雪が降る
【五月一日 午前八時】
家に入ると、リビングでお父さんが眼鏡を掛け、珍しく週刊誌を読んでいた。
うわっ、どうしよう。ここで声掛けて怒られたら最悪だし、かと言って何も言わなくても怒られそう。理不尽で面倒臭いお父さんが、まさかリビングで雑誌を読んでいるとは思わなかった。しかも、満足そうに笑っている。
お父さんは基本的にいつも仏頂面、すぐにグチグチ文句を垂れて笑っている様子なんて殆ど見た事がない。そんな父が笑いながら週刊誌? こんな季節だが雪が降るかもしれない。
いや、逆に捉えよう。笑顔って事は機嫌がいいって事で、話し掛けても怒られる事は無いかも。
「ただいま、お父さん」
恐る恐る声を掛けると、お父さんは驚いた様な表情でこちらを見る。しかし、すぐにいつもの通りの仏頂面になった。
「あぁ春紀か……お帰り。由紀は?」
「お姉ちゃんなら、すぐ来るよ。あ、翔太もね」
「本当に来たんか。まぁ、そっちの方がいいかもしれん」
珍しくお父さんと私は、会話をしている。普段は文字のやり取りで終わるのに。珍しい事があると珍しい事は続くのだ。
すると、バン! っと背後から勢いのある音がした。
「春紀~! マジでゴメンって! なんかもうよく分かんねぇけど! 俺、気付かん間にお前に悪い事したんじゃろ? お願いだから、マジで許して!」
翔太の懇願する声がしたと同時に、背後から物凄い勢いで正面に翔太がやって来る。翔太の表情は、困った様な泣きそうな表情だ。
しかし、今は翔太のせいで目の前に居る翔太より気になる事があった。私は二階を見る。そこに人は居ない。とりあえず一安心だ。
「じゃけ、怒っとらんって……あんまり家で騒がん方がいいと思う」
私が、シーッとジェスチャーをしても翔太は黙る気配を見せない。
「じゃあなんで、あんなに先々行くんだよ~!」
「お願いだから静かにしてよ。怒ってないんじゃけぇ、怒ってないって」
「はー! 女って分かんねー!」
翔太は、私の思いとは裏腹に思いっ切り大きな声を出した。その声が家全体に響き渡る。この家の構造で最悪なのは、音が嫌なくらいよく通るという事だ。
「おい!! うせぇぞ! さっきからよぉ! 俺が寝とるんじゃけ、ちぃたぁ黙れよ! 糞が!」
最悪だった。先程、私が確認した二階の階段の近くには、睡眠を邪魔された事で明らかに不機嫌そうな勝紀が居た。
長く伸びた髪もボサボサで髭も剃ってない。もし勝紀が家から出る人間だったら……と思う。
「ん? お前って、あのクソチビの勝紀かぁ!? わぉわぉ、成長って残酷ぅ!」
翔太に悪意があるのか、はたまた無いのか。どっちにしても状況は最悪である。
「てめぇ! 糞翔太か! 何でこいつがおるんじゃっ!」
説明しろと言わんばかりに勝紀は私を睨む。どうせ部屋から出て来ないし、言わなくてもいいだろうと思い込んでいた。やはり、一応メールを送っておくべきだったと後悔した。
「えっとね、翔太が必要かなぁって、お父さんもお母さんもOKしてくれたけん、いいかなって……」
私が話している最中に浮かんだのは、小学生の頃の記憶だった。いつもは会話が少ない家族の間に翔太が居る事で自然と会話が弾んだ。その会話の内容は、どうしようも無いくらいしょうも無くて馬鹿馬鹿しくて、でもそれでも楽しかった。
私が憧れていた家族、ドラマや映画、アニメでしか見た事の無かった家族の図。それを翔太が居る事で体感出来ていた。
翔太が帰る時、それが家から笑顔と会話が消える時だった。ずっと翔太には居て欲しいくらいだった。一度、それを冗談っぽく言ってみた事もある。だけど、冗談ぽく言った事は冗談としか伝わらなった。
今日、再び楽しさを感じる事が出来る。それが、とても嬉しかった。それに、勝紀を抜かしてしまった事は本当に申し訳無いと思う。
だけど、言ったら言ったで絶対に「うん」とは言って貰えなかった思う。
「はぁ~、俺はおってもおらんくても一緒ってか! はいはい、そうですかそうですか! あ~あ、誰かさんのせいで、昔から俺達はぐちゃぐちゃなのに、その誰かさんが帰って来たら皆で集まるとか……で、その誰かさんは今どこにおるんかな」
勝紀は、ワザとらしくキョロキョロと周囲を見渡す。
