三分の一の饅頭
「饅頭が2個あって人が3人居たとしたらどうする?」
「どうするって……饅頭を切り分けるでしょ、普通」
二月の終わり頃。部屋に置いてあるパイプ椅子に腰掛けている鳴海に熊谷は言った。その部屋はサークル棟の二階の端にある。ドアには「映画研究部」という名札が貼られていた。部屋の隅にある棚には、プロジェクターやカメラ、DVD等が置いてある。器材で部屋のスペースをある程度割かれているが、元々部屋が広いので窮屈に感じることは無い。
今、その部屋に熊谷と鳴海しかいない。
「確かにそうだ」鳴海はうなずく。「しかし、そうすると必ず3人に均等にいきわたるわけじゃない」
「どういうこと?」熊谷は思わず訊ねる。
「簡単な数字だけだったら出来ると思う。しかし、単純に計算してみよう。饅頭が2個で人が3人。つまり三分の二だ。三分の二を数値にしてみれば0,66……。他にも六等分や九等分でも出来るがそっちの方がややこしい。数値的に見てそれと同じように切り分けるのは不可能だ」
「確かにそうね」
こいつは何を言っているんだ、と熊谷は内心で呟きながら適当に相槌を打つ。
鳴海は足を組み替えながら続ける。
「ということは薫が最初に言った様な切り分けるのは無理だ。饅頭をきっちり三等分にするのは難しい。俺には無理だ」
「私になら出来ると思うけど」
「最初は俺もそう思ったよ」鳴海は溜息をつく。「だけど実際にやると難しいんだよな」
鳴海は暢気に笑った。机に置いてあったお茶を一口飲み、息を吐く。
窓から覗ける景色は穏やかなもので、冬にしては暖かかった。
季節外れの暖かさを覚えるのは、熊谷は鳴海が原因ではないかと思えた。
いつだって彼は笑顔を絶やさない。どこか飄々としている態度で、周りの空気に溶け込んでいく。
何故か鳴海が近くにいると落ち着くのだ。昂る感情はもちろん、雰囲気や空気ですら静められる。さすが心理学を専攻するだけのことはあるかもしれない。
「だから俺ならこうする」鳴海は少し誇らしげに言った。「饅頭は食べたい。だけど分けるのは無理。ならば手段は一つ」
鳴海は人差し指を立てた。まるで名探偵が犯人を当てるような感じだ。「ひとりに黙ってふたりでこっそり食べることだ」
どこから見ても幼稚な結論を誇らしげに、鳴海は言った。そんな彼を見て、思わずため息が漏れる。
「もっと色んな手段はあったでしょうに」
「その多くの中でこれがもっとも良い方法だ。まさに真理に基づいている」
「言い訳に真理なんて言葉使うの、鳴海ぐらいだ」
真理、という言葉まで使い始めたので、熊谷はさすがに会話を続けるのが馬鹿らしくなった。こいつは自分がやる事はすべて「真理だ」と誇らしげに言うだろう。
彼が学んでいるのは心理学ではなく真理学ではないかと思う。それとも心理学は真理をセオリーにしているのかどうか。心理学というのは想像がつかない。
「だからさ、鳴海」熊谷は口調を強めた。「私は何で黙って饅頭を全部食べたのかって聞いているの。それじゃ答えにならない」
「それは……」鳴海が言葉に詰まる。どこか言い訳を探しているようだった。「六等分や九等分でも難しいと思ったからさ」
「だから違うって」少し口を荒げた。
鳴海もさすがに空気を読み、観念したように黙った。だが、表情は相変わらず陽気なままだ。
鳴海が熊谷の顔を見る。
「いや、だってね。そこに饅頭があったから」
「登山家みたいなこと言う」熊谷は力ない声で言った。
「そんな事を言うから、日本は毎日犯罪があるんだ」
「犯罪が毎日無い国なんてどこにある?」鳴海が訊いた。
「アイルランドは無かった気がする」
熊谷が曖昧に言った。昔、英語の授業で習った気がする。
「そうなの?」鳴海は熊谷の曖昧な答えに食いつく。「今度、その国に旅行に行ってみようかな」
「私はアメリカを勧めるな。鳴海にはスラム街に行って、路上でさまよって欲しい」
「アメリカは最悪だ。あそこにあるのは、暴力と裁判とジャンクフードだけだよ」
その時、部屋のドアが開いた。入ってきたのは女性で、腰まで届くロングヘアで細い体つきをしている。サークル部員の橘だった。右手には買い物袋をぶら下げていた。
「あれ。熊谷さん、来てたんですか?」
彼女は言葉と裏腹に意外ではなさそうに言った。
「ついさっきね。少し目を離したら楽しみにしていた茶菓子を食べられたの」
橘は熊谷と鳴海を交互に見て「あぁ」と呟く。
「その件は私からもすいません」
橘が大きく頭を下げた。長い髪が垂れ下がり、顔が見えなくなる。
おそらく、鳴海が言っていた2人目は橘だろう。彼女もそれについては隠す気はなさそうだ。鳴海と違い、すぐに自分の非を認めるところは彼女の長所だ。
「そうそう。その代わりといってなんですがね」橘が頭を上げ、右手の買い物袋を見せた。「さっきスーパーに買い物に行っていたんですよ。それのついでに和菓子屋で饅頭買ってきました。鳴海さんに頼まれて」
「え、ウソ?」
「ウソと言われても。私が持っているものはそれなワケですし」
橘は買い物袋から箱を取り出して見せた。確かにそれは熊谷のお気に入りの茶菓子だ。
意外だった。鳴海が人に気を遣うなんて。そんな事は天変地異があっても起こるか分からないのに。
「ホントは熊谷さんの分も残すつもりだったんですけどね」
橘が言った。
「鳴海さんが饅頭を三等分にしようとしたんですけど、失敗しちゃって。どうにか戻そうと六等分や九等分にしたんですけど、案の定ぐちゃぐちゃになったんで私と鳴海さんで食べたんですよ。ぐちゃぐちゃになった饅頭なんて食べたくないでしょう?」
「確かに」何度目だろうか、と思いながら相槌を打つ。
「だから鳴海さんが『買い物ついでに饅頭も買ってきてくれ』って頼んだんですよ」
「ばれないように戻すつもりだったんけどなぁ」
鳴海がぼんやりと呟いた。
「最初から素直に言えば良かったのに」
「最初から何事も無かったように出来れば万々歳だ」
「それも真理?」
「ある意味真理かも」
橘が悪戯っぽく笑う。つられて熊谷も笑った。さっきまで怒っていた自分が馬鹿みたいだ。
「ああ、そうそう」熊谷は思いついた。
「春巳、早速だけど饅頭ちょうだい」
「そんなに食べたかったんですか?」そういう彼女は既に、饅頭を口に銜えている。
橘は買ってきた饅頭を箱から一個取り出し、熊谷に渡した。
熊谷はそれの包みを開いた。掌に収まるサイズで、表面がこんがり焼かれている楕円形の饅頭が顔を覗く。熊谷のお気に入りの和菓子だった。
それを、両手で器用にきっちり三等分に分けてやった。おいしそうな漉し餡がぎっしり詰まっていた。
そのうちの一つを鳴海に渡す。鳴海は目を丸くしていた。
「言ったでしょう? 私には出来るって」
熊谷は笑って言った。橘も、やはり笑う。鳴海は三分の一に分けられた饅頭を凝視している。