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心終絵巻  作者: シモルカー
俄雨の章
10/33

詞ノ唄

 時同時刻――。

 ちょうど泡沫と巴が茶屋で話している頃。

 日が完全に沈みきった頃。小雨は、店に戻ってきていた。

「今日は、色々あって、疲れたな」

 小雨は、禿(かむろ)の共同部屋に戻るなり、布団の上に倒れ込んだ。

 禿(かむろ)の部屋は一階にあり、店で人員が必要な時にすぐ駆けつける事が出来るようになっている。同時に、逃亡防止のため、店の中央に位置し、出入り口から遠い。

 狭い部屋に、布団が幾つか押し込むようにあるだけの部屋。物置部屋と言われた方が納得がいく。禿(かむろ)の部屋は基本的に共同だが、新入りの禿(かむろ)を一カ所に集めると、逃亡の危険があるため、新入りは先輩の禿(かむろ)の部屋に入れ、先輩の禿(かむろ)は新入りの面倒を見ることになっている。

 売られたばかりの禿(かむろ)は言葉を覚えたばかりの童女が多く――、大体初日は皆、朝まで泣き続けて眠れないことも多い。

 店によっては仕事をした者にしか飲食を与えない所もあるらしく、その分、入ったばかりの禿(かむろ)にもちゃんと飯を与える分、この店はマシなのかも知れない。本音は、折角買った娘をむざむざ死なすわけにはいかないだけだが。

 ――私は、朝霧ちゃんや千代ちゃんに、助けてもらってばかりだった。

 自分より三つほど歳が上な二人は、小雨にとっては姉のような存在であり、禿(かむろ)の仕事を覚えるまで何度も教えてくれ――遊女や女将さんにいびられて泣いていた時は傍でずっと慰めてくれた。

