ヒーローは遅れてやってくる
【五月一日 午前十一時】
私の心臓の音が、この家全体に響き渡っているのではないかと思うほど脈打っていた。ちらりと隣のお姉ちゃんを確認する。お姉ちゃんは勝紀の部屋のドアを見ながら笑っていた。その笑顔は普段テレビなどで見せるものとは違う、歪んだ笑顔。これが本当のお姉ちゃんなのか、お姉ちゃんの思いがそうさせているのか、どっちにしてもいいものではない。
「ねぇ……本当にやるん?」
「何言っとん、やるに決まっとるじゃろ」
お姉ちゃんはこちらに顔を向けることのないまま冷たく言った。
「だって……もし途中でバレたりしたら私達追い出されるかもしれんのよ? 島の人からも変な目で見られたり、お姉ちゃんだってマスコミの人に色々言われて……」
「バレんバレん、私達のことなんて父さんも母さんも見とらんのじゃけ。自分達のことばっかり、ていうか、これは春紀のためでもあるんじゃけ! うふふ……」
「でも……」
今ならまだ断ることも出来たのかもしれない、でもそんな勇気はなかった。そんなことで悩んでいる間に、お姉ちゃんは次の行動に出た。
「トントントン~! 勝紀~? 引きこもってないで出てきんさいや~! 働け馬鹿ー!」
ドンドンドンドン、と破壊しそうな勢いでドアを叩く。もうこの行為がとんでもなく私をゾッとさせる。お父さんの逆鱗に触れる次くらいにやってはいけない、これから起こることを想像するだけで怖い。
「起きてーーーー! 何時だと思っとんー! 起きて起きて起きてー!」
ドン、ドン、ドン、と木で出来たドアが振動する。
「お姉ちゃん……何されるか分かんないよ、もう止めておいた方が――」
「くそがうるせぇんだよ! ぶっ殺すぞてめぇ!」
ドアが勢いよく開いて、お姉ちゃんはバランスを崩しかけた。
「そんな物騒なこと言わんとってや~うふふ」
満面の笑みでお姉ちゃんは、勝紀を見つめる。
「キモ。てかお前さ、どの面下げて帰って来てんだよ? 自分のやったことくらい分かっとるよな? お前がおらんくなったせいで、こっちは色々押し付けられてウンザリなんだよ! ノコノコ帰って来やがって……それでお帰りなさいパーティーみたいなことしようとか頭どうなっとんって話じゃわ」
「自分の道くらい自分で決める。ていうか、勝紀が引きこもってるのは私のせいじゃないじゃろ、自分の問題。バイオリンでスランプになったのを未だに引きずって、結果として何もしとらんのってどうなん? 色々押し付けられた? そんなん私も美月も一緒じゃわ! あんたが自分だけじゃって勝手に思いこんどるだけ!」
場の空気が段々と冷えていくのを感じた。お姉ちゃんは変わらず笑顔だが、それは演技だと私には分かったし、勝紀は鋭くお姉ちゃんを睨んでいる。
「……うぜぇ」
勝紀の低く震えた声が、私をゾッとさせる。
「はぁ? 事実を言っただけでしょ?」
お姉ちゃんは、そんなことにビクともせず笑顔で続ける。
「あんた嫉妬しとるんじゃろ。春紀は親の理想通りになってて羨ましい。私に対しては~自分のやりたいことが出来てて羨ましいみたいな? あと翔太君にもかなぁ? 見た感じだと、あの前向きな感じがあんたとは正反対だから気に食わないみたいな? 醜い、醜いわ。私のタレント仲間にもそんな子いるなぁ~うふふ!」
本当に殴りかかってくるまでやるつもりなんだろうか。勝紀の顔はみるみるうちに紅潮していっている。
「お姉ちゃん……そろそろ……」
と、私が止めようとした時には遅かった。
勝紀の右手がお姉ちゃんを突き飛ばした。お姉ちゃんはフラッと後ろに三歩程下がる。
「勝紀!」
私がそう叫んでも、もはやこの声は届いていないみたいだった。勝紀は、バランスを崩したお姉ちゃんの頬を思いっ切り殴った。バチンという鈍い音が響く。
「うぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇ! ぶっ殺す!!」
殺意に沸いたその声は、本能的に恐怖を与える。
どっちにしても誰か助けを呼ばないと……助けを。
私がそう思った時だった。
「おいおい、情けねぇぞ」
ため息交じりに発せられた声の先、そこには私のヒーロー翔太がいた。