後編
「す……水神様」
三太は乾いた唇をなめ、言葉をしぼり出しました。
「下村の者は死に絶えるべきだと?荒れ地だった場所に元々住んでいた生き物たちを、無慈悲に殺した罪を自分たちの命で償えと?」
そうではない、と、水神様は言いました。
「罪でも罰でも、何でもない。ただ単にそうなるだろうというだけだ」
「我々が……生きていてもいいのですね?」
「当然だ、生きていて悪い生き物などいない。生きられるのなら生きよ」
「ならば、ぜひとも水をお分け下さい。我々は生きたいのです!」
「だから生きろと言っておろう。しかし己れの力が及ばないなら、あきらめて死ぬのを受け入れろ。ただそれだけのことだ」
話はちっとも噛み合いません。
だけど水神様の目に、なんとなく面白そうな色が浮かんできました。
「面白い男だな。何故そう必死になるのだ?お前が必死になるだけの値打ちが、下村の人間に果たしてあるのか?」
「もちろんあります。村の衆はみんな、おれにとって家族みたいなものです」
「お前を、役立たずのごくつぶしと罵るような、そんな連中ではないのか?」
水神様の言葉に、三太は思わず黙り込みました。
そう。
考えるまでもありません。
下村の衆で三太を大事に思ってくれる者など、いったい何人いるでしょう?
親兄弟であったとしても、はっきり言うのなら三太を持て余しているのです。
いない方がせいせいする、くらいに思われているかもしれません。
「それは……おれが普通じゃないせいで、みんなにどうしても迷惑をかけるからです。仕事の合間にぼうっとしてしまうからです。おまけにおれは力も弱いし何をさせても鈍い。役立たずなのもごくつぶしなのも本当です。だからみんながおれを嫌っても、仕方がないです」
三太はそこでひとつ、大きく息をつきました。恐ろしい水神様の瞳を、しっかりと見返しながら三太はこう言いました。
「でもおれはみんなが好きなんです。みんなと一緒に、秋にうまい飯が食いたいんです。今年もいい米がとれたなって、笑って祝いたいんです」
その時。
水神様の脇腹から不意に、薄青い小竜が出てきました。
「ミコト!」
小竜は鈴を振るような、かわいらしい声で叫びます。
「私が参ります、私がこの若者の村にゆきます!こんな真っ直ぐな若者に、久しぶりに会いました。私はこの若者が気に入りました!」
そこで初めて水神様は、まるで人間のような困惑の表情を浮かべました。
「娘よ、本気か?本当の本気なのか?この若者についてゆけば、結果的にお前は人間の支配を受けるのだぞ。水龍ではなくなるのだぞ」
「かまいません」
小竜はまっすぐ親神を見つめ、言い切ります。
「この若者が気に入りましたから。……三太」
小竜は三太を見ると、恥かしそうに首をゆらせました。
「私が村に行くわ。行けば泉が湧くのよ。下村の田んぼを満たす以上の水が湧くわ、それでいいでしょう?」
「……本当ですか?」
三太はぼんやりと答えました。話の風向きが急に変わって、何だか目が回りそうな気分です。
「本当よ!」
小竜は叫ぶと、涼やかな香りと共に三太へ飛びついてきました。
ひんやりした鱗のほっそりとした胴を、戸惑いながら三太は受け止めました。
水神様はついと腕を伸ばし、小竜をつまみ上げました。
「三太」
少しばかり面白くなさそうな声音で、水神様は言います。
「我の娘がお前を気に入った。こうなると我の娘は、我の言うことなど聞きはしない。この娘はお前にやることになろう。ただ……」
水神様は恐ろし気な薄青い瞳を、さらに剣呑に細くします。
「お前の村の者がこの娘に相応しいか、試させてもらおう。お前がそこまで思う村の者が、ちゃんとお前に向き合うか見せてもらいたい。日没までに一人でいい、我の前へ下村の者を連れてこい。お前たちが『大桜木さま』と呼ぶ桜の木の、根方に来るのだ」
水神様は瞳を光らせ、続けました。
「一人でも連れて来られればお前……つまり村に、我の娘である泉を授けよう。だが誰も連れて来られなければ、お前の命は即刻、娘に食わせる。娘にとっては泉となってお前と村で暮らすのも、お前の命を食らって共にここにいるのも、大して変わりはしないからな」
