふにゃりと笑ってくれた。
指を差し出せば、小さな手でぎゅっと握り返してくれた。
歩き始めた頃には、「ままぁ」と舌足らずな声で呼びながら、よたよたとこちらへ向かってきた。転びそうになるたびに慌てて抱き上げれば、あの子は嬉しそうに笑っていた。
丸くて柔らかな頬に頬を寄せせれば、くすぐったそうに身をよじる。頬に触れる細い髪がこそばゆくて、二人で声を上げて笑った。
あの温もりを、私は今でも忘れられない。
私は、心から息子を愛していた。そして、幼かったあの子も、確かに私を愛してくれていたのだ。
けれど、義母は私から息子を遠ざけた。「伯爵家のために働きなさい」と命じられ、私は屋敷を切り盛りしながら、社交界を駆け回り、領地の仕事に奔走して、この家のために尽くし続けてきた。それが妻として、母として、あの子の未来を守ることになるのだと信じていたからだ。
たとえ、息子と過ごす時間を削ることになっても。
会えない日が増えるたびに、あの子は少しずつ義母の側へと寄っていった。私を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきた小さな足は、やがて止まり。「ママ」と甘えてくれた声は、いつしか聞こえなくなった。
そして気づいた時には、私へ向けられる笑顔は消えていた。代わりにそこにあったのは――。
カイルや義母によく似た、冷え切った眼差しだった。
胸の奥が、ずきりと痛む。
私は腕の中の赤ん坊を抱きしめる力を、ほんの少しだけ強くした。
「可愛い、ですね……」
「ええ。本当に不思議だわ。こんなにも小さいのに、胸がいっぱいになるくらい愛おしいの」
兄嫁は赤ん坊の頬を優しく撫でながら、幸せそうに微笑んだ。
その横顔を見つめているうちに、ふと胸の奥に冷たい不安が忍び込んでくる。
――私が死んだあと、あの子はどうなったのだろう。
義母はリアムを跡取りとして可愛がっていたようだったけど、私が死ねば話は違ってくるだろう。
カイルはきっと、愛人だったエミリアを後妻に迎えたはずだ。そして二人の間に男児が生まれれば――リアムは、邪魔になる。その考えが脳裏をよぎった瞬間、全身から血の気が引いた。
消されているかもしれない……。私のように。
私は慌てて首を振り、その考えを追い払う。
「抱かせてくださって、ありがとうございました」
震えないように気をつけながら、私は赤ん坊を兄嫁へ返した。
「ケイティ? 顔色が悪いわ。少し休んだ方がいいんじゃない?」
「大丈夫です。でも、そうですね。自室に戻らせていただきますね」
兄嫁に微笑み返し、私は静かに寝室を後にした。
廊下へ出ると、窓から差し込む午後の光がやけに眩しかった。
……もし、一度目の人生で、私が死んだあとにリアムが殺されていたとしても、私にはもう関係のないことだ。
死者がその後を知る術などない。知ったところで、どうすることもできない。
それに、今回は違う。私はカイルと結婚しない。あの地獄のような伯爵家へ嫁ぐこともないのだ。
「……なら、リアムは――?」
そこで思考が止まる。
「……リアムは、この世に生を受けることはないのかしら」
胸の奥が、ひどくざわついた。
いや……そうだとしても、二度目の人生を歩む私には関係ない。私は唇をきつく結んだ。
私のせいじゃない。
そう何度も自分に言い聞かせながら、私は廊下を歩き続けた。
廊下を歩く私の胸には、抱いたばかりの赤ん坊の温もりが、いつまでも消えずに残っていた。
***
結局、私は――。カイルの度重なる求婚を受け入れた。
二度とカイルとは結婚などしないと誓ったはずなのに。自分を苦しめた場所へ、自ら戻っていくなど愚かとしか言いようがない。
家族の為にも、あの男のもとへ嫁がないと決めていたはずなのに。それでも、どうしても拒みきれなかった。
