ロッドバルト (5分で読めるショートショート)
昔、ある悪魔が人間の娘に恋をした。
野に咲く花を摘んでいた娘を一目見て気に入った悪魔は、彼女に魔法を掛けて自分の棲む森へと連れ帰った。
初めは戸惑い、帰りたがった娘も、同じ境遇の仲間たちと美しい自然の広がる環境とに、次第に馴染んでいった。
悪魔は彼女を喜ばせようと、森に四季折々の花を咲かせ、たびたびご馳走を届けてやった。
娘はご馳走にはあまり喜ばなかったが、色とりどりの花を嬉しがり、人の姿に戻るときには以前のように花を摘んでブーケを作った。
悪魔はまだ日の高い内から眩しいのを我慢して彼女の所へ飛んでいき、二人での会話を楽しんだ。
内気な娘は、この恐ろしい姿と意外な優しさを併せ持った悪魔にも、徐々に心を開くようになっていった。
月明かりの夜には、娘たちと悪魔はひととき本当の姿に戻り、夜明けまでの時間を踊ったり歌ったりしながら過ごした。病とも飢えとも老いとも無縁の優雅な暮らしだった。
ところがある晩のこと、森に招かれざる客がやってきた。
二人の若い人間の男たちは、道に迷って辿り着いた森の奥で、月の光を浴びた娘たちを見てしまった。身分の高い方の男はとある国の王子で、ちょうど未来の妃を探していた。
美人ぞろいの娘たちの中で王子が目をつけたのは、不幸にも悪魔が恋する花摘みの娘だった。
駆けつけた悪魔の姿を恐れて侵入者たちは逃げていったが、王子に声を掛けられた娘の心に、人間の世界への郷愁が戻って来た。
悪魔というのは昔も今も、愛の力にめっぽう弱い。王子が心からの愛を娘に誓えば、悪魔の魔法は力を失い消えてしまう。悪魔は花摘みの娘を失いたくなかった。
彼は知り合いの中でも一番の悪女を呼び出して、王子を誘惑するよう彼女に頼んだ。悪女はお安い御用と請け合ったが、悪魔の恋の純情なのをひとしきりからかうことも忘れなかった。
花摘みの娘に化けた悪女と悪魔は、深夜に王子の居城を訪れた。王子はまんまと惑わされ、彼女をいつまでも愛すると約束した。悪魔は大いに喜び、満月の夜空を悠々と飛んで森に帰った。
人の姿に戻って里の方を寂しげに眺めていた花摘みの娘は、悪魔が飛んでくるのに気付いた。彼は娘の隣に降り立つと、少しだけ浮かれた気分を滲ませてこう言った。
「今夜もそんな顔をしているのかい。美人が台無しだ」
「ごめんなさい。私はどうしても里のことが忘れられないのです」
「ああ、だが君がここに来てからもう百年も過ぎた。君の生きる場所はこの森の他にないんだよ」
「父母のことは申しません。不孝をしてしまったけど、この森での暮らしは満ち足りていました。私が人の世に生きていたら、きっとこんなに心安らかな時間は送れなかった」
「君には今の暮らしが合っているんだ。月や季節と同じように、巡り続ける今の暮らしが。いつまでも、美しいままで」
悪魔はふいと里の方に目を向けた。花摘みの娘は人々が怖れる悪魔の横顔を寸時、見つめた。それから自分も里の方へと向き直った。
「あなたの魔法はきっと解けてしまうわ」
「期待しているのかい、そうなることを」
「ごめんなさい。私は期待しています」
消えそうに細く、それでも夜の静寂によく通る声で娘は言った。
「人間の感情ほどあてにならないものはない。あの王子は今夜、別の娘に愛を誓ってしまったよ」
淡々と、事実だけを悪魔は口にした。
本当なら花摘みの娘にそうしたように、王子を魔法で思い通りに変えてしまうことも、彼にはできた。
しかしそうすることは娘の想いに対してあまりに乱暴すぎると彼は考えた。王子の身の上などはどうなろうと構わなかったが、この先の長い未来を娘に恨まれながら過ごしたくはなかった。