「由紀さんなら、まだ外におるけど。なんか久し振りの島の風景を眺めたい、って! ったく、あんな綺麗でいいお姉さんに、そんな悪口をペラペラ言えるんかねぇ。クソチビさんは」
翔太は、やれやれと首を横に振った。
「そうだ、いい加減にしろ勝紀。折角、由紀が帰って来た。今日は、そのお祝いをせんといけんじゃろう。じゃけぇ、お前もちゃんと身だしなみ整えて、下に降りて来い」
お父さんは、翔太が居る前で怒鳴り散らす事はしない。だから、比較的穏やかな声で勝紀にそう言った。
「ちっ……」
勝紀もそれを理解しているのか、ワザと大きく舌打ちをして二階から消えた。そして、ドアを思いっきり閉める音がした。
こうなったら、もう意地でも出て来ない様な気がする。
「ありゃ~、相変わらず君達姉弟は中々難しい性質じゃね。うん、まぁ変わってないって事でいいね! あ、そういえばそういえば、俺お土産持って来たんじゃった~! いや~、ちゃんと持って来たんですよ! 俺にしては珍しく!」
翔太は背負っていた大きな灰色のリュックから、ガシャガシャと大きな音を立てて、スーパーのビニール袋らしき物を取り出した。
「何買って来たん?」
私がそう質問すると、翔太はその袋から箱を取り出した。
「最近巷で大流行の『ロシアン饅頭』! 二十個入りで、その中の五個に激ヤバな味が入っとるんじゃって」
巷で大流行? そんなの聞いた事無い。
「そんなの本当に流行っとるん? 勝手に翔太がそう思い込んどるだけなんじゃないん?」
「流行っとるわ! 俺これ、近所のお爺さんから貰ってハマったんじゃもん。これ絶対皆でやった方が楽しいじゃろ? じゃけん、持って来た」
翔太は、お父さんの隣に行って、箱を渡す。お父さんは、貰った箱をじーっと眺めている。
箱の絵柄は、中々物騒な感じでデザインされている。私から見える範囲で言うと、真っ黒に大量の血が描かれていて、別の部分では、人が倒れて血を吐いている様子が描かれている。
正直お父さんが一番嫌いな感じのおふざけタイプだが、翔太だから大惨事にならなかった。お父さんは、翔太を地味に気に入っている。私達家族には、鬼の様に厳しいというのに翔太には甘々である。
翔太のどこがそんなにいいのか、考えてみてもよく分からない。
明るい所とか、笑顔が素敵な所とか、ちょっとした変化に気付いてくれる所とか、優しい所とか、センスがいい所とか、カッコいい所とか……それくらいしか思いつかないけど、きっと、この中にお父さんの気に入る何かがあるのかもしれない。
「おーい! 陽紀!」
お父さんは、眺め終わって満足したのか、大きな声でお母さんを呼んだ。
「はいはーい!」
お母さんは腕捲りをして、リビングの奥にある洗面所のドアから出て来た。そして、翔太が居るのを見て、慌てて袖を下した。
「いやだ、もうこんな格好見られちゃって! 来たなら来たってちゃんと言って下さいよ。貴方」
恥ずかしそうに、お母さんは俯く。
「ん、それより、これ貰ったぞ」
お父さんは、無愛想にお母さんに箱を差し出す。それをお母さんは受け取ると、少し眉をひそめた。が、すぐに笑顔になる。
「翔太君、ありがとう。今日はゆっくりしていってね」
「はい! この日をずっと待ってたんで! あ、部屋は小学生の時と同じでいいですか!?」
「えぇ、構わないわ。あの部屋は、翔太君専用ね、久し振りに使われて喜ぶわ。毎日ちゃんと掃除していたから綺麗よ」
「ありがとうございます!」
翔太は、勢いよく頭を下げて上げた。お辞儀時間およそ五秒くらいじゃないかと思う。
「あ、そうじゃ! 春紀!」
「な、何?」
何故、翔太はそんなに輝いた目で私を見て来るのだろう。何を企んでいるのだろう。
「ピアノ! 弾いてーや! 久し振りに生で聞きたいわ! 春紀が俺の為に作曲して――」
「あああああ! 分かった! 分かったけん、それ以上大きい声でそれ言わんといて」
多分、この声も勝紀には聞こえているだろうが、もう暫くは意地でも出て来ないと思うので大丈夫だろう。
「じゃあ、弾いてくれるん!?」
「弾く……弾くからさ、じゃあ、私の部屋来て」
「おうよ!」
私は、やり場の無い恥ずかしさを胸に翔太を連れ、廊下を通って自室へと向かった。