79 堕ちた竜人
七大国の一つである魔国エンヴィルシア。人口の多くを魔族が占めるその国の外れも外れ。
人間や獣人、その他種族よりも基本的に高い能力を誇る魔族ですら滅多に近寄らない強き魔物が多く住まう辺境の地。
その地にたった一人、その者はいた。
「……」
「グゥアグルァ!?」
奇怪な叫び声を上げる魔物が、目前へと迫ってもその者は全く動じない。
それどころか、一つ嘆息した。
「ここから先は聖域だ。誰が相手でも通すわけにはいかん。退け」
「グルァグルァ!?!?」
「もう一度言う。無意味に殺したくはない。退け」
その言葉が魔物相手に通じるわけはない。
だというのに、その者が言葉を発した瞬間、魔物の動きが鈍った。そして挙動不審に身体を動かしてから、情けなく一鳴きしがむしゃらに去っていく。
その動きは明らかに怯えからくるものだった。
「……」
去りゆく魔物をその者は歯牙にもかけず、背を向けて歩き出そうとして--背後を振り返った。
「こんな場所にいたのか。探した……というのは嘘だな。場所は知っていたが、来るのが面倒だった」
客人、こんな場所にというのもおかしな話だが、それは正しくその者に用があってやって来た様子だった。
長い赤髪を靡かせながら、突如として現れたその人物は非常に見目麗しい見た目をしていた。身長は女性として見るならば比較的高く、モデルのような細身に非常にシンプルな装いを纏っている。
美しさと格好良さ、その両方を併せ持つ稀有な容姿。非常に端麗で、見た者全てが一度は振り返るであろう。
ただその人物は--彼女は、その者にとって畏怖すべき存在でしかない。
「そう睨むな、貴様にとっての聖域を侵すつもりは特にない」
「……私なんぞに何用か」
「はっ、相変わらずだな。だが、まぁ貴様はそれでいい。私は一度折れた者に深い関心は抱かん」
女の目は残念がるような、ひどく嘲るような、その中間のような目をしていた。
「立ち話はなんだ、少し落ち着いて話をしよう」
そう言って女がパチンと指を鳴らせば、突如として視界が明滅し、次の瞬間には何処か知らぬ空間にいた。
「適当に作った部屋だがそう警戒するな。座るといい。加えて言うならば、先ほどまでいた場所とは完全に異なる場所だ。先ほども言ったが、貴様の聖域をどうこうするつもりは皆無だ。故に気にするな」
促され、部屋の中央にあるテーブルを挟む二つの椅子の内、片方に腰掛ける。
その者は彼女を警戒などしていない。だが、信頼しているわけでもない。
警戒などしても、無意味なことを知っているのだ。この者を前にして、抗うことが出来る者などその者の知る限りでは、片手で数えられる程度もいない。
「……そのような力もお持ちであったか」
その者の質問に女は答えない。ただ僅かに口角を上げただけ。
「茶は……まぁいいか。そこまで長引く話でもない」
左手を虚空に伸ばしかけ、途中で引っ込めた。
「詳しく話を聞く必要もありません。私はただ……やれと言われればそれをやるだけ」
女が語り出す前に先手を取る形で、その者は言う。
「そうか」
心底冷たい視線でただ一言告げる彼女。だが、この冷たい視線は発言が気に食わなかったからではない。例外を除いて、誰に対してもこうなのだ。
むしろ彼女がこの視線以外を向ける相手を人は憐れむべきだろう。
「折れたままだな、貴様は」
「……」
「あえて、過去に聞いた質問を再度しよう」
彼女は挑発的な表情を浮かべる。それとは対照的にその者は少し不機嫌そうに眉を歪めた。
「仇を取ろうとは考えないのか?」
「仇を取ったところで、何も戻ってきません故」
「望まれていたとしても?」
「死者の気持ちは誰にも理解出来ません故」
前回と同じ質問に同じ回答。きっと幾度同じことを聞かれようとも答えは一緒だ。変わらない。あの頃より、心が変わっていないのだから、答えが変わるわけもない。
「相変わらずつまらない返しだ」
彼女は一瞬目を伏せる。しかし何を思ったのか、小さく何かを呟いてハッと笑った。
その者にその意味は分からない。だが、分からなくても構わない。もう、そんなことに興味を抱けはしない。
「さて、ならばもういいだろう」
彼女が立ち上がる。それと同時に部屋は消え、先程までいた場所に戻っていた。
「何も語らず付いて来い、堕ちた竜人ブレイヴ・ザン・アストリス」
「御意に」
彼は神へは祈らない。神への祈りは届かなかったから。
ただこれから絶望が待ち受ける者から受けるであろう憎悪だけは--。
--背負う覚悟を--。