悪魔の言葉を聞いた娘は、急に力が抜けたようにその場に座り込んだ。湖の岸辺の土は緩く、彼女の白い衣服も指も、ぬかるみの泥で汚れた。悪魔は大きな夜の翼を広げ、地面を見てうなだれる娘を優しく覆ってやった。
朝が来れば、また澄んだ水が彼女の泥を洗い流してくれるだろう。
それから月が二度欠け、二度満ちた。
あの王子が再び湖へとやって来た。彼は悪女に騙されたことを知り、自分の過ちを悔いていた。後悔に鈍った心では悪魔の魔法を解くことはできない。しかし彼は諦めきれず、一人夜の道を抜けて娘に会いに来たのだった。
異変に気が付き、悪魔は湖へと駆けつけた。今夜の王子は逃げ出さなかった。悪魔は王子と娘の間を遮るように立ち塞がった。膝を震わせながら彼を睨みつける王子に、地の底から響くような声で悪魔は告げた。
「卑小な人間よ、立ち去るがいい。もはやお前に我が魔法を解くことは叶わぬ」
翼を広げた彼の肩越しに、娘が王子を見ているのが分かった。王子は言った。
「いいや、お前を倒して彼女を助けてみせる」
「愚かな。この場で血を流そうというのか。それだから貴様らは卑小だと言うのだ」
王子は答えず、携えていた古びた剣を抜き放った。
鞘に隠れていた刃が姿を現すと、目映い太陽の輝きが辺りを照らした。森の闇が払われ、娘はたちまち一羽の白鳥へと姿を変えた。悪魔は光から身を守るように、目の前に手を翳して顔をしかめた。死角ができた。
思いがけない速さで王子の剣が閃き、悪魔の肩口を貫いた。輝く刃が身の内側から悪魔を焼いた。
苦しみの呻き声を上げて悪魔は王子を突き飛ばした。草むらに転がった王子はすぐに身を起こすと、両手で剣の柄を握り締め、捨て身の勢いで突きかかってきた。仮初めの太陽の光が悪魔の魔法を封じていた。鋭い爪を振るって悪魔は応戦したが、次第に傷つき追い詰められていった。
ついに水辺の泥に膝をついた悪魔めがけて、王子は燦然と輝く剣を振り上げた。
「梟の悪魔よ、覚悟!」
これまでか。太陽の輝きに屈した悪魔が瞼を閉じようとしたその時、夜空を切り裂いて飛び込んできた黒鳥が王子の腕に嘴を突き刺し、光の剣を跳ね飛ばした。弧を描いて飛んだ剣は湖に吸い込まれるように消えていった。悪魔は突然の出来事と、黒鳥の背から流れ出る血に驚いた。城を出発する前に、王子は悪女を斬っていたのだった。
「なんてザマだい、夜の翼ともあろう者が。人間の娘なんかに気を取られるから、そんなことに、なるんだ」
切れ切れの声で悪態をついて、黒鳥はその場に倒れ込んだ。満月の光が彼女を照らしていたが、もうその姿は変わらなかった。悪魔は黒鳥を抱きかかえ、残された力を振り絞って夜空に舞い上がった。視線を向けると、湖畔から彼を見上げる白鳥の娘と目が合った。恨みとも憐れみとも違う目で、娘は悪魔を見つめていた。彼女の唇の動きを確かめた悪魔は、二度と振り返ることなく飛び去って行った。
さようなら、ロッドバルト。
あなたにもらった無限の命をお返しします。
気がつくと、黒鳥は高台の草の上に寝かされていた。
傷の手当てが間に合ったのか、彼女は一命を取り留めた。西の空に月が沈みかけていた。
星を見ていた梟の悪魔が、彼女の様子に気付いて笑顔を作って見せた。
「君に助けられたな」
「懲りたらいい加減にしてよね。あんたのロマンに付き合ってちゃ身が持たないわ」
人の愛を弄ぶ悪女らしくもないことを黒鳥は言った。
怪我を押して飛んだせいで彼女の翼はほとんど動かなくなっていた。夜が彼女の傷を癒すまで、幾度の満月を見送ることになるのだろう。
悪魔は言った。
「すまない。これからは私が君の翼になろう」
「……その言い方をやめろってのよ」
浮かびかけた微笑を、悪女は憎まれ口に紛らせた。




