15・ジルの友
温かいとろりとしたクリームのシチューは、大きく切った野菜と鶏肉が柔らかく煮てあり、温かいバタールの皮はバリッと香ばしく中はフワフワしている。
その美味しい食事を堪能していたキトリーの時間を、ジルの言葉が止めていた。
「……え?仕事?そりゃぁ、王都だから仕事は沢山あるかも知れないけど、ジルはまだ子供なのよ?同じ年齢の子には学校に行ってる子も居るのに……」
「うん。でも、僕は学校で学ぶよりも仕事がしたい。お姉ちゃんにおぶさってばっかりは嫌なんだ」
そう言うジルの目には、決意が見てとれる力強さが灯っていた。キトリーは、困ったように眉を下げ「でも、でも……」と口ごもっている。今はまだ無理だが、お金が貯まったら学校に通わせる事を考えていたのに……。
「仕事を紹介してくれるって……この前友達になったお兄ちゃんがいるでしょ?その人が言ってくれたんだ。だから……」
「どんな仕事なの?そのお兄さんはどんな人?」
キトリーは眉尻を釣り上げ、ジルに問い詰めた。しかしその返事を聞く前にキトリーは続ける。
「一度、そのお兄さんに会ってみる必要があるわね。その仕事がちゃんとした仕事なのか、その人が信用出来る人なのか」
可愛い弟が悪い人間に騙されていたのでは堪らない。心配性が過ぎるかも知れないが、キトリーは怒ったような顔のまま、その人物に会う事を決めた。
そして翌朝、ジルの朝市への買い物の時間に合わせて、キトリーは起床した。上瞼と下瞼が仲良くしたいとくっつく度に、キトリーもそうしたいと思っていたが、今日ばかりは早起きをしなければならない。冷たい水で顔を洗い、無理矢理目を覚まさせた。
まだ少し暗い冬の朝。空気は冷たく澄んでいる。今日はパワードスーツでなく、温かいセーターとスカートとタイツを身に付け、コートを羽織ってジルと出掛けた。
「冷えるねぇ」
「これからどんどん寒くなるね」
帽子を被ったジルは、寒さに鼻の頭を赤くして答えた。キトリーとジルは、朝市の方へゆっくりと歩いている。
「その、お兄さんとは、いつもどこで会うの?」
「いつもはこの辺で会うんだけど……」
ジルはキョロキョロ辺りを見回し、声をあげた。
「あ!お兄ちゃん!おはようございます!」
キトリーもジルが見ている方に目をやり、そして固まった。キトリーが全く予想もしていなかった人物が、そこには立っていた。
「おはよう、ジル。キトリー、君も一緒だったのか、珍しい。久しぶりだな、よく無事で帰った」
走っていたらしく、少し頬を上気させたエリクは美しい顔を微笑ませた。キトリーは反射的に指先まで伸ばした直立をし、元気よく答えた。
「はっはい!副団長!おはようございます!お久しぶりです!」
「あれ?お姉ちゃん、お兄ちゃんを知ってるの?」
不思議そうにキトリーを見上げたジルに、キトリーはしどろもどろと説明をした。
「うん。このお方は騎士団の副団長で、時々私にも指導をして下さっている方なの」
「そうなんだ。だったら、仕事を紹介して貰うのは許可してくれるよね?」
「う……うーん……」
困ったように唸り声を出したキトリーだったが、それに構わずジルとエリクは朝市向かい買い物を始めた。キトリーはこの買い物で、ジルが沢山おまけを貰って来るのはエリクのお陰だったのだと知った。
女性店員だけでなく、老いも若きも男性も女性も、エリクを見て頬を染め溜息をつく。そして「また来てね」と果物や野菜、お菓子をサービスしてくれるのだった。
キトリーが混乱したまま買い物は終わり、夜に仕事についての話をすると約束しエリクと別れ家路についた。
夜、仕事が終わり次第エリクが来る事になってしまい、キトリーは謎の焦りを感じながら一日を過ごす事になった。
孤児院の手伝いから帰ったジルは、紹介して貰う仕事が料理関係の仕事なのだと、エリクをもてなす為のご馳走作りに励んでいる。
「お姉ちゃん、それ千切りじゃないよ!……ここは僕がやるから、あっちお願い」
「えっ!ええっ!?……ごめん……」
途中までキトリーも手伝っていたのだが、この小さな部屋にエリクが来るという理解を超えた出来事に混乱しているキトリーを、ジルはキッチンから追い出した。
何だか居てもたってもいられない気分のキトリーは、部屋が殺風景であると感じ、部屋を飛び出し花屋へ向かった。もう少しで終業時間だ。エリクは忙しい身であるから、直ぐに来る事はないだろう。
だがキトリーは大急ぎで、スミレの花とヤドリギのリースと、小さなスミレの花束を作って貰い小走りで帰った。
部屋のドアにリースを飾り、テーブルの中央にはスミレの花を生けた花瓶を置く。キッチンからは美味しそうな香りが漂ってくる。小さくお腹が鳴った。
「お姉ちゃんはあっちで待ってて。こっちは大丈夫だから」
様子を見に行くと、キトリーは素気無くこうジルに言われ、所在無げに部屋を見渡した。汚い所はない、照明も切れているものはない。あとは……。
