19 見逃した理由
「逃げられちゃった」
金髪に碧眼、そして端正な顔立ちをした、いかにもな青年は辺りに広がる喧騒が聞こえないかのように笑顔でそう呟いた。
青年に名はない。だから先ほどクオンに名乗ったようにミカと呼ぶことにしよう。
逃げられちゃった、それは決して正しくない。
逃した、その言い方の方が正しいだろう。
殺そうと思えば、いつだって殺すことが出来た。
出会う前に、コントレアサモンスとの会話の片手間に、魔物から叩き落とした時に、そして落ちた後に、クオンが歩んでいた時に、剣を突き刺した時に、クオンが拳を振りかぶった時に、その拳を受け止めた時に。
そのどの瞬間をとっても、契約者クオンが認識する間もなく、殺すことなど容易であった。
それはクオンに限った話ではない。その使い魔達も合わせて殺すことは容易であったのだ。
ディロフェアリーにチヨイーグル、どちらも変わり種ではあったが実力的にはCランク程度の魔物。
ミカにとってCランクの魔物など千を相手にしても傷一つつけられる心配すらない相手。
だが殺さなかった。
その理由は、単に魔導書兵器の契約者クオンに興味を持ったから。
兄弟が目の前で処分されようと、親が目の前で殺されようと、最後まで逃げ続けた現存する最後の魔導書兵器コントレアサモンスに逃げることをやめさせた契約者。
そんな彼に興味という感情を抱いたから、手を抜き、殺さなかった。
そして彼はその期待に応えるように、ほんの一瞬、ミカを出し抜いた。
転移の瞬間、その一瞬だけ、彼者クオンはミカを出し抜いた。
転移を予想していなかったわけではない。
ただ最初に鳥に乗って逃げた時点で転移を行うだけの魔力がないと、思わされた。
もしも最初に転移をしていたのなら、ミカはすぐさま迎撃する準備が整っていた。だが、鳥に乗って逃げた時点で必要無いものだと、その迎撃態勢を解除した。油断と一言で言ってしまうことも簡単だ。だが、その僅かに糸を通せる程度の隙を突かれたのだ。
つまり刹那的ではあるが、完全に騙されたのだ。それが彼の策略によるものだったかはさておき。
そして最後に転移する際の表情。その表情を見てミカは、
「……良い表情を浮かべる」
そのまるで魔物のような笑みを良い笑顔だと思ったのだ。
生を感じさせる獣の生存本能と何ら変わりない笑顔。人によっては醜さすら感じるだろう。
だが、ミカにとってその生を感じさせる愚者は、死すら忘れた賢人よりもずっと魅力的に映ったのだ。自分を困らせてくれることを予見させるその笑顔が、酷く魅力的に。
だから、自らを一瞬上回った褒美として、そして期待を込めて後を追うことをやめた。ミカの実力を持ってすれば、転移後であろうと殺すことなど容易であったのに、だ。
街に広がる喧騒から最も容易く、それこそ大人が積み木を組み立てるほどに容易く抜け出して裏路地に入る。
「探しました」
そんなミカの側に先ほどまでいなかった存在が、降り立ち、跪いた。
顔を隠した三人の白いフードをかぶる者達。それは形式的にはミカの部下、ということになっている。
そんな白いフードをかぶった三人のうち、一人がミカに話しかけた。
「ーーーー様、一体このような場所で何を」
形式的には部下、だが、ミカにそんな認識は一切ない。それどころか、この者達は邪魔な存在ですらあった。
「……が………………な」
「ーーーー様?」
「貴様が私の名を呼ぶな」
もう一度言おう。
青年に名前はない。青年に、名前はない。
青年には名前はない。
それは青年が、青年でないからに他ならない。
青年ではある。否、青年は青年でもある。
何故なら、その青年の姿は、この人物がいくつも持つ姿、その一つでしかないのだから。
「ガッ……ぁっ……!」
その人物の怒りに触れた白いフードを被った者が、不可視の力で首を絞め上げられる。その者が徐々に浮いて行き、足が地から離れる。必死に首に触れている何かを外そうともがくが、不可視の力が消えることはない。
白いフードを被る者は決して弱くない。冒険者ランクにして表せばBランク中位の実力は備えている。Bランク中位、それはクオンが討伐せしめたダーティウルフの同族喰らい程度ならば、ソロで討伐可能な実力。そしてその実力はこの者に限ったことではない。
白いフードをかぶった者……白き者になるには、最低でもその程度の実力が必要なのだ。
「ぁ、ぉ、ゅるし、を……」
「二度はない」
白き者がなんとか懺悔を口にすると、身体に纏わりついていた不可視の何かが、霧散し、白き者の身体が地に降りる。
「……」
仲間がそのような目にあったというのに他二人の白き者は、視線すら向けなかった。ただ一点、白き者の首を不可視にして不可解な能力で絞めていたミカを見つめている。フードの隙間から僅かしか覗くことはできないが、その瞳は酷く濁りきっていた。
「用件は?」
「伝言を」
先ほど首を絞められた白き者とは別の白き者が、ただ一言、余計な語りをすることなく問いに答える。
青年の姿をした人物は、興味なさげに視線で続きを話すよう促した。
「忌まわしき、災害指定魔獣の怒りに触れた、至急応援を。魔導書兵器は未だ帰らぬ、後回しで構わん。とのこと」
「はっ、くだらん。自分のケツは自分で拭け。私はその件に関与しないと初めから言っていたはずだ。助けが欲しいのなら私以外の者か、哀れでイカれた勇者……はまだ実力不足か。気高さに身を滅ぼした竜人か考え無しのあの魔族辺りにでも頼めばいい」
「かしこまりました、そうお伝えいたします」
「どうせ今の彼奴では逃げ帰るのがオチだ。態々伝えるまでもない、腹いせに殺されるぞ?」
「我ら、お望みとあらばその覚悟は出来ています」
白き者は跪いたまま、表情をピクリとも変えずに言った。
愚かにも程がある。
その言葉と行動に、ただ思考を放棄した哀れな白き者にミカは嘆息した。
この者達は世界に生きる者達の中でも賢く強い部類に入る。
だが、彼等は死んでいる。
死者やアンデッドと等しき意味ではなく、死んでいるのだ。
「彼奴にお似合いのつまらない回答だ」
白き者は嘲られようと、虐げられようと動じない。
その点で言えば、初めに失言をした白き者は、白き者として未熟極まりない存在と断言できよう。
しかし、ミカにとってはそれが当たり前で。ミカの名を呼び、生きていたのはそのおかげでしかない。
もしも苦しみすら浮かべなかったら、ミカは容赦なくその首を引き千切り、あっさりと殺し、灰にして空に振り撒いたことだろう。
「これから公国に向かい、引き続き魔導書兵器を探す。あの狂人が追ってこないとも限らない。黙ってついてこい」
白き者にとって、ミカは絶対だ。正確にはミカの持つ立場から発される言葉は絶対だ。
黙れといえば、黙る。ついてこいと言われればついて行く。死ねと言われれば死ぬ。断る権利など、疑問を挟む権利などあるはずもない。
ミカの姿が変わる。金の髪をした青年から紅蓮の髪をした長髪の女性へと。
そして姿が変わった次の瞬間には、ミカはその場から姿を消した。
ミカが姿を消すと、白き者も同様にその場から姿を消した。
「強くなれ、この私を困らせるほどにな」
その誰かが小さく呟いた言葉は、空に融けて消えて行く。