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31・引越し

 





 エリクはショックで動く事が出来なかった。キトリーから受ける眼差しは、自分に対して好意があるものだと感じていた。なのにキトリーは、自分を拒否して部屋から出て行ってしまった。


 心臓を抉られたかのような、息をするのも難しく感じる程の苦しさがエリクを襲う。初めて感じる失恋の痛みのせいで、エリクはぎこちない動きで椅子に座り込んだ。

 部屋の外から声が聞こえる。慌てたようなライアンの声が聞こえたと思ったら、扉を強めに叩かれた。


 驚きながら返事をすると、ライアンがキトリーの肩に手を回した状態で、二人は部屋に入って来た。

 キトリーは俯いており、表情が見えない。ライアンはそんなキトリーを気遣うようでいて、何か怒っているような複雑な表情をしている。


「どうしたんだ?ライアン卿、キトリー」


 そうライアンに聞いたエリクは動揺していた。

 キトリーの肩を優しく抱いているライアン。静かにライアンに肩を抱かれているキトリー。二人は恋仲だったのだろうか。だからライアンは、キトリーに言い寄るエリクに憤り、苦情を申し立てに来たのだろうか。

 寄り添うように立っている二人を見て、もう充分に傷付いているエリクの胸が、ズクリと痛んだ。


「副団長。キトリーと、私と、副団長の事でお話があります。私達は本日の仕事は終わりましたので、副団長の仕事が終了した後に、お時間頂けますでしょうか?」


「ああ。仕事はもう片付いているから、今聞こう。掛けてくれ」


 エリクは立ち上がり、二人が座ったソファの向かい側に腰掛けた。キトリーはまだ俯いている。声を出さずに泣いているようで、時折ハンカチを目元に当てていた。それを見たエリクの胸は、締め付けられるように痛む。


「単刀直入に申し上げます。副団長、キトリーに好意を抱いていますよね?で、キトリーも副団長が好き」


 エリクの心臓が跳ね上がり、キトリーを見た。キトリーは目の下にハンカチを当てて顔半分を隠した状態で、赤くなった潤んだ瞳でエリクを見返す。

 ライアンは、無言で見つめ合う二人をそのままに話を続けた。


「私、本来はこんな事に首を突っ込んだりしないのですがね。キトリーはうちの子になる予定なので」


 ライアンのこの言葉に、キトリーは驚き目を見開いてライアンを見た。聞いてない。そうキトリーの顔が物語っている。


「アタシはアンタ達姉弟を気に入ってるし、母も同じよ。二人をうちの養子にする為に、毎週のようにお勉強させてたって訳。アンタ、本当に呑気ねぇ……ジルは気付いてたわよ……?あら、涙止まったわね」


 ライアンはキトリーのハンカチを取ると、キトリーの顔を見てからハンカチでキトリーの鼻を摘んだ。


「酷い顔してるわよ。やっぱり隠しときなさい」


 先程ライアンは、エリクに用があった為に副団長室まで来たのだが、扉から出て来たキトリーと鉢合わせた。その際にキトリーに声を掛けると、顔を上げたキトリーの目から涙が零れたのを見てしまった。そしてライアンは、キトリーが副団長室から出て来たという事もあり、この涙の理由を難無く察したのだった。


 ライアンは視線をキトリーからエリクに移した。胸中では戸惑っているエリクだったが、余り表情には出ておらず眉を寄せて二人を見ている。


「キトリーが泣いている理由はお分かりになりますか?」


「え?いや……」


 混乱したままエリクはキトリーを見た。キトリーは泣き止んでいたが、ライアンに酷い顔だと言われた為にハンカチを持つ片手で顔を半分隠している。鼻が赤くなっていて、胸が痛んだ。


「セギュール様、あの、何の話をするんですか……?」


 キトリーは、隠していたつもりのエリクへの想いを暴露されてしまった恥ずかしさで、頬が熱くなるのを感じていた。同時に、これからライアンが何を言おうとしているのか分からない不安と困惑で眉尻が下がる。

 そんなキトリーを横目に見て、ライアンは優しく目尻を下げ口角を上げた。


「これからの話をするのよ。……副団長、キトリーと副団長の間には、身分差があります。キトリーが身を引こうと考える要因は、身分差と、あとは……副団長が余りにも美しい事位でしょうかね」


 身分差。エリクもその事に頭を悩ませていた。平民になる事に抵抗は無かったが、両親が頷くとは思えなかった。そして両親が、平民と結婚する事を許可する事も有り得ないだろう。

 エリクは眉間に力を入れてライアンを見た。ライアンは更に続ける。


「でも、先程申し上げましたように、キトリーはうちの子になります。私の養子として」


「セギュール様、それ決まってるんですか……?」


「つまり、キトリーと俺の身分差は無くなる訳だ。キトリー」


 キトリーが小さな声で疑問を口にしたが、エリクには聞こえなかったらしい。じっとキトリーを見据え、キトリーの手を取った。


「ライアン卿の言っていた事は本当だろうか?君も俺を、想ってくれている、と……」


 エリクに真っ直ぐに見つめられた上に、気持ちを問われたキトリーは、真っ赤になってしまった。しかし正直に答えて良いものか、キトリーは迷い口を閉ざした。


「先ずはキトリーとジルを養子に迎える手続きをします。婚約はその後に致しましょう」


 ライアンがにこやかにこう言うと、キトリーは勢いよくライアンの顔を見上げた。余りにも驚いていて、目は見開き顔は強ばっている。そのまま目だけでエリクを見ると、エリクは蜂蜜を思わせる、とろりとした甘い笑顔で頷いた。



