魂とロザリオ
時は江戸時代。
元号とかは聞くな。
西班牙からやってきた宣教師、プランチェスコ・サピエルは困っていた。
「困りましたねー……」
茶店の縁台に座り、伝来させたエスプレッソを啜りながら、スペイン語で独り言を呟く。
「キリスト教の美しい物語を餌に、この国を植民地化したかったのですが……何やら雲行きが不穏です」
幕府はぼちぼちと鎖国体制を敷こうとしているところであった。
作者は日本史で50点以上を取ったことがないのでよく知らないが、キリスト教を弾圧する動きが始まっていたのだ。たぶん踏み絵とか、ああいうやつだ。
「それにまた困ったことには……」
サピエルは羊羹をつまようじで刺すと、さらに呟いた。
「日本人、心が真面目すぎるよ……。神を信じてくれたひとが、あまりにも本気になりすぎやねん……。おっ?」
後ろから近づいて来る一人の女があった。
「羊羹にエスプレッソ、合う合う! うまーーー!」
はしゃぐサピエルに、女が声をかけた。
「サピエルさま……」
「あっ?」
恥ずかしい声をあげたところに声をかけられ、サピエルは赤面して振り向く。
「やぁ、安倍麻利衣サンではないですか。これはお恥ずかしいところを見られてもうて……」
カッパのように剃った頭のお皿のところをポリポリ掻くサピエルに、しかし真剣な表情で麻利衣は進言した。
「サピエルさま……。切支丹弾圧が過激化しております。サピエルさまも身をお隠しになったほうが……」
確かにこんなところで呑気に羊羹とエスプレッソを味わっている場合ではなかった。
「いや、私はスペインの駐在大使。私に危害を加えれば祖国が黙っておりまへん。……それよりも、あなだ。……私はあなたのことが心配や」
サピエルは麻利衣の頭のてっぺんからつま先までを、愛しそうに眺めた。
藍色の着物に身を包んだ、細面の彼女は、美しかった。その手首には隠すつもりもないロザリオが聖らかに光っている。
「麻利衣さん! 逃げなはれ! せめてそのロザリオは着物の中に隠して……!」
「わたくしは逃げません」
麻利衣は決然と言い切った。
「一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし──キリストさまが仰ったように、わたくしはこの生命を賭けてでも、信仰を貫き通すつもりです」
サピエルは罪悪感に駆られた。
じつは彼はキリストを信じていなかった。
大飯は喰らうし姦淫もする、ふつうの男であった。ただ極東の島国に美しい神の物語をもたらし、それを用いて洗脳するために宗教学を学んでいただけであった。
しかしこの時サピエルは、初めて神を信じそうになった。
目の前に立つ日本人女性が、浅ましい自分に罪悪感という名の罰を与えるために神が遣わしたもののように見えたのだ。
『マリアさまや……。まるで麻利衣はんは、マリアさまや』
✝
「おいっ! ガキども! その十字架はなんだっ!?」
街を歩いていると、男たちのそんな怒声が聞こえてきて、サピエルは思わず塀の裏にサッと隠れた。
そーっと顔を出してみると、三人の子どもたちが役人に捕まっている。知っている子どもたちだった。皆、首から鎖のついた十字架をかけている。サピエルがあげたものだった。
「まさかおまえら切支丹じゃないだろうな!?」
サピエルは誰にも聞こえない小声で子どもたちにアドバイスを送る。『ちがうよって言いなさい。"これはただのオモチャだよ、ぼくら切支丹ちがうよ"って言いなさい』──
しかし子どもたちは正直だった。
「うん。ぼくら、切支丹だよ」
「なにいっ!?」
「嘘はつかない。だってキリストさまは正しいんだもん。サピエルのおっちゃんがそういって教えてくれたんだもん」
「サピエルさんが聞かせてくれたキリストさまのお話は美しいんだ!」
「おまえらみたいなきたない大人にならないため、ぼくらはキリストさまを信じるんだ!」
『わっちゃあ〜〜〜!』
サピエルは自分の顔を押さえた。指の隙間から涙がちょちょぎれる。
『キミら、真面目に信じすぎやぁ〜〜〜!』
「子どもだとて容赦はせんぞ! 切支丹は御法度だ! 来い! 改心するまで痛めつけてやる!」
サピエルは迷った。
助けに出ていくべきか、逃げるべきか──
すぐに逃げるほうを選んだ。
『すまん! 子どもたち! ワイは無関係や! バカ正直にフィクションを信じたキミらがバカなんや、許せ!』
背を向け、逃げだしかけたサピエルは、しかしまた聞き慣れた声を聞いた。
「お待ち下さい! 子ども相手に何をなさるんです!」
