55 泣けない
「おやすみ、レア」
『はい、ごゆっくり』
「アイヴィスも、おやすみ」
「ーー!」
レアと俺たちが戻ってくるまで念の為か起きていてくれたアイヴィスに就寝の挨拶をして、ベッドの上で丸くなる。
今日なんて起きていた時間の方が圧倒的に短いのに、精神的な疲労からだろうか、簡単に眠りにつくことができた。
*
「何となく、またここに来れる気がしてたよ」
黒が支配する空間に俺は再度迷い込んだ。ここは一体どこなのだろう、俺の夢の世界なのだろうか。
前と同じように黒よりも黒い漆黒の手が俺を手招きしている。
前と同じ道を辿るように、その手に近づいていくと声が聞こえる。
可憐な鳥の囀りのようで、気高い獣の雄叫びのような力強さを感じさせる、摩訶不思議な女性の声。きっと、声に力があるというのはこういう声をいうのだろう。
この声には魅力がある。脳髄を溶かしそうで、精神を侵されそうでも、聞き入ってしまいそうな魅力が。これは果たして清らかな天使の声か、それとも卑しい悪魔の声か。
ーー吐き出す?
姿の見えないこの声の持ち主は、誰なのだろうか。どうして俺に手招きし、声を掛けてくるのだろうか。
「吐き出すって、何をだよ」
数秒経っても返答はない。
天使か悪魔かは分かりはしないが、この声の持ち主はなんとも自由な女性らしい。問いかけるだけ問いかけておいて、後は投げっぱなし。こっちの質問は受け付けない。ジャーマン・スープレックスにも程がある。
「……」
それとも、何か理由があるのだろうか。
真っ黒な片手だけしか姿形の見えない女性には、姿を見せることの叶わない事情があって、自由に喋ることも叶わないのかもしれない。
「アンタは、吐き出したいことないのか?」
問いを投げたって意味がない。そんなことは分かっていても、いつのまにか問いを投げ掛けていた。
当然、それに答えは返ってこない。元々、何かの答えを期待していたわけではない。
だが、手招き以外はじっとして動かなかったその手が、一度自らの手を握り込んだ。
その動きに何の意味があったのかは分からない。……だけど、きっと彼女も吐き出したいことがあるのだろう。
「いつか聞いてやるよ」
そんな日が来るかは知らない。もしもいつか来たのなら、聞くぐらいやぶさかではない。
それから十分ほどだろうか、彼女は動きも喋りもしなかった。十分という数字が、この真っ黒な世界で真に正しく、正しく適用される数字とは限らないが。
ーー泣かない?
全然喋らないから気を抜いていたもんで、驚いた身体がびくりと大袈裟なほど震えた。
えーと、泣かないの? って言ったのか。
吐き出して、に続き、泣かないの?
吐き出しての時は意味が分からなかったが、泣かないの、と関係していると推定するのなら、「辛い気持ちを吐き出して」と言ったところだろうか。感情を吐露してもいいよと彼女は言っていたということ。
どちらも俺を慰めるような、心配するような言葉。
思い当たる節はあった。
左腕……俺の使えなくなった左腕。それ含め、命の危機に晒されたこと。
彼女はきっと俺の身に起きていることを知っているのだ。そして心配してくれている。
「泣かないの? か……」
辛くないわけがなかった。泣きたくないわけがなかった。精神安定があったとしても、補い切れないほどに感情が昂った。
でもその感情を表に出すわけにはいかなかった。
これは、俺の失敗に対する戒めでもあるのだから。
白き者が逃げ出した時……恐らく逃げ出したのではなく誘導されていたのだろうが、その時、俺は様々な選択をすることが出来た。
逃げることだって出来た。
災害指定魔獣【蝕むモノ】の住処を上空から見た時だって、白き者の語りを聞いていた時だって、俺には様々な選択肢があった。
でも、俺は選択を誤って……守るべきレアを一人取り残した。
『大丈夫』だと。
レアには仲間がいるから大丈夫なのだと、カッコつけて言っておきながら、その日のうちだ。その日のうちに危険に晒して、挙句俺が助けられた。
ーーふざけるな。何が大丈夫だ。
俺が選択をミスり、挙句助けられる。
許されていいものか、許されてたまるものか。誰が何を言おうと俺がこの大嘘吐きを許してやるものか。
辛い? レアはもっと辛い目にあってきた。フィア達は巻き込まれただけなのに、幾度も同じ目に遭わせてきた。
苦しい? 同じだ。レアはもっと苦しい目に、フィア達には同じ苦しさを味合わせてきた。
そう、だからーー。
「泣けねぇよ。俺より辛い目にあって……悲しい目に遭って……それなのに泣けない奴がそばにいるんだから。俺が情けなく泣けるわけないだろ?」
泣くのは、弱音を吐くのは、ズルい行為だ。
俺以上に苦しく辛く哀しい思いをしてきて、なのに弱音を吐かず、涙を流せない彼女の前で泣き喚き、赤子のように弱音を吐くのはあまりにもズルい行為だ。
大丈夫と言っておきながら、危険に晒したある意味約束破りのズルをした俺が、これ以上ズルをしていいわけがない。
「それにさ、これでも俺は男だし泣かない方がカッコいいだろ?」
へっ、と笑い、俺がそういうと視界の隅で彼女の手がびくりと一度震えた。そして手で肯定を示すかのように前に倒した。
ーーがんばれ。
彼女の返答を境に、世界が薄れていく。世界は黒いままなのに、薄れていくという不思議な感覚。これはきっと、この世界での俺の意識が薄れているからで。
黒い世界から俺が遠ざかっていく。
最後に俺は問いを投げた。
「アンタは一体誰なんだ!?」
遠くなる彼女の黒い手に、手を伸ばして。
ーーまた。
俺はその言葉を耳に残し、暗闇の世界から、切り離された。
男の見栄。




