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ミツ  作者: 鈴本恭一
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第7話





次の日の昼休み。

ミツはナオジに連れられて屋上にいた。


瑞々しい青空を背景に、存在感のある巨大な白雲が力強く立ち昇っている。

夏の空だ。



「……」



ナオジと『プーワトンア』で別れた後、ミツは落ち着いた気持ちで家に戻ることができた。

ナオジと何かしらの関係を築きつつある。

その実感の昂揚が、ミツを怯えからなだめさせた。

そんな気持ちになったのはいつ以来だろう。

静かな興奮の中で眠りにつく。


ナオジは珍しく、朝から教室にいた。

しかもミツより早く登校している。

昨日とは打って変わって、教室の中に張り詰めた空気が満ちていた。

早くナオジが早退することを願い、しかしその願いをナオジには悟られないように抑えた気配で。


クラス分けの日から変わらない、ナオジのいる教室。


もちろんミツもナオジも、そんなことは気に掛けない。

そこも変わっていない。


変わったとすれば。



「おはよう」



ミツはナオジに言う。


机に突っ伏していたナオジは顔を上げず、手だけを小さく挙げて応えた。

ミツはそれを見て、自分の机に座る。

鞄の中から読みかけの本を取り出した。


ふたりの遣り取りに、教室が小さくざわめく。

しかしあまりに小さいので、その波紋はすぐに消えてしまう。

ささやかなその反応をミツは気に留めない。


そして昼休みの時間が訪れる。


ナオジは鐘の音と共に跳ね上がるように起き、隣の席のミツへ言った。



「上で食おう」



ナオジの手にはゴム紐で縛られた弁当箱がひとつある。

ミツは何も持たないまま頷いた。

ふたりは屋上へ行く。


蝉の鳴き声が遠くから届く。

しかし虫たちの声は空と雲の大きさに太刀打ちできず、目に見えないどこかへ吸い込まれていった。

それらの中で、ミツはナオジに弁当箱を手渡される。



「良ければ食えよ」



ぶっきらぼうな口調でナオジは言う。

半ば予想をしていたのだが、ミツはまず尋ねた。



「ナオジさんの分は?」




「ふたり分も作れるかよ。

残ったものを朝飯にしていつもより多く食ったから、別に昼はいらない」



ナオジはつっけんどんなまま、弁当箱をミツに押しつける。

ミツは慌ててそれを受け取る。

ナオジの手作りだった。



「いいの?」



ミツはまた尋ねる。

ナオジは眉根を寄せた。



「よくなかったらとっくに何か食ってる」



その言い方に、ミツは安心する。

いつものナオジだった。

特別なことをしているようでも、きちんと根幹の部分は変わっていない。

ミツは改めて弁当箱を持ち直し、頭を下げる。



「いただきます」



弁当の献立は、白米、鶏肉の薄揚げ、きんぴらごぼう、卵焼き、そしてベーコン。


最も目立つのはベーコンだった。

明らかに焼きすぎたかりかりのベーコンが、堂々と弁当箱の一角に座している。

他のおかずが比較的よく見る配置なので、ベーコンにどうしても目がいってしまう。

ベーコンひとつで弁当箱内の調和を完全に破壊していた。


それでいてベーコンに悪びれる様子は一切ない。

焼き方にしろ置き方にしろ、ベーコンをそのままミツに見せていた。

ミツは一目でこの弁当が好きになった。



「いただきます」



もう一度、ミツは言う。

ナオジにではなく、作った当人そのままのような料理たちに対して。


ナオジは肩をすくめ、いつもの位置に座って足を伸ばしていた。

どこから取り出したのか、紙パックの飲料をすすっている。

彼女を横目に、ミツは弁当を食べた。


一言で言えば、料理をすることに慣れていない人間の作ったご飯だった。

そのままだなとミツは思う。


薄揚げは衣の付け方が甘いか油の量が足りなかったのか、食感が素揚げに近い。

タレの味もあまり染みていない。

しかし鶏のもも肉はそれだけで美味いので、ミツには充分だった。


きんぴらごぼうの人参とごぼうは太さがバラバラだった。

ひどく細いものもあれば、その逆もあった。

中にはなぜか角切りにされているものもある。

かかっているタレの味も濃く、苦手な人間には厳しい。

幸いミツには平気な程度だったが。


卵焼きはとにかく甘い。

砂糖を入れすぎている。

それでいてしょっぱい。

全体的に言えるのだが、どうやら調味料を入れすぎる傾向があった。

ナオジの好みなのだろうか。

ミツは訊いてみる。



「ナオジさんって、濃い味が好きなの?」


「いや、私の知ってる手料理がだいたいこれくらいの味付けだっただけで、別に好き嫌いはない」


「ナオジさんのお母さんの料理?」