「……っ」

 二人分空きが出来たため、多少広くなった部屋を見て、小雨はまた泣き出しそうになるが、それをぐっと堪えた。

 ――もういい歳なんだ。いつまでもメソメソしていたら、またバカにされる。

 禿(かむろ)の仕事は多い。遊女の身の回りの世話は勿論、他の雑用などもあり――休む暇もない。

 今は、専属の姉さんがいないため、以前よりは忙しくはないが。


 ――やっぱり変な人……だな。


 泡沫という行商人。

 客でもないのに、禿(かむろ)の自分を気にかけ、励ますような事を言った。あんみつまで奢ってくれた。

 専属の姉さん目当ての客が、禿(かむろ)に優しくして取り入ろうとする事はあるが、彼の場合それはない。そもそも彼は客以前に、遊郭に一切興味がないように見える。

 それ以前に、数ヶ月前に専属の姉さんが死んでしまった小雨に取り入った所で落とせる遊女などはいない。


 ――『小雨、私、好いた人が出来たのよ』


 そう言って、みんな死んでしまった。

 同じ禿(かむろ)の朝霧や千代も、直前まであんなに幸せそうだったのに、自ら命を絶った。

 そして、小雨が専属の姉・(せせらぎ)もまた――。

 その時の事は、今でも鮮明に思い出せる。

 彼女は、近く身請けが決まっていた。早い話、嫁として買われたのだ。しかし、その直前に、彼女は別の客だった男と共に川に身を投げた。


 心中――。


 この街では珍しい事ではない。叶わぬ恋をした時、愛し合っていても引き裂かれる運命だと悟った時――、心中という形で、二人は現世からあの世へと駆け落ちする。

 そういった男女は何組も見てきた。或いは、叶わぬ恋をして一人命を絶つ者も――。

 今、巷を騒がせている身投げ事件も、花街で生きる者からすれば、そこまで騒ぐものではない。ここは、そういう世界だ。

 恋をしてはいけない。客に本気になってはいけない。

 恋をした時――命を失うから。

 そう何度も聞かされ、それを破って死んでいった遊女達を何人も見てきた。しかし――


 ――命をかける程の恋だったのかな。


 まだ恋を知らない自分には分からないが。

 ただ――


 ――姉さんがいないのが、寂しい。


 小雨は自他認める消極的な性格であり、およそ花街で生き抜ける性質ではない。それでも、この歳まで生き残れたのは、潺が護ってくれたお蔭である。

 実際、小雨が女将さんや他の姉さんにいびられた時は潺が飛んできて、そっと抱き締めてくれた。殴られそうになった時は身を挺して護ってくれたこともあった。

「せせ姉さん……っ」

 こうやって泣き出しそうになった時も、潺が――


 ――『泣かないで、小雨。あまり泣くと、小雨じゃなくて、大雨になってしまうわよ』


「……!」

 ふいに、潺の声が聞こえた気がした。そっと頭を撫でられたような気も――。

 ――なんて、そんなわけないよね。だって、せせ姉さんはもう……。


 ――『小雨、私、好いた人が出来たのよ』


 そう言った潺は、とても幸せそうな顔をしていた。今まで見たことのない顔で、少しだけ見知らぬ男に嫉妬すらした。

 ――だけど、今なら少しだけ姉さんの気持ちが分かる。

 そう思った小雨の瞼の裏に浮かんだのは、自分に愛を囁いていたくれた男――厚切鴨ノ助。いつも仕事で失敗して裏庭で泣いている時や、他の遊女にいじめられて泣いている時――彼はふらりと現れて、慰めてくれた。

 何も言わずに抱き締め、涙を拭ってくれた。他の客と違って、禿(かむろ)の自分を無下に扱ったりせず、本当に壊れ物のように丁寧に触れてくれた。

 ――そうやって厚切様が私を慰めていると、いつも姉さんが慌てて駆け寄ってきたな。懐かしい……あの頃に、戻れたら、いいのに。

 ――厚切様に愛されて、姉さんが傍にいて、千代ちゃんや朝霧ちゃんもいて……。

 ほんの些細な事だが、小雨にとっては最高の幸福であり――その日々さえあればいいとすら思った。

 ああ、あの頃に戻れたら――。


 ――『私は、お前が好きだ』


 そう彼は言った。

 その気持ちは嬉しかった。しかし、彼は名家であり、自分は禿(かむろ)。そのせいで、すぐに彼の気持ちに応えることが出来なかった。

 それに、まだ命を奪う恋をするのが怖い。

 ――そういえば……。


 ――『小雨も、これ読んでみる? 色を知る勉強にもなるわよ』


 姉さんが自害する直前に、当時彼女が愛読していた絵巻。

 きっと何度も読んだのだろう。紙はボロボロであり、涙で濡れた跡もある。

 ――たしか、恋の物語だって言っていたけど……私は字が読めないから。

 ――ずっと開かずにいたけど、絵巻なら字が読めなくても、少しは分かるかな?

 ――そうしたら、せせ姉さんの気持ちも、少し分かるかも知れない。

 小雨は重い身体を動かし、絵巻に手を伸ばす。

 ――そういえば、姉さんが身投げする前日も、これを取り憑かれたように読んでいたな。そんなに、素敵なお話だったのかな。

 触れただけで上品な素材だと分かった。紅く染め上げられた紐で中心部が封じられており――

「……っ」

 ――あれ?

 小雨が紐に触れた途端、まだ解いてもいないのに、自然に紐が落ちた。

 ――元々、緩かったのかな? 何だか、すごく古ぼけているし。

 小雨が布団の上で正座し、絵巻を開こうとした時――外から入り込んだ月光に反射し、絵巻が不思議な光を放った――ような気がした。

「あれ? おかしいな……読める?」

 字が読めない筈なのに――。

 小雨の瞳に、文字が直接映り込む。

 絵巻に書かれた男女の絵と、その付近に書かれた文字――。それが吸い込まれるように、小雨の目には映った。


「五月雨の 空だにすめる月影に 涙の雨は はるるまもなし――」


 絵巻に書かれた歌を詠った時――床に落ちた紐が生き物のように蠢いて小雨の足に巻き付き――


「ちょっと、いいかしら?」


 突然扉が開いた。

 その瞬間、世界の時間が元に戻ったように、絵巻が放っていた淡い光は消え――やはり気のせいだったのか、と小雨が思った時。扉を乱暴に開けた張本人である雲雀が、小雨の顔を覗き込んだ。

 鷹のような鋭い眼光が、小雨を捉える。

「ひ、雲雀姉さん……」

「あんた、さっきまで、泡沫様と一緒にいたようだけど」

 雲雀は鬱陶しそうに長い髪を乱暴に掻き上げ、小雨を睨み付けた。

「えっと、それは……」

 まさか見られていたとは思わず、小雨は言葉を濁した。別にやましいことをしているわけではないが、どうにも彼女に言われると、悪いことをしているような気になる。

「うちの店の決まりを、忘れたわけじゃないわよね?」

「え……」

「恋は御法度よ。恋に落ちた女から、死んでいく。あんただって、分かっているでしょう? わっちらがやっているのは、所詮ただの絵空事。一晩限りのまやかし。ごっこ遊びに過ぎないのよ。だから、本気になってはいけない。ふりならともかく、本気になった女に遊女は務まらない。使い物にならなくなった遊女のなれの果てを、知らないわけでもないでしょう」

