前編
昔の話です。
とある村に、三太という若者が暮らしていました。
三太は身体が弱く力も弱く、決して怠け者ではありませんが、仕事の合間に意味もなく、ボーッと空を眺めていたりジーッと地べたを見つめていたりする、変わり者でした。
親兄弟はみんな三太のことを、役立たずのごくつぶしだと思って持て余していました。
三太もそれを知っていましたので、出来るだけ隅っこの方でおとなしくしていました。
ある年のことです。
どういう訳かその年、梅雨時になっても雨が降りませんでした。
川の水がすっかり減って、底の石までごろごろ見える有様でした。
田んぼの水も干からび始めています。
三太が住む村の川上には、古くからの村がありました。
そちらで田畑が足りなくなったので、三太の祖先たちが川下の荒れ地を苦労して開墾し、村を開いたのです。
川上の上村と三太たちの下村は、普段は親戚のように仲良く付き合っていましたが、こう水が減ってくるとそうも言っていられなくなります。
上村の方でひそかに堰を作り、水を独り占めしようとしているらしい、という噂が流れてきました。
噂を聞いた下村の者はいきり立ち、手に手に鍬や鎌を持って、今にも上村へ押しかけようとしています。
三太はその日、青ざめた顔で村はずれの祠へ向かいました。
そこには、下村ができるずっとずっと昔、何百年も前から生えているどっしりとした桜の木があります。
『大桜木さま』と呼ばれているその木が、下村の鎮守の神様として崇められておりました。
祠に一礼した後、三太は静かに大桜木様へ寄りました。
毎年正月前に新しくされる、大桜木さまの幹にどっしり巻き付けられているしめ縄は、かさかさに渇いて少しよれていました。
「大桜木さま、ちょっとお話ししてもかまいませんか?」
大真面目な顔で三太は、桜の大木へ話しかけました。
と、大桜木さまの葉が、風もないのにざわりと揺れました。
【どうした、三太。青い顔をして】
声とは言えない声が、三太に答えました。
これが三太の秘密です。
三太は小さい頃から何故か、人以外のものの声がはっきりと聞き取れました。
仕事の合間に空や地面を眺めてぼうっとしているのは、空を飛んでいる鳥や地べたにいる蛙の話を聞いていたから……だったのです。
特に大桜木さまには、物心が付いた頃から可愛がってもらっていました。
三太に人間の友だちはいませんでしたが、人間以外の友だちはたくさんいたのです。
「村の衆は近いうち……今夜にも上村へ攻め込むつもりなんです、大桜木さま」
三太の言葉に、大桜木さまはため息をつくように葉をゆらしました。
【そのようだな。上村も上村で今、外から見えにくい場所に堰を作り、いざとなったら水を止めるつもりだからな。下村の衆が怒るのもわかる】
「殺し合いになってしまいます、大桜木さま」
三太は悲鳴のような声を上げました。
「みんなだって本当はそんなこと、したくないはずなんです。水が無いばっかりに上村の衆も下村の衆も、気が変になってしまってるんですよ」
血を吐くように三太は嘆きます。
「雨さえ降れば。水さえあれば。みんなが仲良く暮らせるじゃないですか!」
【それは……】
大桜木さまは言いよどむように黙りました。
三太は大桜木様の様子に気付かず、嘆き続けます。
「水があったら。水さえあったらみんな笑って過ごせるのに。あいつらが悪いとか憎いとか、殺してでも水を奪ってやるとか、そんなこと思わずにみんな、いい米を作ることだけ考えていられるのに。上村にも下村にも十分水がいきわたるんなら、おれが命を捨てたってかまわないのに……」
大桜木は思い切ったように
【三太】
と呼びかけてきました。
【お前は本気で、命を懸けるつもりがあるのか?】
大桜木さまのいつにない深刻な声に、三太は一瞬、息を呑みました。
【本当の本気で、命を捨ててもかまわない、そこまで思っているのか?】
「もちろんです」
即答する三太へ、大桜木さまは考え込みながらも言いました。
【たった一つ、手がなくはない】
三太は今、不思議な場所にいました。
下は霧のような靄のようなものにおおわれた大地が果てしなく広がり、見上げてみると雲一つない高い高い青い空が、これもあきれるくらい一面に広がっている、そういう場所です。
『神様の庭』だと、大桜木さまから聞かされています。
大桜木さまの幹を軽く剥ぎ、にじむ樹液をなめる。
他の者なら到底無理だが、大桜木さまと縁の深い三太なら、樹液をなめれば『神様の庭』へ行ける筈だと聞かされました。
【『神様の庭』には、この村の地下水脈である水神様がいらっしゃる】
大桜木さまは三太へ言って聞かせます。
【水神様にお願いすれば、ひょっとすると水を分けていただけるかもしれない。だが分けていただけないかもしれない。おまけに『神様の庭』はそもそも人間が行くべきでない、あの世と隣り合っている恐ろしい場所だ。水を分けてもらえない上、下手をすれば無駄死にするかもしれない。それでもお前は行くか?】
「行きます」
三太は答えました。ちょっと身体が震えましたが、声はしっかりしていました。
「水が分けてもらえる、かもしれないなら。おれは行きます」
三太は白い大地につっ立ったまま、ポカン、と、どこまでも広がる青い青い空を見上げていました。
心の中がしんとしてきます。
何のためにここにいるのか、三太は一瞬、わからなくなりました。
(みんな最後はここに来る……)
しんとした心の中で、あぶくが浮かぶように三太は思いました。
いずれ最後にはここ……このあきれるほどの青い空に、いのちを吸われて死ぬ。
良い人間も悪い人間も。えらい人もえらくない人も。
誰に教えられなくても、三太にはそれがわかりました。
どうせ死ぬ。
ちがいは早いか遅いかだけ。
ならば必死になる意味は何でしょう?
