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ミツ  作者: 鈴本恭一
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第8話




ナオジの弁当を食べたその日の夜、ミツは意を決し、あの公衆電話に赴いた。


月はない。

その代わりに幾つかの星が瞬いている。

夜気は冷たい。

建物が入り組んでいるので、日中でも日が差さないのかもしれない。


ミツは通い慣れたこの場所の昼の姿を知らない。

昼に来たとしても、この独特の世界には出会えないと思った。


そして、あの魔物は絶対に昼には現れない、とも思った。


そんなことを考えながら公衆電話の筐体近くまでミツが寄ったとき、緑色の電話機から呼び出し音が鳴り出した。

響く。



「……」



ミツは思わず足を止めた。

呼び出し音は相変わらずか細く、痛々しいまでに切れ切れだった。

無視することのできない呼び声で人間を誘う、魔物の声。


体がすくむのをなんとかこらえ、ミツは電話ボックスに入り込む。

息を吸い込みながら、力の流れを感じながら、受話器を取った。


耳障りな雑音の中から、何かが呼びかけてくる。



『唱えるべき願いは胸裡に在るか、人間』


「ある」



強張る声でミツは応えた。

雑音の量がいきなり多くなり、少しすると小さくなった。

数瞬の間、その強弱の波を繰り返す。

笑い声なのだろうか、とミツが訝しんでいると、



『然らば唱えよ、人間。

 願いを口にしてみせよ、人間』



男と女、子供と大人と老人とを傲岸という荒縄で滅茶苦茶に纏めあげ、無理やり一斉に喋らせているような声がボックス内に拡散する。


その音質の異常さに、ミツの聴覚が警報を鳴らした。

耳が痛い。

しかしやはり手を受話器から離せない。

指や掌が受話器と融合したように、ミツは手を動かせなかった。

手に力が入らない。


かまわない、とミツは思った。

手に力はいらない。

力を使うべきは、声なのだ。



「その前に、教えて欲しいの。魔物」



ミツは言う。



「あんたは、どこで私のことを知ったの?」


『我が魔城にて、月光の魔剣に因り』


「どうして私だったの?」


『金玉銀糸の人形が見繕った』


「だれ?」


『貴様に替わり人界で過ごす絡繰りだ。

 人形を配する故、貴様が魔界に移り住もうと現世に影響を及ぼさぬ』


「なに言ってるのか全然分かんない」



ミツの声に、魔物はくぐもった音で応える。

明らかに笑っていた。

わざと分かりにくく言っているのかもしれないと思ったが、かまわずミツは訊く。



「あんたのいる魔界なら、こっちの法則は機能しなくなるの?」


『少なくとも貴様の忌避する時の流れは、芥のように取り払われる』


「あくた…」


『我が魔界は時に因って忘れ去られた者共の集う場所。

 我が領分に時の手が伸びる事は無い。

 其れが我が魔性の世界』



魔界。


ミツは身震いする。


この魔物の言う世界を、身をもって体験した。

魔物の言うことはおそらく本当だろうとミツは確信できた。

あちらに行けば、全ての苦しみから解き放たれる。

風も音も温度も、あの世界では移ろうことがない。

永遠に咲く桜のように、欠けることのない満月のように。


頭の中が痺れていく。

体の感覚が更に薄くなった。

しかし身や心の奥が不思議と冴えている。

その場所からミツは言った。



「あんたは、どうしてそこまでして、そんな連中を集めてるの?」



魔物は即応。



『愉快なれば也』



そして嗤う。


哄笑が音割れを伴って大きく弾けた。

その音は呼び出し音のときの弱々しさなど微塵もなく、電話ボックス全体を振動させている。

それほどの大音声を至近距離で聞いても、不思議とミツの鼓膜は苦痛を受けなかった。

物理法則を無視した声なのかもしれないとミツは思う。



「私は昨日、逃げ出した。

 それでもまだ、そっちに行く資格があるの?」


『貴様がそう望むのならば』


「……」



ミツは口を閉ざす。

薄くなった視界、眼鏡と電話ボックスのさらに向こうを流れる闇を見やる。


古い友人と思っていた夜。

あの中を泳ぐ生き物になりたかった。

それは叶わなかった。

どれほど海を愛しても、魚にはなれない。

それと同じだった。

夜の本当に深い部分に耐えられなかった。


それでも、とミツは思う。