愛していた存在に、もう二度と会えない。
私のせいで、生まれてこない。その現実に、耐えられなかったのだ。
もし別の誰かのもとへ嫁ぎ、温かな家庭を築いて穏やかで幸せな人生を手に入れたとしても。私はきっと、後悔してしまうと思った。
結婚するまでは、カイルは熱心に私を口説いた。
一度目の人生でもそうだった。花を贈り、甘い言葉を囁き、まるで誰よりも私を大切にしてくれる人のように振る舞っていた。けれど、結婚が決まり、支度金と援助金を手にした途端、彼は別人のように冷たくなった。
私は訳も分からず、必死に彼の愛を取り戻そうとした。もっと良い妻になれば振り向いてくれるかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱き、私は自分を犠牲にしてまで伯爵家へ尽くし続けた。好きだった、ただ大好きだった。
だからこそ、彼が私へ向けていた優しさのすべてが、実家の財産を手に入れるための芝居だったと知った時、胸を引き裂かれるほど苦しかった。
今回も同じだろうと思っていた。
だが、以前の私のように彼へ盲目的な恋をしていなかったからだろうか。カイルはすぐには本性を見せなかった。
けれど私が妊娠すると、彼はそれを理由に寝室へ来なくなった。屋敷を空ける日も次第に増えていく。
きっと、一度目の人生と同じだ。愛人であるエミリアのもとへ通っているのだろう。
エミリアはカイルの幼なじみの子爵令嬢だった。前の人生の夜会で、他の夫人たちがまるで嫌がらせかのように、私へその存在を聞かせてきたのを覚えている。
子爵令嬢という身分ではあったものの、没落しかけた伯爵家を立て直せるほどの支度金を持参できる立場ではなかった。だからカイルは結婚相手に私を選んだ。愛する女性ではなく、金を持つ妻を。
義母も相変わらずだった。
私を見るたびに、「金で爵位を買った、商人風情の成り上がり貴族」と嘲り、「本来なら由緒ある伯爵家へ嫁げる身分ではないのだから、感謝するべきだ」と何度も言い聞かせてきた。
私は黙って耐えた。泣きたい夜も、逃げ出したくなる日もあった。だが、お腹に宿る小さな命に触れながら自分に言い聞かせた。
「あと少しよ。あと少しで、あの子に会えるのだから……それまでの我慢よ」
そして、長い苦しみの果てに――私はリアムを出産した。
産声が部屋に響いた瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
助産師から渡された赤ん坊を抱き上げる。
小さな体は温かく、柔らかな頬はほんのり赤い。ぎゅっと閉じられた拳を見つめた瞬間、堪えていた涙が溢れた。
ああ、ようやく会えた。
「ふふ……にどめまして、リアム」
私を憎み、冷たい瞳を向けたあの子ではない。何の罪もなく、ただ私の腕の中で眠る、小さなリアム。
私は震える指でその頬に触れ、涙交じりに微笑んだ。
「また、あなたのお母さんになれたわ」
その囁きは、誰にも聞こえないほど小さく、それでも確かに、私の胸の奥深くへと染み込んでいった。
こうして、二度目の育児が始まった。
乳母はいたが、私はできる限りリアムのそばを離れなかった。目を覚ませば抱き上げ、泣けば背を優しく叩いてあやす。小さな指に握られるだけで嬉しくて、何度でもその手を握り返した。
少し大きくなると、リアムは絵本をせがむようになった。
「おかあさま、つぎのページ!」
寝間着姿のまま瞳を輝かせる息子に、私は笑いながら本をめくる。
夜には子守唄を歌った。私の腕の中で安心したように眠りに落ちる小さな体を抱きしめるたび、胸が満たされていく。
幸せだった。
一度目の人生で、手放してしまった時間。どれほど望んでも取り戻せなかった日々が、今は確かに私の手の中にあった。
もちろん、義母は面白くなかったらしい。