疾く戻れ、時間は限られている。
水神様がそう言った途端、三太は大桜木さまの幹にもたれかかって立っていました。
【三太。三太、戻ったのか?】
心配そうな大桜木さまの声に、三太はのろのろと顔を上げます。
軽くくらっとしましたが、
「……戻りました。ありがとうございます、大桜木さま。お陰で水神様にお会い出来ました」
と、しっかりした声で答えることが出来ました。
おおお、と、大桜木さまはうなるように葉を鳴らしました。
【さすがだ、さすがだ三太。水神様はなんとおっしゃった?】
何と答えたものかと三太は少し考え、こうとだけ答えました。
「条件がちゃんと整えば、村に水を分けて下さるそうです」
【おお、そうかそうか。これでお前たち下村の衆は救われるな】
手ばなしで喜ぶ大桜木さまへ、三太は笑みを作って頭を下げました。
「頑張ってきます。後はおれたち次第ですから。ところで、今は何時でしょうか?」
【おひさまが真上だから、午だろうな】
大桜木さまの枝越しに、三太は空を見上げました。今日も腹立たしいくらい、空はからっと晴れています。
日没までに村の衆を説得し、大桜木さまの根方まで連れて来なければなりません。
上村へ攻め込むつもりで鍬や鎌の手入れをしている殺気立った村の衆が、果たして三太の話を聞いてくれるのでしょうか?
三太のすぐ上の兄である二平は、首を傾げています。
普段から、役立たずのごくつぶしと軽く見られている弟の三太が昼過ぎ、むっとしたような怖い顔をして村長の家へやって来ました。
二平は、長男の太郎や他の若い男たちと一緒に、村長の家の土間で鎌の刃や鍬の先を研いでいました。
三太はだしぬけに土間へ入ってくると、襲撃の用意をしているみんなを見渡し、こんなことを言い出しました。
「みなの衆、聞いてくれ。おれはさっき大桜木さまの祠へ参りに行って、お告げを授かった。大桜木さまの根方に泉が湧くそうだ。今日の日没に大桜木さまの根方へ、みんなで行こう!」
みなポカンとした顔で、まじまじと三太の顔を眺めました。
三太はどこまでも真面目な顔でこちらを見ています。
ですが村の衆はみな、すぐ馬鹿馬鹿しくなりました。あざ笑うように顔を歪め、互いに目くばせしあいます。
変わり者のごくつぶしが、昼寝をして夢でも見たのだろうと思ったのです。
三太を無視し、みなはそれぞれの手元に目を落として、再び鎌や鍬の手入れを始めました。
「本当だ、本当なんだ!騙されたと思ってくれてかまわない!後生だから陽が落ちる頃、俺と一緒に大桜木さまの根方まで来てくれ!」
それだけでいい、それだけでいいんだ。
もし泉が湧かなかったら、おれを殺してくれてもかまわない。
三太はいつになくしつこく、そう言って無視を続ける村の衆に食い下がり、まとわりつきました。
ついに太郎が立ち上がり、思い切り三太をなぐりつけました。
「この大馬鹿者が!役立たずでも大人しくしておればまだしも、こんな馬鹿馬鹿しい騒ぎを起こして!何がお告げだ!」
なぐられて倒れ込み、ほほを赤く腫らした三太へ太郎は、声を限りに怒鳴りつけました。
「お前の寝言なんぞに付き合ってられるか、この恥さらしめが。もうお前など弟でもなんでもない、どこへなりとも失せろ!」
太郎に怒鳴られた三太はうつろな目をして立ち上がると、足を引きずるようにして出て行きました。
二平は適当なことを言ってその場を抜け出し、そっと三太の後をつけました。
三太はその後も、道で会った年寄りやおかみさん、日陰で遊んでいる子供にさえお告げの話をし、日没に大桜木さまの根方まで一緒に行ってくれと頼んでいました。
しかし当然かもしれませんが、だれもかれも気味悪がって、まともに三太に取り合う者はおりません。
太陽が西に傾いた頃、とうとう三太は道の端に、倒れ込むようにしゃがみ込みました。
二平はそっと、三太へ近付きました。
「三太」
呼びかけると、のろのろと三太は顔を上げました。太郎に力任せになぐられたほほが、形が変わるくらいはれあがっています。
「三太、お告げの話は本当なのか?」
あきらめきったよどんだ目をしていましたが、三太はうなずきました。