霞んだ目で上を見上げた。

公衆電話のぼんやりとした光が、一本の桜の樹を照らしている。

近すぎて幹の部分しか見えない。

それでも、ミツはその木をきれいだと思った。

木と機械と闇夜。

それらがとても美しく見える。

昼の世界ではけっして感じることのない美しさ。

夜だけのものたち。


ミツは曖昧になった全身のあらゆるところから気力をかき集め、言葉にして発した。



「私は、そっちに行けない」



言った途端、雑音がすっと低くなる。


ミツの言葉を待っていた。

ミツは言う。



「そっちに行ったら、会えないものがあるから」



言いながら、ミツは途方もなく悲しくなった。

胸の裏側が抉り抜かれるように痛い。

泣いてしまうほどにいたかった。

どうしてなのか。



『友を忘れて構わぬか』



魔物がミツの心を読むように言う。

ミツは首を横に振る。



「違う」


と。



「私がどれだけあの子のことを想っているか、魔物、あんたは知ってるね?」


『然り』


「あの子のことを想うあまり、あんたを呼んでしまうくらいに苦しんで苦しんでおかしくなったことも、あんたは知ってるね?」


『然り』


「例え私がそんな私のことさえ忘れても、あんたはきっと覚えてるね? だって、人間じゃないんでしょう?」


『然り』


「なら、私の願いはひとつだけ」



ミツは言う。


涙と苦しみと悲しみと熱さで魔物に言う。



「――あんたと出会った、その証が欲しい。この世の力じゃ消すことのできない証を」



雑音が、ぷつりと途絶える。


周囲に恐ろしいほどの静寂が舞い降りた。

騒々しい音量に苛まれていた耳が、その格差に震え出す。

同時に公衆電話を取り囲んでいる闇の気配が、急速に強くなる。

夜気に含まれていた僅かな熱も虚空に消え去り、遠い空のかすかな星が消えている。


代わりに夜に現れたのは、真円の満月だった。


ただの月ではない。

ゆがみのない、完全な円形。

狂いがないゆえに狂っている。

ミツは白い深淵のような月を見上げ、その月光を瞳孔に溶かした。


夜空を統べる月の周囲で、薄く煌めく風塵が幽微に波打っている。

輝度も濃度も違う光の幕を無数に重ね、舞い、遊ぶ。


その複雑で遠大な姿に、ミツは目を奪われた。


奪われたのは身も心も同様だった。

手足の感覚がどこかに行ってしまう。

視界は固定されたそれから浮遊するようなものになった。

目と耳を閉じようとしても閉じられない。

五感の所有権はミツになかった。



「……」



ふと、低い轟きが遠くから聞こえる。

残酷なまでに無音だった月光の帳を、力ある雷鳴が突き破った。

その遠雷の音に合わせ、霊妙な閃きがさらに踊る。

光の粒子は寄せては返す波のように放散と集合を繰り返し、静やかに消えてはまた現れる。


星はなく、しかし月だけがある夜の下で、夜の光と音が舞い狂っていた。



『珍しい。魔剣と竜が笑ったぞ』



擦れた雑音が夜宴の中に混じって言う。

なにがどう笑っているかミツには分からない。

ミツの意識は月光に掠め取られていた。

肉体の感覚もぼやけている。

立っているのか、座っているのか。

起きているのか、眠っているのか。

夢か現か。

どちらでもかまわないと思いながら、ミツはそれでも魔物に言う。

口で言ったのか、心が唱えたのか。



「あんたのことを思い出せるものが欲しい」



ミツは願った。



「あんたと出会ったこの夜のことを忘れなければ、あの子のことをきっと思い出せる。

 呪いでもなんでもいいから」



『我が領分に参らぬ身でありながら更に欲するか。

 強突張りだな、人間』


「残念ながら、人間だからね」



受話器から騒音が爆音となって噴出する。


この世で音と呼ばれる種類の振動を余すことなく集めて迸らせたような、名状しがたい轟音。

魔物の笑い声。



「――……」



その怪奇な音が、ミツの聴覚の全てを塗り潰す。

視界も霞んで見えなくなった。

力を使い果たして、何に抗うことも出来ない。


しかし、ミツはやはりかまわなかった。

悔いはない。

心の形をひずむことなく描ききった達成感が、笑みに似た感覚で充ちていく。


それを実感して、ミツの意識は濁流にいたぶられる木の葉の様に流され、消える。


遠くどこかで響く稲妻の音だけを、わずかに魂に残しながら。





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