殺人卿──自殺志願②
淵屋は死にたがっている。そう、間違いなく死にたがりの自殺者。
そのはずだ。そのはずなのだが──これは一体どういうことなのか。
今淵屋は、死にたくないという感情が、本来の生物が持つ生存願望が、確かに働いている。
その証拠に、これまで愛用して乗っていた自転車を投げ出してまで、迫って来る「死」を避けきったのだ。先刻の彼とは、打って変わった行動である。
「うーむ? なぜ避けるのかね」
いきなり刃物を投擲しておきながら、呑気な口調で問いかけてくる異国人。殺意を全く持って隠すつもりがないらしい。それどころか、殺る気満々だ。
「はてさて、如何かな? 君はこんな物騒な夜に、一人でサイクリングなんかをやる自殺志願者なのだろう。とんでもなく、死にたがりの変態野郎なのだろう。
したがって、殺されるのが当然の順序なのではないかね」
明らかにとんでも理論を展開しだす異国人風情の殺人卿。一方的で一方通行にも程がある極端さだ。
対する淵屋は何だか分からずとも、間合いを詰めにかかる殺人卿から、一歩一歩下がりながら適切に距離を保つ。加えて、今しがた派手に壊された自転車の破損部の一部分である、鋭利に尖ったスポークなんかを手に持ち構える。
さながら、冷静沈着な追われる獲物。こういう場合、追われる獲物は実力以上の力を発揮したりする。なんせ、『窮鼠猫を噛む』なんていう、ことわざがあのだ。淵屋にだってその可能性は十分にあるだろう。
「これは驚いたねぇ。君中々に往生際が悪い。
おっと、見所があると言った方が聞こえは良かったかな」
言うや否や、手に持つ鉈を目一杯上から下へ振り下ろす。その間、淵屋が懸命に保っていた距離を一気に、その振り下ろす行為と諸ともに詰め寄る。
さすがに淵屋も対応ができない。生物としての身体能力があまりに違いすぎる。
淵屋は反射的に目を閉じる。この「死」を、もう避けることのできない「死」を受け入れ─────なかった。
「....おや? おやおやおやおや」
まさか、そんなはずがない。
いやだが、実際にそれは起こっている。あろうことか、殺人卿は淵屋によって、左目を貫かれていた。