第7話
8
次の日の昼休み。
ミツはナオジに連れられて屋上にいた。
瑞々しい青空を背景に、存在感のある巨大な白雲が力強く立ち昇っている。
夏の空だ。
「……」
ナオジと『プーワトンア』で別れた後、ミツは落ち着いた気持ちで家に戻ることができた。
ナオジと何かしらの関係を築きつつある。
その実感の昂揚が、ミツを怯えからなだめさせた。
そんな気持ちになったのはいつ以来だろう。
静かな興奮の中で眠りにつく。
ナオジは珍しく、朝から教室にいた。
しかもミツより早く登校している。
昨日とは打って変わって、教室の中に張り詰めた空気が満ちていた。
早くナオジが早退することを願い、しかしその願いをナオジには悟られないように抑えた気配で。
クラス分けの日から変わらない、ナオジのいる教室。
もちろんミツもナオジも、そんなことは気に掛けない。
そこも変わっていない。
変わったとすれば。
「おはよう」
ミツはナオジに言う。
机に突っ伏していたナオジは顔を上げず、手だけを小さく挙げて応えた。
ミツはそれを見て、自分の机に座る。
鞄の中から読みかけの本を取り出した。
ふたりの遣り取りに、教室が小さくざわめく。
しかしあまりに小さいので、その波紋はすぐに消えてしまう。
ささやかなその反応をミツは気に留めない。
そして昼休みの時間が訪れる。
ナオジは鐘の音と共に跳ね上がるように起き、隣の席のミツへ言った。
「上で食おう」
ナオジの手にはゴム紐で縛られた弁当箱がひとつある。
ミツは何も持たないまま頷いた。
ふたりは屋上へ行く。
蝉の鳴き声が遠くから届く。
しかし虫たちの声は空と雲の大きさに太刀打ちできず、目に見えないどこかへ吸い込まれていった。
それらの中で、ミツはナオジに弁当箱を手渡される。
「良ければ食えよ」
ぶっきらぼうな口調でナオジは言う。
半ば予想をしていたのだが、ミツはまず尋ねた。
「ナオジさんの分は?」
「ふたり分も作れるかよ。
残ったものを朝飯にしていつもより多く食ったから、別に昼はいらない」
ナオジはつっけんどんなまま、弁当箱をミツに押しつける。
ミツは慌ててそれを受け取る。
ナオジの手作りだった。
「いいの?」
ミツはまた尋ねる。
ナオジは眉根を寄せた。
「よくなかったらとっくに何か食ってる」
その言い方に、ミツは安心する。
いつものナオジだった。
特別なことをしているようでも、きちんと根幹の部分は変わっていない。
ミツは改めて弁当箱を持ち直し、頭を下げる。
「いただきます」
弁当の献立は、白米、鶏肉の薄揚げ、きんぴらごぼう、卵焼き、そしてベーコン。
最も目立つのはベーコンだった。
明らかに焼きすぎたかりかりのベーコンが、堂々と弁当箱の一角に座している。
他のおかずが比較的よく見る配置なので、ベーコンにどうしても目がいってしまう。
ベーコンひとつで弁当箱内の調和を完全に破壊していた。
それでいてベーコンに悪びれる様子は一切ない。
焼き方にしろ置き方にしろ、ベーコンをそのままミツに見せていた。
ミツは一目でこの弁当が好きになった。
「いただきます」
もう一度、ミツは言う。
ナオジにではなく、作った当人そのままのような料理たちに対して。
ナオジは肩をすくめ、いつもの位置に座って足を伸ばしていた。
どこから取り出したのか、紙パックの飲料をすすっている。
彼女を横目に、ミツは弁当を食べた。
一言で言えば、料理をすることに慣れていない人間の作ったご飯だった。
そのままだなとミツは思う。
薄揚げは衣の付け方が甘いか油の量が足りなかったのか、食感が素揚げに近い。
タレの味もあまり染みていない。
しかし鶏のもも肉はそれだけで美味いので、ミツには充分だった。
きんぴらごぼうの人参とごぼうは太さがバラバラだった。
ひどく細いものもあれば、その逆もあった。
中にはなぜか角切りにされているものもある。
かかっているタレの味も濃く、苦手な人間には厳しい。
幸いミツには平気な程度だったが。
卵焼きはとにかく甘い。
砂糖を入れすぎている。
それでいてしょっぱい。
全体的に言えるのだが、どうやら調味料を入れすぎる傾向があった。
ナオジの好みなのだろうか。
ミツは訊いてみる。
「ナオジさんって、濃い味が好きなの?」
「いや、私の知ってる手料理がだいたいこれくらいの味付けだっただけで、別に好き嫌いはない」
「ナオジさんのお母さんの料理?」