必死になって生きる必要など、あるのでしょうか?
(……いや)
三太は奥歯を噛みしめ、首を振りました。
(おれらは死ぬために生きてるんじゃないぞ)
結果が同じだからといって投げやりに生きるのなら、そもそも生まれてくる必要だってなかったはずです。
三太は生まれました。
そして望もうが望むまいが、今、生きているのです。
役立たずのごくつぶし、と罵られることもありますが、豊作の秋には村のみんなと新米のにぎり飯をほお張り、笑い合って祝うこともあります。
ああいう秋をみなでむかえる、その為に三太はここへ来たのです。
(水神様)
心の中で三太は呼びかけました。
(水神様、おれの話を聞いて下さい!)
空と大地の境から、何かがあらわれました。
薄青のうろこでびっしりおおわれた、長い長い身体。
その身体ををくねらせるようにして飛ぶ、恐ろしいほど美しい龍でした。
「我を呼ぶのはお前か?」
三太の近くで止まると、龍は、青銅の鐘に似た声で言いました。
鱗の色と同じ色の、縦に割けた蛇のような瞳が三太をにらみます。
恐ろしさにすくみながらも、三太はあえて背筋を伸ばします。
カラカラにのどが渇いてきましたが、生唾を呑んで答えます。
「はい。そうです。下村に住んでいる、三太という者です」
三太はそう言うと、深く頭を下げました。
「大桜木さまにお導きいただき、こちらへ参りました。水神様にお願いがあって……」
三太が言いかけると、水神様である龍は失笑しました。
「我に頼めば願いが叶う、お前たちが大桜木と呼んでいる桜はそう言ったのか?」
「いえ……」
三太は口ごもります。
「決してそうはおっしゃいませんでした。ただ、水神様は下村の地下にある水脈でいらっしゃると。だから、お願いすれば我々に水を分けていただけるかもしれない、とはおっしゃいました。それで、失礼だとは思いましたがこうして『神様の庭』までお願いに来たのです。水神様」
三太はもう一度、深く頭を下げました。
「お願いいたします。下村の田んぼは、今にもひび割れそうなほど乾いているんです。稲もぐったりして、黄ばみ始めています。このままでは稲が育たず、米がとれません。米が無ければ村は冬が越せません。お願いいたします、水を分けて下さいませ。分けて下さいましたら子々孫々、水神様を丁重にお祀りいたします」
水神様は興味なさそうに
「何故、お前たちに水を分けねばならない?」
と問いました。
三太は言葉を失くしました。
たった今、三太は『田んぼの水がない』『稲が育たないと米がとれず、村は冬が越せない』と言いました。
飢え死にする者があふれ、下手をすると下村は絶えるかもしれません。
そうならないために上村を滅ぼしてででも水を奪おうと、下村の衆はそんな恐ろしいことを考えるまで追い詰められているのです。
「それがどうした」
水神様は冷たく言い捨てます。
「お前たちが冬に死に絶えようが、少ない水を取り合って上村の者と殺し合おうが、我に関わりのない話だ」
水神様はあくまでも淡々としています。
「そもそも、下村の先祖は川下の土地を勝手に開墾し、村を開いた。わかるか?三太とやら。つまりお前の先祖は、昔からあの場所に住んでいた鳥や獣や虫や草木を、追い出したり殺したりしてあそこに住み着いたのだ。お前たちは、自分たちのためだけに多くの命を犠牲にした。だが、だからと言って我はお前たちを罰したりはしなかった。生きる力が強い者が生き残る、それがこの世のきまりだからだ。他の者から住処を奪って住み着いたお前たちが、仮に今、日照りに負けて死に絶えたとしても。それはそれで仕方があるまい。あきらめろ」
三太は青ざめます。
三太にとっては当然のことが、水神様にとっては当然ではないのだということを思い知りました。
水神様にとっては鳥も獣も虫も草木も人も、単に『そこに住んでいる命』なのでしょう。