第6話
7
教室は人間がいる。それも大量に。いつもと変わることなく。
しかしこれほど人間がいても、おそらく誰一人、ミツが昨夜味わった怪異に匹敵する経験をした者はいないだろう。
ミツはそう思った。
ミツしか、あの夜を知らない。
正確に何が起きたのか、ミツにもよく分からなかった。
あれはなんだったのだろう。
ミツは昨晩から同じ問いかけを頭の中で繰り返している。
何を見たのだろう、いったいどこっだのだろう。
とてもこの世のものとは思えない。
魂の背骨を直接さわられたようなあの戦慄を、ミツは言葉で表現出来なかった。
この世ではない場所。
非人間的な世界。
魔界。
魔物の哄笑が頭蓋に沸き立つ。
ミツは体を震わせ、身を抱いた。
周りの人間、教室の生徒たちはミツの戦慄きなど知らない。
いつもと変わらない声で――ミツには理解出来ない多くの語彙を用いて――様々なことをさえずり合っている。
今日はナオジの姿がない。
憚ることのない賑やかさで教室は騒がしかった。
その交々とした無数の生温さが作り出す人間たちの世界に、ミツは行けない。
しかしあの夜と闇の向こう側にあった非人間の世界にも、ミツは行けない。
昼にも夜にも紛れることが出来ない。
ミツはどこにもいけない。
「――…っ」
爪が腕に食い込むほど強く、ミツは自分を抱え込む。
震えが止まらなかった。
歯が鳴る。
生徒たちの雑然とした声がその震えを増長させた。
寒い。
怖い。
堪えきれない。
気付けばミツは教室を、そして学校を飛び出していた。
底抜けに青々とした空の下で、ミツは走る。
焦燥に動かされた体はすぐ息切れを起こした。
肉体は酸素を求めているのに、呼吸がそれに追いつかない。
だというのに体が壊れた様に走り続ける。
通学路を。
ヨリコと歩いたあの道、そして交差点。
歩行者信号が赤になっていることに、ミツは気付けなかった。
車道は車が淀むことなく流れている。
もちろんミツは気付けない。
そうだと気付いたとき、目の前に自動車が猛列な勢いで迫っていた。
正面から。
「あ……」
硬直したミツ。
その体が、不意に強い力で引き寄せられる。
間一髪でミツの目前を通り過ぎる車体。
車の押し出す強烈な風圧が、ミツの体に叩き付けられた。
その自動車はクラクションを甲高く鳴らしながらあっという間に過ぎ去っていく。
「私の知り合いは交通事故に遭う運命でもあるのか?」
アスファルトの上で脱力して尻餅をつくミツに、ひどく忌々しげな声が掛けられた。
ミツは見上げる。
人間の温度とは無縁なほど青い空の下、怒気と焦りをない交ぜにした、頬に傷跡のある顔。
ナオジだった。
夏服の短い袖から、細すぎず太すぎない、完全のような太さの腕がしなやかに伸びている。
それは人間の腕というより鳥獣の肢体に近いとミツは思った。
ミツの好きな手だ。
その手が、ミツに差し出される。
「立てよ」
ナオジは不機嫌さを露わにしたまま言う。
ミツに向かって。
ナオジはミツを見ていた。
ミツを。
鏃の先端を思わせる鋭く黒い瞳と目を合わせたミツは、自分の中で何かがたわむのを実感した。
こらえていた目に見えないものが、多量の熱と共に止めどなく内側から溢れ出てくる。
それは血と肉の奥、心と体の全てを担う部位の精髄から噴き上がり、勢いそのままにミツの両眼へ到達する。
嵐のような激しさで眼球を熱しながら、ミツは涙した。
声を上げて。
あまりに強い情動のせいで、声は声にならない。
掠れた呼気しか出せなかった。
ミツは構わなかった。
言葉にならないものを吐き出しているのだ。
立てず地べたに腰と手を付けながら、ミツは野に住む獣のように啼く。
泣き声は無限の高さを持つ青空へと吸い込まれ、夏の空気に混ざり合う。
ミツの人生の中で最も大きな声を出しているはずなのだが、昼の通学路は何の変化も起こさなかった。
ミツがなにをどうしようと、無関係であるように。
いつものように。
ただ、ナオジだけがそれを聞いていた。
差し出した手をしまい、じっとミツを見ていた。
ミツが吠える力さえなくし、小さな嗚咽を小刻みに繰り返すまで、ずっと。
「……」
吐き出すものさえなくしてもなおミツが吐き出そうとする頃、ナオジは彼女の体を無理矢理立ち上がらせた。
力が入らず、足元が覚束ない。
ミツはすぐくずおれそうになる。
ナオジが何も言わず、ミツを自分の方へもたれかけさせた。
ナオジの肩口に、ミツの頭が乗る。
他人の体温。
強烈な熱気の中でも輪郭を失わない、ナオジの温度。
ミツはまた泣き出してしまった。
目の奥にあるあらゆるものが溶けていく。
涙が止まらない。
ナオジはやはり、何も言わなかった。
気付けばミツは、喫茶店『プーワトンア』にいた。
泣きじゃくった後の記憶が曖昧だ。
店の中は空調が効いており、無思慮に冷気を垂れ流さない、節度のある室温を保っていた。
太陽のぎらつきも、人だかりの喧噪も、この店の中には来られない。
ここは隠れ家なのだと、いつかヨリコが言っていた。
その通りだとミツは思った。
昼が終わるまで堪えられないミツのような人間が、静かに泣くことの出来る場所。
それを紹介したときのヨリコの笑顔を、ミツは思い出した。
鳥のようなヨリコでさえ、羽を休める止まり木が必要なのだ。
「飲め。おごりだ」
ナオジが素気ない口調で言う。
ブレンドコーヒーが、ミツとナオジの前に置かれていた。
ミツは黙って頷き、覚束ない両手でカップを包む。
いたわるような優しい温度が掌を伝う。
カップからそよぐ微香も、ミツのかさついた心に小さくそっと寄り添った。
一口だけ飲む。
まろやかに整った味が口の中に染み込む。
温かかった。
このコーヒーを作ったひとは、きっと自分のような人間をよく知っているのだろう、とミツは思った。
昼にも夜にも行き場がない、泣ける場所さえ持っていない者に、ささやかな仮のねぐらを。
「……変わることが、怖いの」
優しい熱と香りが、ミツの心の絆しを緩ませる。
ミツは小さく呟いた。
ミツの言葉に、ナオジはやはり何も言わない。
ただミツを見ている。
揺らぎのない視線で、まっすぐに。
その瞳が問いかける。
何が怖いのか?