振り向くと、藍色の着物に身を包んだ、華奢な女性が役人たちの前に立ちはだかっているのを見た。
『ま、麻利衣はん……!』
「なんだ貴様はッ!」
役人たちの声が、美人を前にして、少し嬉しそうになる。
「邪魔立てをするなッ!」
「ムッ……? 貴様、その手に持っている十字架は……!」
「これはロザリオというものです。聖母マリアさまに祈りを唱える際に用いる、数珠のようなものですわ」
「切支丹かッ!」
「堂々と抜かしおって!」
「麻利衣さま!」
子どもたちが駆け寄ると、麻利衣は優しく抱き止め、慈愛の微笑みを浮かべた。
「子どもたちの代わりにわたくしが責め苦を受けましょう。それでいいですね?」
役人たちがゲスな笑みを浮かべた。
「……おう」
「それでいいぜ」
「よかったわね、坊やたち。さぁ、お行き。神さまが救ってくださったのよ」
子どもたちがいなくなると、役人たちはさらにゲスな笑いを強くする。
「姉ちゃん……、美人だなァ」
「痛めつけるのは勘弁してやる。その代わり……」
「わかるな?」
助平な目で身体じゅうを眺め回す男たちに、麻利衣はきっぱりと言った。
「わたくしは抵抗いたしません。ただ、それはあなたがたの暴力に対してのみですわ」
「なに?」
「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさいとキリストさまは仰いました。わたくしはあなたがたに打たれるために左の頬を差し出しましょう。ただし、不埒な行為をなさるというなら、わたくしはここで舌を噛み切ります!」
『麻利衣はん……』
サピエルは塀の後ろで、出ていきたそうに足踏みをしながら動けずにいた。
『麻利衣はん……!』
「クク…」…
役人たちは笑ったが、悔しさに三点リーダーが括弧からはみ出してしまった。
「面白いな、女…」…
「おまえのような小股の切れ上がったいい女を痛めつけるのも一興よの…」…
『麻利衣はん……!』
サピエルは塀の裏で、ただジタバタしていた。
『ああーっ! 麻利衣はん!』
✝
刑場の真ん中におおきな十字架が作られ、そこに麻利衣は磔にされた。
町人も武士も、こぞって柵の外側からそれを見物しに来ていた。
野次馬に混じってサピエルもそれを見ていた。
声は出さずに、心の中で日本人を詰っていた。
『アホかーーーっ! それは魔女に対する刑罰やがな! 日本人なんにもわかってへんな! キリストも確かに十字架刑に処されたけど、それは人間の愚かさを知らしめるため、また復活の日を信じさせるため、自ら己の科せられる十字架を運んだんや! それもすべて神を信じさせるための演出やがな!』
サピエルの声などもちろん聞こえることなく、役人は観衆に告げた。
「この女は切支丹である! 南蛮の神などを信じるとどうなるか──皆のもの! 目をかっぴらいて見よ!」
高いところで十字架に縛られた麻利衣は、表情ひとつ変えずに赤い空を見つめていた。
薪を集めて火が燃やされている。
役人たちはそこから松明に火を移すと、十字架のほうへ歩きだした。
十字架の下にも大量の薪が積み上げられていた。
柵に手をかけて、子どもたちがそれを見ていた。
「あぁ……、お姉ちゃん」
「大丈夫だよ、お姉ちゃんはきっと天国へ行ける」
「魂は不滅なんだ。審判の日に空から神さまが現れて、天国への門を開いてくださるよ」
それを横で聞いていたサピエルは、思った。
『アホやなー……』
サピエルは魂の不滅など信じてはいなかった。人の魂は死んだ後も不滅であり、善き魂は神による最後の審判を経て、天国に行けるものだなんて、そんなのは人を善行に導くための嘘話だとしか思っていなかった。
「主よ、彼らをお赦しください」
麻利衣は薪に火を移す役人たちを見下ろし、言った。
「彼らは自分が何をしているのか、わからないのです」
勢いよく、薪に火がつき、炎が高く燃え上がった。
「復活するよ!」
子どもたちがワクワクした口調で話し合う。
「空から天使、降りて来るかな?」
「お姉ちゃん、綺麗だ……」
麻利衣の藍色の着物に火が燃え移った。醜いところはひとつも見せずに、毅然とした表情のまま、その身は黒く焼かれていった。
神々しいロザリオが手首からはずれ、薪の中へ落ち、煤だらけになった。
✝
サピエルは頭を綺麗に坊主に剃ると、日蓮宗の僧として出家した。
美しい日本人の魂は、絶対に神の国に行けるほどに善いものだとは思ったが、残念ながら以前にも増して神を信じることができなくなっていた。
そして日本は植民地化されることなく、独立を保った。