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心終絵巻  作者: シモルカー
俄雨の章
11/33

詞ノ唄②

 ――いつかは、こういう日がくるって分かっていた。

 それが花街で生きる女の宿命だということも。

 蕾が花開くように、蛹が蝶になるように――変わる瞬間は必ず訪れる。

 しかし、実際にその現実を突きつけられると、決意が揺らぐ。

 いや、違う。決意が揺らぐ本当の理由は、花を散らす恐怖ではなく――

「小雨? どうしたんだい?」

「厚切様……」

 思わず部屋を飛び出して店の裏庭まで駆け下りてきた時。背後から声をかけられた。

 ――どうして、彼がここに? お客さんが来るような場所じゃ……

「とても、哀しそうな目をしているね」

 鴨ノ助は優しい手つきで、小雨の頬を撫でた。

 たったそれだけで、浮かんだ疑問は頭の隅へと追いやられた。

「私で良ければ、話くらい聞くよ」

「厚切様……っ」

 思わず縋りそうになるが、それを寸前で堪えた。

「いいえ、私は……」

「我慢するもんじゃないよ、小雨」

 と、彼は一歩後ろに下がった小雨の腕を引いて自らの腕の中に閉じ込めた。そして、袖で小雨の涙を拭った。

「いけません、厚切様。お召し物が……」

「いいんだよ。私の袖はね、女の涙を拭うためにあるのだから」

「……っ」

 優しい口調と、自分の頭を撫でる手に、小雨は別の涙が溢れてきた。

「ありがとうございます、厚切様。あなたは、いつも、私に優しくしてくださる」

「当然だ。私はね、小雨、お前のことをとても気に入っているんだよ。だから、どうしても、構わずにはいられないんだ。なんてことを言ったら、また店の人に怒られちゃうかな」

 おどけた様子で言う彼の瞳は熱っぽく小雨を見つめ――まるで恋焦がれる乙女のような深い情を感じた。

 その時、ふいに、朝霧の言葉が脳裏をよぎった。


 ――『聞いて、小雨。私、好いた人が出来たの』

 ――『まだ少しだけ怖いけど、その人が言ってくれたの。私の水揚は、自分が担当するって。その気持ちだけで、私は十分救われた。これから先、とても怖いことや酷いことがあるかも知れないけど……初めてを好いた人に捧げられるのなら、それだけで私は生きていけるわ』


 ――初めてを、好いた人に……。


「厚切様……」

 小雨は、縋るように彼を見上げた。

 対する彼は、そんな小雨の身体を抱き締めながら、彼女の頬を優しく撫でる。

「何だい?」

「私……もうすぐで、水揚なんです」

「それは、本当か? あ、でも、言われてみれば、小雨ももうそんな年頃だったね」

「……雲雀、姉さんが……日程を、決めるって」

「雲雀……ああ、またアイツか」

 彼女の名前を出しただけで、大体の想像がついたのだろう。鴨ノ助は、軽く拳を握った。

「まったく、酷いことをする女だ。自分も、通った道なら、それがどれだけ重要か分かる筈なのに……」

「厚切様、私……」

 小雨は遠慮がちだった手を伸ばし、鴨ノ助の背中に手を伸ばした。

「小雨?」

「私、ずっと……これが、本当に恋なのか、分かりませんでした。ここでは、恋は御法度。恋をした人から、命を落とすから……」


 ――今でも、命をかける程のものかどうかは分からない。だけど、泡沫様は言ってくれた。


「それでも、あなたをお慕い申しています」

 恋の結末は人それぞれ。ならば――

 ――私は、この人との一夜限りの思い出だけあればいい。

禿(かむろ)なんかの私が、あなた様に恋い焦がれること自体、罪なのは承知の上です。それでも、夜限りの夢を、私にください……それだけあれば、私はもう全てを受け入れられます。どうか、私に、慈悲を……」