「本当は父親の料理の味、と言いたいが、そっちは覚えてない。
私の記憶にあるのは、ヨリコの母親だな。
あの料理ぐらいしか参考にならなかった」
ふう、とナオジはため息。
そしておもむろに、
「煙草、吸いたいな」
と言った。
ミツは箸を留め、ナオジを見る。
「ここで吸うのはやめた方が」
「知ってる。
去年の終わりぐらいに見つかりかかって面倒になりかけた。
しかもヨリコが頼んでもないのに教師たちに働きかけて」
ナオジは心の底から忌々しく吐きこぼす。
「結局お咎めなしになったが、それ以来ヨリコは私に恩着せがましくしてくる。
これ以上の厄介事はごめんだから、学校じゃ吸っていない」
ナオジは珍しくしみじみとした口ぶりで言って、再び溜息をつく。
「……思ったよりも、あっさり変わってくもんなんだな」
ナオジの台詞に、ミツははっと顔を上げる。
ナオジが苦笑し、「私も、変わりたくなかった」と言った。
「ある人の言葉を守ってきた。
そのために、いろんなものに切り掛かった。
けど、時間が経つとどんどんその力がなくなっていった。
力が足りなかった」
「……」
「大事なことはなんだっかのか、って考えた。
誰彼かまわず食ってかかることが目的じゃなかった。
肝心なところは別にあるんじゃないかって、最近気づいた」
「何に?」
「私は、あの人が大事だった。
生き方を決めてしまうくらいに、好きだった」
ナオジ、ミツを見る。
「おまえも、そうなんじゃないか?」
「……」
ミツは心が震えるのを感じた。
恐れからではない。
ナオジの黒い瞳と目を合わせると、いつも心の深い部分が打ち震える。
誰にも見せない部分、分かられたくない胸の裡、そういうところが共鳴のように振動した。
魂の脊髄が最奥部でわななく。
同じなのだ。
だから、ミツはナオジに頷いた。
ナオジは心の中を見せていた。
昨日のミツのように。
いつかのヨリコのように。
全てを包み隠さず伝えることはなくても、自分と彼女らは心を開いていた。
そう感じられるだけのものが、すでにあった。
「私は、こわいの」
ミツは言う。
「あの子を大事に思ってるこの気持ちも、いつか変わって、跡形もなくなってしまうんじゃないかって。
そしたら、あの子はいったいどうなっちゃうの? 私は、あの子を忘れてしまうような私を、どうして信じていられるの?」
ナオジが頷く。
「私と同じだ」
「同じ?」
「私も、自分を信じていたい。
あの人を想って十数年も生きてきたんだ」
ナオジは制服のポケットから何かを取り出す。
マッチ箱だ。
ミツの知らない模様と絵柄が描かれた厚紙の箱。
ナオジはそれをかちゃかちゃと鳴らし、言う。
「私の十数年を信じたい」
風が流れた。
校庭で遊ぶ生徒の声も遠い。
燦々とした陽射しが貯水塔に大きな影を伸ばす。
日陰の冷たさと熱せられた空気がミツ達の目の前で混ざり合った。
ミツは俯く。
「ヨリコさんにも、そういうものがあるのかな」
「あるだろうが、少なくともあいつは忘れないと思う」
「なんで?」
「私の顔の傷があるからな」
これを見れば、あいつは全部思い出す。
ナオジはそう言い切った。
ミツは顔を上げ、ナオジの傷跡を見る。
ナオジの傷の由来をミツは知らない。
ただ時折、ヨリコがナオジの傷を見詰めているのを見たことがあった。
この世の全てのいとおしさを捧げているような眼差しで。
ああ、だから、とミツは気付く。
だからヨリコは軽やかに人間の中に混じることができるのだ。
揺らがないものをヨリコは持っていた。
変わることのないものを。
私も欲しいな、とミツは思う。
思いながら、弁当に残った最後のベーコンを口にする。
ひどく焦げていて、塩気が強い。
しかし味自体は鋭かった。
きっとこれだけは、誰かのを参考にしたのではなく、ナオジ自身の味付けなのだ。
ミツはそれらを全て平らげ、「ごちそうさまでした」と礼をし、ナオジに向き直って言う。
「私は好きだよ、この味」
「美味いかどうか言わないあたり、誰かさんより遠慮がある」
「ヨリコさんも食べたことあるの?」
「いや、私の料理を食べたのはミツが初めてだ。
あいつは私相手だと何をするにも遠慮がない」
ナオジがやれやれという感じで小さく笑む。
ミツが初めて見るナオジの笑いだった。
良い笑い方だな、とナオジとヨリコのことを思った。
ミツは笑った。
自分の笑い方も、ああなればいいな、と思いながら。




