参ノ唄③
「泡沫様は、恋をした事がありますか?」
夕闇迫る中、行き交う人が徐々に遠ざかる様を見つめながら小雨は問うた。
「恋、か……あっしには、縁遠いものだな」
「え?」
思わず呆けた声を上げると、泡沫は吹き出すように笑った。
「何だい、その反応は。あっしがそんな遊び人に見えたのかい? 賀照と同じに思われるのは心外だな」
「いいえ、そんなことは……ただ、泡沫様はとても素敵な人なので、きっとたくさんの恋をしてきたんだろうって思って……」
「よしとくれよ。あっしは行商人。恋人は、商品さ。それに……恋なんざ、一度出来れば上等だろう」
「そう、ですか……」
小雨が遠慮がちに笑みを浮かべた。
「そういうお前さんはどうなんだい? そんなことを聞くって事は、いい人でもいるのか」
「いえ、私は……」
と、小雨は慌てて両手を振りながら否定する。
そして、突然思い出したように大人しくなった。
「禿には、必ず専属の姉さんがいます。でも、私には、今、姉さんがいないんです」
「今ってことは……」
「はい、死にました。先月、身を投げて」
「!」
泡沫は、細い目をやや見開いた。
「詳細は教えてはくれませんでしたが、身投げする直前に、姉さんが言っていたんです。一生分の恋をした、って」
「恋ってことは……」
「はい。おそらく、心中かと。姉さんの他に、姉さんを贔屓にしていた男の人も一緒に川から上げられましたから」
「そんなことが……」
「はい。でも、ここでは珍しい話じゃない。だから、時間が経過した今、もう誰も姉さんの死を嘆く人もいない」
「いるだろ」
「え?」
「お前さんは、今でも死んだ姉さんを偲んでいるじゃないか」
「……はい」
小雨は下を見て言った。
「私、最初、遊女って怖いって思っていたんです。いつも苛々していて、禿に当たり散らすこともしょっちゅう」
実際、運が悪いと、死に至ることもある。苛ついた遊女が禿を投げ飛ばして死なせてしまうことや、重労働と心労で身体を壊して死んでしまうことも、珍しくない。
「だから、私は本当に幸運でした。私の姉さん……せせ姉さんは、とても穏やかな人で……こんな私にも、いつも優しくしてくれた。だけど、いなくなってしまった……姉さんだけじゃなくて、朝霧ちゃんや千代ちゃんも、身を投げて、遠くへ行ってしまった」
「成程な。恋に、殺されたってことか」
「……」
小雨は、答えない。
「愛するがゆえに死を選んだ、若き乙女達。それで、あっしに恋とは何ぞと問うたわけか」
「ごめんなさい、こんな事を言われて、困りますよね。でも、どうしても、答えが欲しかったんです。恋は、命をかける程の価値が本当にあったのか……姉さん達の気持ちが、知りたかったんです」
「そうかい」
泡沫は俯きがちな小雨の頭に手を置いた。
「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひぬるかな」
「え?」
「平安の歌人、藤原義孝が詠った、恋の歌さ。意味は『お前さんに逢うためなら死んでも惜しくないと思っていた命だが、お前さんに逢えた今では、死ぬのが惜しい。いつまでも、長く、お前さんと共にいたい……』。そんな感じだったかね」
「長く……」
「恋の結末なんて、人それぞれ。何が正しくて、何が間違っているかなんて、あっしにも分からねえ。それでも、人って生き物は、その一瞬で色んな事を考え、色んな事を決断する。その選択が、その時は最良だと思ったんだろ。そこに、正しいも間違いもないさ……ようは、その時のお前さんが、どう思ったかだよ」
泡沫は、続ける。
「その答えが、自分が納得出来るか、出来ねえか。それが、お前さんにとっての真実。結局、お前さん自身だ」
「私、自身……」
「そうさ。小雨を生きられるのは、小雨だけだ。確かに、思うようにいかない世の中だが、そこだけは変えちゃいけねえし、譲っちゃいけねえよ。お前さんの姉さんが、その時どういう決断をして、身を投げたかは、姉さんしか分からねえ。分からねえもんを考えたって、答えなんざ出ねえだろ。だから、お前さんは、お前さんの恋をしな。そして、お前さんの答えを出すんだ。姉さんじゃねえ、お前さんだけのな」
「泡沫様……」
小雨は立ち上がった。そして、深く泡沫に頭を下げた。
「ありがとうざいます」
「お前さんはそればっかりだね。礼を言ったり、謝ったり……でも、さっきのお前さんより、あっしは今のお前さんの方が好きだよ」
「えっ……」
小雨はポッと顔を紅く染めた。年相応の態度に、泡沫は吹き出すように笑った。途中でからかわれていることに気が付いた小雨は、少しだけ残念そうに頬を膨らませながらも、笑っていた。
*
小雨が去った後、泡沫は団子の串をくわえながら、空を見上げた。
橙色の光が、藍色の闇に呑まれていき――夜の気配が、訪れた。
「しっかし、本当に人ってのは不思議だね。こういった光景に風情を感じ、そこに想いを馳せて、歌を詠うのだから」
「そして、その歌が、今度は人の心を喰らっている」
目の前に影が出来た。泡沫が見上げると、案の定、そこには見知った顔があった。
「巴さん」
白銀の長い髪に、白い着物。藍色の羽織を肩にかけた、お決まりの格好で巴は立っていた。
「やあ、泡沫。珍しい所で会うね」
「そういう巴さんは、また検診かい?」
「まあ、そんな所だよ。町医者は忙しくてね」
と、巴は優しそうな笑みを浮かべた。
「それより、泡沫。さっきのお嬢さんだが……」
「ああ、分かっている」
「ならいいが。君は、薄情そうに見えて、情に脆い所があるからね」
「よしてくれよ。賀照じゃあるまいし……それに、結局、決めるのは、当人次第さ」
どこか投げやりな泡沫の様子を見て、巴は小さく息を吐いた。そして、振り返り――夕日が大地に落ちる瞬間を見つめる。
「『君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひぬるかな』――君も、考えたもんだね。歌を上書きしようとするとは」
「……」
泡沫は、答えない。
「それで、効果はありそうかい?」
「さあ、そんなの、あっしに分かるわけねえだろ。人間の気持ちなんざ、あっしらには一生かかっても理解出来ねえよ。だって……」
「人じゃねえんだから」