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「んじゃ、行ってくるわ」
美祐は朝ご飯は後で良いからと言ってそのままの服装で出かける。
彌生は自分の朝ご飯を作りながら「行ってらっしゃい」と声をかけ、見送った。
丁度火を使って居た為、玄関まで見送る事が出来なかったのが彌生にとっては残念だった様で、帰ってくるまで玄関で待っていようなどと内心考えているのだった。
長い足でズンズンと前に進み、気が付けばあっという間に自宅の目の前に辿り着いていた。
足が重い。それはそうだ。あんな地獄の様な場所に誰も喜んで行きはしないだろう。
唇を少しキツめに噛み締める。一人で前に進む勇気など微塵も無いが行かなければならない。
少し震える手で、ドアノブに手をかける。
空いている。
とあるアパートの一室。
扉を開けば向こうはヤニで汚れた白い壁と、ゴミで溢れた廊下とタバコ臭い空気。
少し甲高い女の艶やかな声。
どうやらまた母親は男を連れ込んで遊んでいるらしい。
自分の息子に愛情を微塵も向けないくせに良くやるよと、美祐は小さなため息をついた。
そして美祐はかつて自分と………の部屋だった場所の扉をそっと開く。
先程の廊下とは違い、静かで物が全部綺麗に並んでいる。
まるで住宅展示場の子供部屋のモデルの様に。
ただ、壁だけは違っていた。
壁はヤニには汚れていないが、決して白いとは言える状態では無かった。
カ壁には殺人事件の現場の様に赤いシミが転々と付いていた。
忌々しい記憶が蘇る。
あの日は最悪だった。
壁を撫でるとあの日の記憶がフラッシュバックする。
美祐は肺の深い所から生暖かいため息をついた。
そして部屋の奥のクローゼットに入っているかつて修学旅行の時に使った自分のお小遣いで買った大きめのバックを引っ張り出す。
荷物と言ってもそんなに量は無いようで、黙々と詰め込んでいくが大した量にはならなかった様だ。
少し隙間のあるカバン。持ち上げてもそんなに重くは無かった。
このまま彌生の所に帰ろう。そう思い立ち上がる。
「アンタ、何やってんの」
背後から声がする。
美祐は全身から血の気の引く感覚を感じた。
振り向くとそこに立っていたのは白いワンピースを来た母だった。
「………ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃないわよ」
パチン。狭い子供部屋に平手打ちの音が響く。
平手打ちされた勢いでその場に手をつく形で座り込んでしまった美祐の右目に涙が滲む。
母親は美祐に向かって歩いてくると右足を上げた。
「勝手に帰ってくんじゃないわよ。聞いてんのか?お前」
「ごめ………なさい」
涙のせいで美祐の目には母親が何をしているのか映らなかった。
ただ、耐えるのに必死だった。
どうやら腹を蹴られているらしい。
平手打ちよりずっとずっと痛くて、胃がひっくり返りそうだ。
コトリ。ポケットから何かが落ちる。
煙草の箱と、ライター。
「いいのあんじゃん」
白いワンピースは美祐を跨ぎ先程踏みつけていた腹の辺りに座ると、美祐の腹の横辺りに落ちている煙草とライターを拾う。
「うっ………」
母親の体重と先程の痛みが相まって腹に再度殴られた様な痛みを感じる。
カチッ。
ライターの音。
いつもの吸っている嗅ぎ覚えのある煙草の煙の香り。
遠くを漂っていた煙はどんどんと顔に接近してくる。
「ちょっ………まって」
女の甲高い笑い声。
首筋に充てられる煙草の火。
ジュッ。
首筋の肉が焼ける音がした。