 ライアンはエリクに伝えた通り、キトリーとジルを養子に迎える手続きをした。そしてキトリーがまだ休みの間に、セギュール邸への引越しが決まった。

 運び出す物は少ないが、セギュール家の使用人が荷物をどんどん運び出して行く。使用人達の手際が良い為に、二人は少しの荷物を纏めただけで部屋は綺麗になってしまった。


 生活感の無いガランとした部屋に二人が居ると、ニノンとその母親が部屋に入って来た。ニノンががらんどうの部屋に目を丸くして言った。


「わぁ、もう全部運び出したの?流石ねぇ!」


「ニノン!おば様!……短い間でしたが、お世話になりました」


 キトリーとジルは、二人揃って頭を下げた。王都へ来てから、まだ半年も経っていない。こんなに早く、ここを出て行く事になるとは思ってもみなかった。


「キトリー、ジル、すごいじゃない!伯爵家に養子に入るなんて!物語の出来事みたいよ!」


「あはは!ニノンはそういう恋愛話ばっかり読んでたもんね。今度は冒険物のお話を読みたいな。また借りに来るよ」


 ニノンが瞳をキラキラさせて言うと、ジルが明るく笑って答えた。ジルの言葉に、ニノンはきょとんとした表情になる。


「え?こっちに来る事なんて、無くなるんじゃないの?それに、貴族の御屋敷にはもっと本が沢山あるでしょ?」


「来るよ。でなきゃ、ニノンに会えなくなっちゃうでしょ?」


 ジルは、ニノンが自分と会えなくても寂しさを感じないらしい事に、不機嫌そうにムッと眉を寄せた。ジルの不機嫌そうな顔を見ても、意に介してしないニノンは嬉しそうにコロコロと笑う。


「なに~?私に会いに来てくれるの?」


「そうだよ。ニノンに会いに来る。おばさん!その時はお菓子作って来るからね」


 真剣な眼差しでニノンを見つめた後、ジルはニノンの母に笑顔を向けた。不意に見慣れぬ表情で見詰められたニノンは、少しドキッとしてしまった。


「楽しみにしているわね。うちは何時でも大歓迎だからね」


 いつもの温かい笑顔でニノンの母は頷いた。年頃の娘二人は鈍感だった。ニノンは弟のように感じている相手が、自分に恋心を抱いているなんて思ってもみないようだ。その為この場でジルの想いに気付いたのは、ニノンの母親だけだった。



 セギュール邸に到着すると、各々部屋に案内され湯浴みと着替えをさせられた。いつも着用している服と、生地の肌触りが違う。着心地の良い服なのに、サラサラとした肌触りが何だか落ち着かない。


「お嬢様。旦那様がお待ちです。参りましょう」


 着替えを手伝ってくれたオリーヴが、扉を開きキトリーを促す。緊張し始めているキトリーは、小さく礼を言うと廊下へ出た。

 廊下へ出ると、着替えを終えたジルがキトリーを待っていた。


「じゃあ、行こうか」


 ジルも緊張しているのか、表情が少し固い。オリーヴが先導し、セギュール伯爵の待つ部屋へと向かった。

 オリーヴが扉を叩きキトリーとジルの到着を伝えると、中へと通された。

 セギュール伯爵は、優しい笑顔で二人を招き入れる。お茶の用意がされ、セギュール伯爵と二人は向かい合う形で座った。


「キトリー、ジル。引越しは滞り無く済んだかい?」


「はい。皆さんが手伝って下さいましたので」


 優しい笑顔で二人に話し掛けるセギュール伯爵に、キトリーは小さくはにかみ頷いた。


「疲れたと思うが、少しだけ話をね。キトリー、ジル、君達は今日から、このセギュール伯爵家の者になる」


 ニコニコと優しい笑顔を絶やさないセギュール伯爵だったが、キトリーとジルは真面目な表情でセギュール伯爵の言葉を聞いた。


「君達は平民から貴族になった。分からない事も多いだろう。それは、その都度質問してくれて構わない。ただ、貴族には負わなければならない義務がある。私達は高潔な振る舞いが求められ、そして与えられたものを用いて民に還元しなければならない。心に留めておいて欲しい」


 優しい瞳を二人に向けたセギュール伯爵に、キトリーとジルは頷いた。


「急に変わる事は難しいだろう。君達には仕事もある。ゆっくりで良い。そして……二人はライアンの子供になる。つまり、私の孫だね。私の事は、おじい様と呼んで欲しい」


 そう言うとセギュール伯爵は、目尻に皺を寄せて笑った。

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