「本当だ。だけど、日没までにおれと一緒に、下村の衆のだれかが大桜木さまの根方へ行かないと……水神様は水を授けて下さらない。そうなったら村は終わりだ」
三太はぽたぽたと、大粒の涙を流しました。
「おれは……おれの力じゃ、さだめは動かせないんだ。さだめが動かないのなら、下村も上村も滅ぶしかないんだ……」
「お前の言うこと、おれにはよくわからんが……」
悲愴に満ちた三太の気持ちがわかる訳ではありませんが、二平には、三太が嘘をついているのではないことだけはわかりました。
三太は確かに変わり者でしたが、おかしなことを口走って意味もなく他人に絡む男ではないことくらい、二平はよく知っていました。
「お前と一緒に夕方、大桜木さまの根方へ行けばいいのだな?それでお前の気が済むんなら、おれが付き合ってやるよ。なに、どうせ襲撃は夜だから暇がある」
三太は涙にぬれた顔で、ぼうっと兄を見つめました。言われたことがすぐにはわからなかったのかもしれません。
二平は照れくさそうに、ちょっと笑いました。
「お前は変わり者だが、嘘つきじゃねえ。そのお前がそこまで言うんだ、行ってみて悪いことはなかろうよ」
本当に泉が湧いたらもうけものだしな。
そんな二平の言葉を聞き、さっきとは別の涙が三太のほほを熱くぬらしました。
辺りが薄暗くなってきました。
大桜木さまの根方へと、三太は、二平と連れ立ってやって来ました。
「水神様!」
薄闇の向こうへ、三太は叫びます。
「水神様、来ました。下村の者も連れてきました!」
ごう。
なまあたたかいようなうすら寒いような、不思議な風が吹きました。
【確かに一人でもいいとは言ったが】
風のまにまに、苦笑いするような感じの声が聞こえてきます。
【まさか本当に一人とはな。まあ良かろう、約束通り下村に娘を授ける】
うち続く晴天に疲れているような黄色い夕闇が、突然暗闇になりました。
どこからともなく、鈍い地響きもしてきました。
すさまじい稲光と共に、耳をつんざく雷鳴が轟きました。
「ヒイイイイ!」
たまげた二平は悲鳴を上げ、くわばらくわばらと唱えながら頭を抱えてしゃがみ込みます。
【三太!】
鈴を振るような声が嬉しそうに三太の名を呼びました。
【来たわ、わたし、来たわ!】
声と同時に大桜木さまの根方の乾いた地面が割れ、人の背丈ほどもある水柱が吹き上がりました。
「うわ、み、水だー!」
二平は驚きすぎて腰が抜けたのか、座り込んだまま裏返った声で叫びました。
しかし三太には別のものが見えました。
水柱の中から現れたのは、『神様の庭』で会った薄青の鱗の小竜でしたが……脱皮をするように鱗を脱ぎ捨て、黒髪を古風な形に結い上げた、肩巾をまとったかわいらしい少女が現れました。
【三太!】
涼やかな香りと共に、少女は三太の胸へ飛び込んできました。
清らかな水の香りはなんとなく、生まれる前から知っていたとても懐かしい香りのような気がしました。
「オオモト……ヒメ、ノ……ミコト」
(この方は、あらゆる命の大本だ)
母であり、姉であり、妹でもあり……もしかすると娘かもしれない、愛しい者。
水神様の娘であるこの方は、そう呼ばれるべきだ。
少女を抱きとめた刹那、三太はそう思いました。
【それがわたしの名前なの?名前を付けたら、わたしはあなただけのわたしになるのよ、三太】
照れたような目で三太を見上げ、水神様の娘……いえ。
オオモトヒメノミコトは、心から幸せそうに笑いました。
泉が湧いたお陰で、下村の者は上村へ攻め込む必要がなくなりました。
神様にいただいたこの泉のお陰で、これ以後、下村の者が水に困ることはなくなりました。
役立たずのごくつぶしと蔑まれていた三太は、龍神たる水神様と掛け合った男・水神様の娘を娶った男として、村中の者から崇められるようになりました。
崇められることなど三太の望みではありませんでしたが、村のみんなと秋にうまい飯が食える生活を出来ること、また、愛しい者がそばにいる幸せを噛みしめながら生涯を終えました。
オオモトヒメノミコトである泉は、のちに『おもとの泉』と呼ばれるようになり、末長く村人たちに大切に守られることとなりました。