第5話
5
初夏に入った。
学期末が近い。
ミツは隣の席を見る。
ナオジがいた。
授業中だったが、ナオジは机に突っ伏して眠っている。
教師はそれに対して特に注意することもなく授業を進めていた。
他の生徒も、ナオジを起こさないように注意深くなっているようにミツには見えた。
ミツは教科書を広げるふりをしながら、お気に入りの写真集を眺めている。
最初の学期の中で、教室中の人間がナオジを気にして静粛さを無意識に作る場面が多々あった。
それはミツの心が休まる時間でもあった。
そのためミツの中に、ナオジへ感謝の気持ちが日に日に募っていった。
そうした感情が凝縮して一定量を超えてしまったのが、その日である。
こんこんと眠り続けるナオジを見ながら、ミツは決意する。
午前の部を終える鐘の音が待ち遠しかった。
そして午前中最後の授業が終わりを告げる。
昼休みを告げる放送が流れ、生徒達が思い思いに席を立ち始めた。
それに合わせるように、ナオジがむくりと上体を起こす。
眠そうな眼をこすらせ、頭を横に振っていた。
ミツはそんなナオジへ、意を決して話しかける。
「ナオジさん」
声が硬いのを実感した。
その声はナオジの意識をはっきり覚醒させたようで、鋭い光を内包する黒い瞳が、ミツに向けられる。
強靱な視線に貫かれながら、ミツは自分を鼓舞するよう、喉元へ力を込めて言った。
「お昼、いっしょに食べない?」
ミツの心臓は痛いほど高鳴っている。
血管の存在が意識できるほど脈打った。
緊張で指先が変に震えている。
それでもミツはナオジをまっすぐに見た。
ナオジに変化は見られなかった。
その力に溢れた双眸でミツを見やっている。
どれほどの時が経ていたのか、ミツには分からなかった。
秒という時間単位はこれほど長いものだったのかとミツは罵る。
あまりの時間の長さにミツの精神が堪えきれなくなる直前、その刹那、ナオジが短く口を開く。
「上でいいな」
そしてナオジはごそごそと鞄から買い物袋を取り出し、手早く席を立った。
ミツから視線を離すと、そのまま教室を出て行こうとする。
その動きの切り替えの速さにミツは慌て、追いかけた。
ナオジは教師たちが最上階からいなくなるのを見計らい、素早く屋上へ向かう。
それから慣れた手つきで鍵を開けると、風の吹き込むその場所へミツを招いた。
ナオジは定位置があるのか、以前にミツを誘ったときと同じ所に腰を下ろし、買い物袋の中身を漁り始める。
ミツもできるだけ隅に寄り、弁当箱の包みを開けた。
昼食を始める。
「……」
ミツは白米を口の中へ運びながら、どうするべきか迷っていた。
昼食に誘っておきながら、振るべき話題が何もなかった。
何を言うべきなのか。
時々ミツに静かな時間をもたらしてくれることを、ナオジへ伝えるべきなのか。
ミツは混乱していた。
ナオジを見る。
彼女は食事を終え、その場で仰向けになっていた。
長い手足を大の字に広げている。
そんなナオジへ、どんな言葉をかければいいのだろう、とミツが戸惑っていると、
「喋りたいことがあるなら、勝手に口から出てくる」
おもむろにナオジが言った。
姿勢をまったく動かさずに発したため、その言葉は空へ向かって投げかけているとミツには見えた。
しかし本当はミツに言っているのだと理解した頃、ナオジは言葉を言い終えていた。
「口から出てこないなら、今はそのときじゃないんだ」
ナオジは口と目を閉じる。
すぐに寝息が聞こえていた。
そのナオジの姿に、ミツは目を離せない。
なぜミツの考えていることが分かったのだろう。
ミツの混乱をどうして察することが出来たのだろうか。
似ているのだ、とヨリコは言っていた。
ミツはそれを思い出す。
そうなのだろうか。
ナオジの寝姿を見ながら、ずっと考えてみた。
結論は出ない。
それでも、ナオジが自分を気にかけているというのは本当だとミツは思った。
いつもミツばかりがナオジを見ていると思っていたので、ミツは胸の内側にせつなさのような温もりが波紋を立てて広がるのを感じた。
報われたというのはこういうことなのだ、とミツは息を吐き、頭上を仰ぐ。
空というものがいつもよりずっと広々と、遠くまで感じることができた。
その広大さを、ミツはゆるやかな気持ちで受け入れる。
地上という場所は、なぜこれほど狭苦しいのだろうとミツは感じる。
下校のために駅へたどり着いたが、人身事故のせいで列車の到着が遅れていた。
ミツは駅の構内、プラットホームに設けられた青いプラスチックのベンチに座り、缶コーヒーを傾けている。
駅にはミツと同じく列車を待つ人々で溢れかえっていた。
そういったものを見たくないため、ミツはふと空を仰ぎ見る。
色めいた雲が薄く広く、まるで刷かれたように伸びていた。
雲と空の境界線は曖昧で、その部分に深い神秘が集まっているようだった。
ミツの焦点はそこを注視する。
あの遠い部分に、自分は少しでも近づいたのだ。
誰にも邪魔されず、そしてナオジと一緒に。
横たわっていたナオジの姿を思い出す。
それから、ミツは再び目線を下げた。
変わらず群衆が列を作って並んでいる。