「いつまで母親ごっこをしているつもり? 貴族なら子育ては乳母に任せて、家のために働きなさい」
そう言われても、私は首を横に振った。
「あら。商売など貴族らしくない、とおっしゃっていたのはお義母様ではありませんか」
義母の顔が怒りに歪む。
さらに彼女は、実家へ援助を求めるよう命じてきたけれど、今回は断った。
必要最低限の侍女や下働きを確保するため、人手だけは実家から派遣してもらった。だが、それ以上の援助は求めない。
伯爵家の事業にも、領地経営にも、私は一切口を出さなかった。
一度目の人生では違った。
私は知恵を絞り、商人たちと交渉し、領地を盛り立てるために奔走した。寝る間も惜しんで働き、伯爵家を支え続けたのだ。けれど、その努力がカイルや義母に感謝されることはなかった。だから今回は、もう何もしなかった。私はただ、母としてリアムのそばにいた。
すると、伯爵家の財政事情は目に見えて悪化していった。
とうとう伯爵家は借金で首が回らなくなり、屋敷に出入りする商人たちの表情は険しくなり、返済の催促状が毎日のように届くようになる。ついには爵位を返上しなければならないかもしれない、という話まで持ち上がった。
応接間では、義母が金切り声を上げている。
「どうしてこんなことに……!」
カイルも苛立ちを隠さず、私を責め立てた。
「お前が実家に頼らなかったせいだ! 今からでも遅くはない。援助金を貰ってこい!」
だから私はにこりと笑みを浮かべ、口を開いた。
「離縁してください」
部屋の空気が凍りつく。
「……は?」
カイルが呆然と目を見開いた。
「私は、この家の借金を背負うつもりはありません。実家にも、これ以上の援助を求めませんわ」
「な、何を言っているの! お前は伯爵夫人でしょう!」
義母が顔を真っ赤にして叫ぶ。だが私は、笑みを崩さなかった。
「ええ。ですが、もうすぐ伯爵家ではいられなくなるのでしょう? でしたら、実家へ戻らせていただきますわ」
離婚は容易ではない。だが、爵位を返上するとなれば話は別だ。その場合は離縁が認められ、女が実家へ戻ることもできる。
私は、この機をずっと待っていたのだ。
伯爵家が破綻へ向かうと分かっていながら、私は領地経営には一切手を貸さなかった。それどころか、借金がさらに膨らむよう、裏でほんの少し手を添えた。とはいえ、大したことはしていない。浪費癖のある義母とカイルに、欲しいものを我慢しなくてもいいと、それとなく焚きつけただけ。もともと彼らは、自ら身を滅ぼすほど愚かな人間だった。
私はまっすぐにカイルを見つめた。
「知っていますよ。あなたに愛人がいることを。あなたは私を愛していなかった。……私も、もうあなたを愛してはいません。でしたら、結婚を続ける理由などありませんでしょう」
そう言って、私は一枚の紙を差し出した。
「リアムを連れて、私はこの家を出ます。書類にサインをお願いします」
カイルの顔色が蒼白となった。
「ま、待ってくれ。ケイティ、話し合おう。まだ――」
必死に追いすがるその声を、私は無視した。踵を返し、荷物を纏める為に自室に戻った。
多くはない荷物をトランクに詰めていると、「何をしてるのー?」とリアムが無邪気に聞いて来る。
「うふふ。お引越しよ。ライアン家のおじいちゃんとおばあちゃんに会えるのよ、嬉しい?」
「わーい!」と両手を上げて喜ぶリアム。
カイルは愛人のところに入りびたりでリアムとは顔を合わせることもほとんどなかった。父親がいなくても、この子は寂しがらないだろう。そう思うと、かえって苦笑が漏れた。
***
離婚の話を持ち出した途端、カイルは目に見えて焦りはじめた。
そして彼は、私を殺す計画を立てた。
私が死ねば、まだ幼いリアムの親権も後見権も、父である自分の手に戻る。そうなれば、リアムを足がかりにして、私の実家――男爵家から援助を引き出すこともできる。あの家の血を引く孫である以上、将来的にはいくらか遺産も貰えるかもしれない。