「そんなもの、必要ないんだよ、小雨」

「え?」

 思ったよりも優しい声が降ってきて、小雨は彼を見上げた。

「慈悲なんかじゃない。言った筈だよ。私はね……ずっと前から、お前が好きだったのだから」

「う、そ……」

「嘘なものか。毎日頑張るお前に、いつしか恋に落ち……いじらしいお前を、自分の物にしたい。そんな欲望すら抱いていたんだよ」

「……あっ……」

 鴨ノ助の腕が、小雨の腰を撫でた。

「本当は、お前が店に出てからにしようって我慢していたんだが……お前にそこまで懇願されては、男として、私も応えなくてはね。小雨……貰って、いいんだね?」

「はい、厚切様!」


 ――ああ、私は幸せだ。


 小雨は、ずっと重かった心が晴れていくのを感じた。

 今までが雨雲のように暗くジメジメしたものだったら、今は雨上がりの空のように清々しい。

 ――姉さん達は、恋は危険だ、命を落とすって言うけど……そんなの、嘘だった。

 ――だって、私は今、こんなにも幸せだ。

 ――恋をして、幸せになれたんだ。

 ――あの時、姉さんがすごく幸せそうだったのが、今ようやく分かった。

 恋をした。

 そう自覚した瞬間、心がとても軽くなった。雪解けのような、晴れやかな気持ちになれた。

 これが最初で最後の恋だとしても――

「厚切様、私は、幸せです」

「ああ、私も……これで、ようやくお前が手に入る。恋い焦がれていた時は辛かったけど、今とても幸せだよ」



「それじゃあ、小雨」

 鴨ノ助は、小雨に笑みを落とした後、抱いていた肩をそっと遠ざけた。

「誰かに見られては邪魔が入るかも知れない」

「あ……」

 小雨の脳裏に雲雀の姿が浮かび、小雨は俯いた。

 ――そういえば、どうして雲雀姉さんは、いつも私をあんなに邪険にするんだろう。

 ――私、何かしてしまったのかな?

 以前から、小雨は雲雀が苦手だった。

 男勝りで言いたいことをはっきり言う雲雀と、言いたいことが言えずに縮こまってばかりの小雨。水と油であり、相性は良くないだろうとは思っていた。

 ――それでも、前はまだ……少しだけだけど、ちゃんと話せていた。

 ――あんな風に、脅したり、わざと傷つけるようなことを言ってくる人ではなかった。

 潺が死んでから、雲雀の当たりは強くなった。

 特に、小雨が厚切と話している時、彼女は邪魔するように絡んでくる。

 ――もしかして、姉さんも……。

「どうかしたのか? 小雨」

 小雨が無言で厚切を見上げていると、彼は柔和な笑みで首を傾げた。

「い、いえ、何でもありません」

「そうかい? なら、早速だが、日付は……」

 そこで、厚切はそっと小雨を抱き寄せ、耳元で囁いた。

「明日の、この時刻に、ここで会おう。いくらなんでも、明日いきなりってことはないだろうし、その時は上手いことを言ってかわせばいい。かわし方は知っているかい?」

「あ、はい。その……せせ姉さんが、よくやっているのを、見ていましたから」

 大体が体調不良といえば、相手の方が遠慮する。花街は病にかかりやすい。体調の悪そうな娘をわざわざ呼びつける物好きはいない。それこそ、死にたがりな奴くらいだ。それも、相当苦しんで死にたいような。

 あとは――

「……っ」

 小雨はもう一つの言い訳を思い出し、顔を赤らめた。

 これは少女の特権ともいえる言い訳だが、実際に言葉にすると恥ずかしい。

「……っ」

 その時、刺すような視線を感じ、小雨はおそるおそる顔を上げた。

 鴨ノ助が、自分を見つめていた。

 あまりの気迫に、小雨は身を固くした。

 花街で交わされる、男が好いた遊女に向けるような色っぽい視線でも、たまに町で見かける恋仲の男女の間で交わされる、愛おしいものを見るような甘酸っぱい視線でもない。

 もっと傲慢で、強欲で、獰猛で――欲を孕んでいた。

「……っ」

 小雨は無意識に鴨ノ助から距離を取った。

「小雨? どうかしたのか?」

「あ、いえ」

 しかし、それは小雨の気のせいだったようで、一瞬で彼の顔から、その怖い気配は消えていた。

 いつも裏庭で泣いている時に慰めてくれる、優しくて頼れる大人の男の人の顔だった。

 ――私の、気のせい?

「すまない、もしかして、怖がらせたか?」

「い、いえ! それに、その……私が望んだことですし、か、鴨ノ助様なら、私は何も、怖くありません」

 小雨は真っ直ぐ鴨ノ助の目を見て言った。

「そうか」

 鴨ノ助も、優しい笑みで小雨の言葉を受け入れてくれた。

 小雨はそれを見てホッと胸をなで下ろした。

 ――良かった。いつもの鴨ノ助様だ。やっぱり私の気のせいだったんだ。



「それじゃあ、明日」

 そう軽く挨拶を交わした後、小雨は鴨ノ助と別れた。

 夜風が身体を冷やす中、小雨は逆に体温が上がっていく気がした。

 ――きっと私が、恋をしているから。

 ――あの人に恋をしているから、こんなにポカポカした気持ちになっているんだ。

 小雨が自分の両頬に触れると、冷たい指先がほんのり暖まった気がした。

 ――それにしても、どうして……


 ほんの一瞬だったが、鴨ノ助の顔が、獰猛の獣のように見えた。

 獲物を狙う、飢えた獣のように。


 あの目を、知っている。

 何度も、見てきた。

 この花街で、男が女を買う時に見せる、欲に忠実な雄の眼。


 ――なんて、気のせいだよね。

 ――きっと雲雀姉さんに脅されて、気が動転して、そう思ってしまっただけ。

 ――だってあの鴨ノ助様が、そんな目をするわけがない。


 彼は他の男とは違う。

 優しくて紳士的な人なんだから。女性を傷つけたり、道具のように扱ったりしない。


 ――怖いって思ったのも、きっと……気のせい。


 小雨は何度も自分にそう言い聞かせて、屋内へと戻った。



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