部屋を確認していると、背後で扉を叩く音がした。吃驚してしまい飛び上がりそうになるも、ゆっくり呼吸をして扉を開けた。
「こんばんは、招待ありがとう。お邪魔します」
扉を開けたキトリーの顔を見たエリクは、柔らかく微笑み優雅に礼をした。騎士団での態度と全く違うエリクに、いつもより更に緊張したキトリーはエリクを部屋に招き入れた。
「いらっしゃいませ!狭い部屋ですが、どうぞ!」
いつもはジルとキトリーが二人で使っているテーブルはそう大きいものではない。エリクに座ってもらい、キトリーはキッチンに向かった。
「ジル、副団長がいらっしゃったわよ。何をすれば良いかしら?」
「うん。これを持って行って!」
キトリーはトレーにカトラリーと水差しとグラスを並べ運んだ。その後ろからジルもサラダとパンを持って来る。
「エリク様、いらっしゃいませ。エリク様に食べて頂けると思って、今日は腕によりをかけたんです」
ジルは今まで知らなかったエリクの名前をキトリーから聞き、初めてエリクの名を呼んだ。隠していた名前を呼ばれたエリクは、少し緊張した様子のジルに微笑む。
「それは楽しみだ。キトリーから、ジルの料理は美味いと聞いているからね」
「えっ?お姉ちゃんそんな事エリク様に話してたの?」
優しい笑みを浮かべたエリクの言葉に、ジルは少し恥ずかしそうにキトリーを見た。そして小さなテーブルには、サラダとパン、スープにスペアリブの煮込み料理カスレが並んだ。
「美味しそうだな。全部ジルが作ったのか?」
「うん。今日のお姉ちゃんはちょっと危なっかしかったから。さあエリク様、どうぞ、お召し上がりください!」
ジルの言葉に面白そうに笑ったエリクは食事を始めた。キトリーとジルも食べ始め、キトリーは煮込み料理を口に含むと幸せそうに目を閉じた。
「どれも美味しいが、特にこのカスレは絶品だな。口の中で肉のホロホロと解ける食感は素晴らしいよ」
「あ、ありがとう!お口に合って、嬉しいです!」
エリクに褒められジルはとても嬉しそうに頬を上気させている。和やかに食事は進み、食後の紅茶とプロフィットロールをジルが運んで来た。
バニラアイスクリームの入ったシューの上に、温かいチョコレートソースをかけたプロフィットロールは出来たてのヒヤヒヤホヤホヤ。
サクッとしたシューと、ソースの熱で蕩けたアイスクリームを口に含むと、口の中に広がるチョコレートのビターな甘さとバニラアイスのクリーミーな甘さに頬も蕩ける程だった。キトリーの目元も口元もふにゃふにゃに蕩けている。
「ジル、どれも本当に美味しかった。素晴らしいひとときを、ありがとう。ご馳走様」
「とんでもございません!えっと……エリク様に褒めて頂けて、嬉しいです」
「ジル、今までのように、お兄ちゃん、とは呼んでくれないのか?」
エリクに瞳を覗き込むように見つめられたジルは、アタフタと手を忙しなく動かした。
「えっ!?でも、お姉ちゃんが、エリク様は貴族様ですし、副団長でもあるので、と……」
「そうだな……仕事中は副団長と呼ぶべきだが、友人として会う際は今まで通り、お兄ちゃんと呼んで欲しいな」
「あ、その、副団長……その仕事の事なのですが……」
エリクの口から仕事という単語が出て、キトリーは反応しおずおずと尋ねた。紹介をしてくれるのがエリクなのだから、怪しい仕事では無い事は確かではあるが、どのような仕事なのか知っておきたい。
「ああ。騎士団の食堂の料理人として勤めて貰おうと思ってね。見習いからになるから、初めは皿洗いや下ごしらえの作業中心になるらしい」
「騎士団の食堂、ですか……」
それならば遠征時以外の出勤時は、昼食を殆ど食堂で食べているので様子も分かるだろうし、何よりも安心だ。ジルは料理が好きだし手際も良いので合っているとは思う。キトリーはチラリとジルを見ると、ジルは期待を込めた眼差しでキトリーを見ていた。
「お姉ちゃん、僕、やりたい」
「うん。副団長の紹介って時点で、信頼出来る人の紹介だから反対する気は無かったのよ。どんな仕事なのか気になってただけで。騎士団の食堂なら、私も安心出来るわ」
キトリーの言葉にエリクは頷いた。
「それは良かった。では早速面接だな。ジルはいつなら都合が良い?」
キトリーに断られなかったジルは、喜色満面で答えた。
「いつでも大丈夫です!」
「ふふ。ならば急だが明日の夕方に、騎士団の食堂に来てくれ。キトリーは休みだが、ジルを案内して貰えると助かる」
元気に答えたジルに、早速エリクは予定を告げた。エリクの言葉にキトリーはしっかりと頷き答えた。
「はい。勿論、させて頂きます。副団長、良い職場を紹介して下さり、ジルに親身になって下さいまして、ありがとうございます。」
キトリーはエリクに向かって深々と頭を下げた。ジルも一緒に頭を下げる。エリクはそれに微笑み返した。
「友人の力になりたかっただけだよ。家族思いの、良い弟さんだ」
ジルを褒められ、キトリーは嬉しそうに満面の笑みで頷いた。