「本当は父親の料理の味、と言いたいが、そっちは覚えてない。

 私の記憶にあるのは、ヨリコの母親だな。

 あの料理ぐらいしか参考にならなかった」



ふう、とナオジはため息。

そしておもむろに、



「煙草、吸いたいな」



と言った。


ミツは箸を留め、ナオジを見る。



「ここで吸うのはやめた方が」


「知ってる。

 去年の終わりぐらいに見つかりかかって面倒になりかけた。

 しかもヨリコが頼んでもないのに教師たちに働きかけて」



ナオジは心の底から忌々しく吐きこぼす。



「結局お咎めなしになったが、それ以来ヨリコは私に恩着せがましくしてくる。

 これ以上の厄介事はごめんだから、学校じゃ吸っていない」



ナオジは珍しくしみじみとした口ぶりで言って、再び溜息をつく。



「……思ったよりも、あっさり変わってくもんなんだな」



ナオジの台詞に、ミツははっと顔を上げる。

ナオジが苦笑し、「私も、変わりたくなかった」と言った。



「ある人の言葉を守ってきた。

 そのために、いろんなものに切り掛かった。

 けど、時間が経つとどんどんその力がなくなっていった。

 力が足りなかった」


「……」


「大事なことはなんだっかのか、って考えた。

 誰彼かまわず食ってかかることが目的じゃなかった。

 肝心なところは別にあるんじゃないかって、最近気づいた」


「何に?」


「私は、あの人が大事だった。

 生き方を決めてしまうくらいに、好きだった」



ナオジ、ミツを見る。



「おまえも、そうなんじゃないか?」


「……」



ミツは心が震えるのを感じた。

恐れからではない。

ナオジの黒い瞳と目を合わせると、いつも心の深い部分が打ち震える。

誰にも見せない部分、分かられたくない胸の裡、そういうところが共鳴のように振動した。

魂の脊髄が最奥部でわななく。

同じなのだ。


だから、ミツはナオジに頷いた。


ナオジは心の中を見せていた。

昨日のミツのように。

いつかのヨリコのように。


全てを包み隠さず伝えることはなくても、自分と彼女らは心を開いていた。

そう感じられるだけのものが、すでにあった。



「私は、こわいの」



ミツは言う。



「あの子を大事に思ってるこの気持ちも、いつか変わって、跡形もなくなってしまうんじゃないかって。

 そしたら、あの子はいったいどうなっちゃうの? 私は、あの子を忘れてしまうような私を、どうして信じていられるの?」



ナオジが頷く。



「私と同じだ」


「同じ?」


「私も、自分を信じていたい。

 あの人を想って十数年も生きてきたんだ」



ナオジは制服のポケットから何かを取り出す。

マッチ箱だ。

ミツの知らない模様と絵柄が描かれた厚紙の箱。

ナオジはそれをかちゃかちゃと鳴らし、言う。



「私の十数年を信じたい」



風が流れた。

校庭で遊ぶ生徒の声も遠い。

燦々とした陽射しが貯水塔に大きな影を伸ばす。

日陰の冷たさと熱せられた空気がミツ達の目の前で混ざり合った。

ミツは俯く。



「ヨリコさんにも、そういうものがあるのかな」


「あるだろうが、少なくともあいつは忘れないと思う」


「なんで?」


「私の顔の傷があるからな」



これを見れば、あいつは全部思い出す。

ナオジはそう言い切った。

ミツは顔を上げ、ナオジの傷跡を見る。


ナオジの傷の由来をミツは知らない。

ただ時折、ヨリコがナオジの傷を見詰めているのを見たことがあった。

この世の全てのいとおしさを捧げているような眼差しで。


ああ、だから、とミツは気付く。

だからヨリコは軽やかに人間の中に混じることができるのだ。

揺らがないものをヨリコは持っていた。

変わることのないものを。


私も欲しいな、とミツは思う。


思いながら、弁当に残った最後のベーコンを口にする。

ひどく焦げていて、塩気が強い。

しかし味自体は鋭かった。

きっとこれだけは、誰かのを参考にしたのではなく、ナオジ自身の味付けなのだ。


ミツはそれらを全て平らげ、「ごちそうさまでした」と礼をし、ナオジに向き直って言う。



「私は好きだよ、この味」


「美味いかどうか言わないあたり、誰かさんより遠慮がある」


「ヨリコさんも食べたことあるの?」


「いや、私の料理を食べたのはミツが初めてだ。

 あいつは私相手だと何をするにも遠慮がない」



ナオジがやれやれという感じで小さく笑む。



ミツが初めて見るナオジの笑いだった。


良い笑い方だな、とナオジとヨリコのことを思った。


ミツは笑った。


自分の笑い方も、ああなればいいな、と思いながら。





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