「ひとを嫌いでいないといけないの」
なぜ?
「嫌いでいないと、思い出せない子がいるの。
嫌いでいれば、あの子のことを思い出せるの」
何が怖い?
「なのに私は、人を嫌いにならなくなっていく」
何が怖い?
ナオジは無言で尋ねる。
本当はそのような意図など無いのかもしれない。
だとするなら、その問いかけをしているのはミツ自身だ。
だからミツは、根源から振り絞るように答えを口にした。
「あの子を、忘れてしまうのが、怖い……」
ミツは掠れた声で言う。
体が震えた。
心が怯えている。
しかしその怯懦は、教室で思い出した恐怖とは違う。
魔物と魔界を思い出したことによる混乱と恐慌とは、明らかに違う種類のものだった。
本当に大事なことを、しかし他人にとっては理解しがたいと思うことを、ミツは生まれて初めて他人に言った。
心の中を自分以外の人間へ見せるその行為自体に、ミツは怯えていた。
想像を超えた不安に、ミツは肩を震わせながら顔を伏せてしまう。
「……その子のことが、好きだったんだな」
ぽつり、とナオジが言う。
はっとなって顔を上げるミツ。
ナオジの表情は、いつもとあまり変わりがない。
しかしその瞳の中のほんのごく一部分に、寂しさや懐かしさに近い色が浮かんでいる気がした。
「好きだったんだな」
再び、ナオジは訊く。
ミツ、頷く。
ナオジは目を細めた。
力を抜きながら。
「私も、忘れたくないことがある。忘れたくない人がいる。きっと好きだったからだろう。好きだったと断言できるのは、その人だけだ」
ナオジが言う。
今度は逆にミツが尋ねた。
「ヨリコさんは好きじゃないの?」
「古いくされ縁だ。忘れたくないことを思い出せるから、まあ、いてもいいか、っていう程度で、好きでも嫌いでもない」
重々しさも軽薄さもなく、さっぱりとナオジは言った。
口調も声音も違うというのに、ミツにはその言葉がヨリコと重なって見えた。
ヨリコの中にあるあの密やかさも、きっとナオジのこの素っ気ない心と魂に寄り添っているのだ。
闇の中の桜と公衆電話のように。
あの光景を思い浮かべたとき、ミツの唇が言葉を作っていた。
「……私も、そこにいたいな」
ナオジが目をわずかに開く。
ミツもその言葉に驚いた。
耳にして初めて、ミツは自分がそう言ったのだと気付く。
思わず口を押さえた。
遅かった。
「……」
ナオジは再び目を伏せ、コーヒーをすする。
ミツは顔をさらに俯かせ、同じくコーヒーを飲む。
お互い何も言わなかった。
黙ってコーヒーを味わう。
信じられないことを言った後だというのに、その沈黙は苦しくなかった。
拒まれたのではないことが、ミツには分かる。
もし拒絶するなら、ナオジはすぐ行動に出る。
様子見などしない。
コーヒーを飲む二人を、店の中でひっそりと奏でられる弦楽の音色が包む。
気付こうと思わなければ気付かない、ささやかな音量だった。
この店にあるものはみんなそのような感じだとミツは思う。
ミツもヨリコも、そしてナオジも、この店の雰囲気を愛していた。
「明日、屋上で昼を食べよう」
コーヒーのカップが空になったタイミングで、ナオジはなんと言うことのない口調で告げる。
あまりにさりげない言い方だったので、ミツはナオジが何を言っているのか聞き逃してしまいそうだった。
目をぱちくりしているミツを尻目に、ナオジは言った。
「ついでだ。明日の昼も、私がおごる」