「そ、それは……」

 逆らってはいけない。そう思った小雨は、言いかけた言葉を飲みこみ「はい」と素直に頷いた。

 禿(かむろ)は、遊女に逆らえない。たとえ自分の専属の姉さんでなくとも、禿(かむろ)からしたら遊女の言葉は絶対である。それゆえ、小雨は口を閉ざしたが――それが余計に雲雀を苛つかせ、彼女は小雨の胸ぐらを掴んだ。

「本当に、分かっているの? あんたの姉さんも、あんたの世話していた禿(かむろ)も、恋のせいで死んだんだ」

「……っ」

 絶句する小雨の頭を掴み、雲雀は乱暴に小雨の顔を覗き込み――

「何よ、これ」

 その途中、雲雀は小雨の膝の上の絵巻に気が付いた。そして、親指と人差し指でつまんで持ち上げる。

「絵巻?」

「返してください!」

 思わず、小雨が雲雀に縋り付いた。

「ち、ちょっと誰も取りはしないわよ。ていうか、あんた、字が読めないんでしょ? こんなの持っていて、意味あるの?」

「それは、せせ姉さんの物です」

「せせ姉さんの? あー」

 雲雀は得心したように声を漏らした。

「そういうこと」

 雲雀は小馬鹿にしたように薄ら笑いを浮かべた。それが妙に小雨の心をざわつかせた。今まで感じた事のない感情が胸の奥から湧き出た。


「雲雀姉さん! 何処ですか?」


 と、その時――遠くから雲雀を呼ぶ童女の声が響いた。

「はいよ! 今行く」

 雲雀はそう廊下に向かって叫んだ後、小雨を見下ろす。

「そうそう、言い忘れていたわ。あんた、明日からわっちの禿になるのよ」

「え……」

「あんただって、ここ長いでしょ。姉さんが死んだからって、雑用ばかりさせておくのも、店として困んのよ。ちゃんと、色について学ばせないと。だって、あんた……」

 と、雲雀はそこで一度言葉を切ると――小雨に顔を近付けた。

 雲雀の髪が直接頬を撫で、むず痒い感触になった時――雲雀が嘲笑うように囁いた。

「もうすぐ水揚なんだから」

「……っ」

 思わず小雨は絶句した。

 その小雨を見下ろし、雲雀は腕を組みながら笑った。

「良かったじゃない。これで、もうすぐこの豚小屋ともおさらば。少しはマシな生活になるんじゃない?」

「……っ」

 身体が無意識に震え出し、小雨は両腕で自分の身体を抱き締める。その態度すら滑稽とでも言うように、雲雀は嗤う。

「あんたも知っての通り、水揚の相手は、色を知り尽くした年配の男。ちょうど、わっちの客に、蕾を乱暴に散らせたいって妙な癖のある男がいてね……いい機会だから、あんたの水揚の相手に推薦しておいてあげたわ」

「ま、待ってください。私は、まだ……」

「ええ、知っているわ。だけど、逆に良かったじゃない? 出来る心配ないんだし」

「……」

 この人には、何を言っても無駄だ。

 この人は、自分を傷つけ侮辱して、楽しんでいる。

 自分を見下ろす雲雀を見て、小雨はそう感じた。

 しかし、今まで感じていた恐怖はない。むしろ――

「それじゃあね……日程はわっちが決めてあげるから。楽しみに待っていなさい」

 そう軽く手を振りながら、雲雀は去って行った。その時、乱暴に絵巻が床に投げられた。自分によくしてくれた姉さんの形見の品でもあり、慌てて小雨は拾いあげる。

 ――良かった、破れていない。

 中を開いて確認した時、再び絵巻の絵画と和歌が目に入った。

 絵巻の中には、川の畔で、哀しげな女が水面を見つめている。

 空には三日月が浮かんでいるが、女の周りには雨が降っている。

 今にも身投げしそうな女の姿は悲壮感溢れ、思わず泣き出しそうになった。

「……っ」

 小雨は、絵巻を腕に抱いたまま部屋を飛び出した。


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