離縁されるくらいなら、いっそ妻を葬った方が得だ。
そう考えたのだろう。
だが、私はその計画を事前に察知していた。一度目の人生でカイルに殺されたからだ。
信頼できる使用人に監視を頼み、商人との不自然な接触を調べ、密かに証拠を集め続けた。そして、エミリアが毒を受け取る現場を、王都の役人たちに押さえさせたのである。
その後、商人は取り調べの中ですべてを自白した。
エミリアがカイルの指示で毒を受け取り、私を病死に見せかけて殺害しようとしていたこと。その証言に加え、押収された毒や書簡も決定的な証拠となり、二人は毒殺未遂の罪で逮捕された。
その結果、カイルは爵位を剝奪され、伯爵家は取り潰しとなった。エミリアもまた、相応の刑を受けることとなる。さらに、私を「成り上がり」と蔑み続けた義母も、伯爵家の没落とともに屋敷も財産も失い、これまで誇りに思い続けていたその地位も失うこととなった。
その報せを、私は実家の庭園で聞いた。
柔らかな陽射しが花々を照らし、初夏の風が静かに頬を撫でていく。色とりどりの花が揺れる中、穏やかな時間だけがゆっくりと流れていた。
膝の上には、絵本を抱えたリアムがちょこんと座っている。
「お母さま、つぎのお話を読んで!」
私は小さく笑って、その柔らかな髪を撫でた。
「ええ、もちろん」
リアムは嬉しそうに目を輝かせ、私の腕に身を寄せてきた。その温もりを感じた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ふっとほどけていく。
一度目の人生で、私はこの子を守れなかった。
愛されたいと願い、認められたいと願い、自分をすり減らしながら伯爵家に尽くし続けた。家のため、夫のため、そしてリアムのためだと信じて。
けれどこの子を守るなら、さっさとあの家に見切りをつけて、出ていく方法を探すべきだったのだ。
決断を下せなかった私の弱さが、義母によって私達親子の心は引き裂かれ――そして最後には、信じていた夫に命まで奪われた。
私は空を見上げる。
どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。
この選択が正解だったのか、今でも分からない。
家族に迷惑を掛けないと思っていたのに、結局は今回も両親や兄に心配をかけてしまった。
愛されないと分かっていながら、1度目と同じ男のもとへ嫁ぐなんて……愚かな選択だったのかもしれない。
それでも――。私は膝の上の小さな息子を抱きしめる。リアムはくすぐったそうに笑いながら、私の腕の中へすっぽりと収まった。
失ったはずの温もりが、今、確かにここにある。
「……あなたに、もう一度会えてよかった」
リアムは意味も分からず、にぱっと笑った。
その無邪気な笑顔を見つめながら、私は思う。
たとえこの人生でどんな後悔を抱えることになったとしても、あなたに出会えた。
そのことだけは、永遠に後悔しない。
もし「面白い!」「びっくりした!」「スカッとした!」と思っていただけましたら、ブックマーク&広告の下↓にある【☆☆☆☆☆】から評価していただけると励みになります……!
私が死に戻ったら、今の夫とまた結婚するだろうか……と考えていたら、この作品が生まれました。我が子にもう二度と会えないのは辛すぎるなぁ。
また、人間は時に、合理的ではない選択をしてしまうよね……ということを、この作品では書きたくて書きました。
拙作『悪役令嬢のダイエット革命~〜前世の知識で健康美を手に入れてざまぁします!~』の2卷が8/1発売予定です。下記にリンクを掲載しておりますので、ご興味がございましたらぜひご覧いただけますと幸いです。