しかしどういうわけか、ミツはそれらを見たときにもよおす不快な気持ちが、普段よりも弱まっていることに気付いた。
「……」
人間達は変わらず気持ち悪くなるほど多く群がっている。
だが、だれもミツのように空を見てはいなかった。
溶けて消えそうなほど儚い雲のことも知らない。
ミツは知っていた。
たったそれだけのことだというのに、ミツは彼らと自分の距離を皮膚で実感することができた。
自分と彼らは違う。
だから、彼らの発する体温も匂いも、自分には届かない。
ミツはそう思った。
物理的な距離は今までと変わらないはずだったが、ミツの心は微妙に違っていた。
どうしてこうも、容易なまでに他人との心の距離を自分は作れるのだろう。
考える。
きっと彼女らの影響だ。
ナオジ。
ヨリコ。
あのふたりのように振る舞えることに、ミツは気付いた。
そのことに、小さく歓喜する。
しかし同時に、やはり小さな疑念が頭の片隅に浮かび、ミツを愕然とさせた。
時計の長短それぞれの針がけっこうな時間を刻み続けた後、ようやく列車は到着する。
運行が平常化された直後は高かった乗車率だが、ミツは空席が目立つ時間帯まで待った。
ミツの乗った列車の外は深い夜だ。
窓を通し、細い三日月がミツを見据える。
ミツは鋭利な月と対峙しながら、物思いに耽っていた。
ミツは人間が嫌いだ。
人間の集まりから流れ来る独特の温度や空気といったものを毒のように唾棄する。
なぜだろう、と考え始める。
すると思い出すのは、友達が死んだことを喜ばれたあの言葉。
――あの子なんて、死んでよかった……
いつ、だれが、どこで言ったのか。
ミツは思い出せない。
幼稚園や小学校の教室か、それとも葬儀の時か。
言ったのは子供か、大人か。
分からない。
しかし、確かに誰かが言ったのだ。
ミツを取り囲む曖昧模糊とした人間集団の中から、その言葉をはっきり耳にした。
他には何も思い出せない。
あの子のことで思い出せるものはもう他にないのだと、ミツは月だけに聞こえる声で告げる。
他のことは忘れてしまった。
だがあの言葉は忘れない。
人間を忌々しく思う心が、忘れてはならないあの言葉と、重たく粘つく嫌悪の感情を結びつけれくれる。
だからミツは人間を嫌う。
そうしなければ、忘れられない、忘れたくないと思い続けた言葉さえ忘れてしまうかもしれないからだ。
「……ひとを嫌いにならないといけない」
ミツは自分へ言い聞かせた。
その声は小さく弱く、他の誰にも聞こえない。
強さも力もない、みじめな声だとミツは思った。
6
蝉が鳴く朝の学校、蒸し暑い外気を掻き分けて、ミツは登校口の下駄箱に黒革靴を放り込む。
もう間もなく期末試験が始まろうとしていた。
夏服の生徒達はそれに対して慌てているようにも見えるが、どちらかと言えば試験の後に約束された夏休みへの期待に胸を膨らませているのだとミツは見て取った。
学校に行かなくても良い期間を、ミツも恋い焦がれていた。
休みの間は、きっと家に引きこもるだろう。
夏はどこにいっても人間でいっぱいだ。
夜になっても人々は外に出張り続ける。
人間達の熱量が夏の暑さを増長させることをミツは知っていた。
人波のない自分の部屋に居続けても、誰もミツのことなどかまいはしない。
「ミッちゃん、おはよう」
これからのことを考えていたミツへ、爽やかな声が流れてくる。
その声の方へ顔を向けると、半袖姿のヨリコが親しげな笑顔と仕草で手を振っていた。
白い手は夏の光を受けてことさら眩しく、強い陽光の中で白茶の髪が淡く揺らめいている。
おはよう、とミツは小さく返した。
ヨリコが細い手で通学鞄を交互に持ち替えながら、
「ミッちゃんって、試験開けのお休み、何か予定ある?」
と尋ねてくる。
それに対し、ミツは無言で首を横に振った。
安堵の表情を浮かべるヨリコを見て、ミツは何を言われるのか察す。
「ヨリコさんはどこか行きたいの?」
「うん、おでかけしよう。
もちろんナオちゃんも一緒に」
「なんで、もちろん?」
「ナオちゃんがいた方が楽しいでしょ?」
違うの? ともの問いたげな顔をするヨリコへ、ミツは唇を真一文字に結ぶ。
楽しい、というものとはやや違うと思った。
意味合いが似ているが、少々異なる。
楽、だ。
そちらの表現の方が的を射ていた。
「じゃ、細かいことはあとで連絡するから。またね」
そのことをヨリコへ伝えようかどうしようかとミツが迷っているうちに、ヨリコはスカートを翻して自分の下駄箱へ歩き出し始める。
いつ出会っても、ヨリコのその足取りは風を受けて気ままに翔る鳥のようだ。
ミツにはうんざりとするこの熱気さえ、ヨリコは上昇するための気流として扱うことができるのだろうか。
同じ地面に立っているというのに、ミツは見上げる気持ちでヨリコの後ろ姿を追った。
彼女が視界から消えて、ミツは我に返る。
上履きに履き替え、自分の教室へ向かった。
ミツは自分の動きが軽いのを実感する。
廊下は冷たい床と蒸される空気が混合していた。
混ざり合う空気の流れを肌で感じながら、その流れを力へと変える帆船に自分を見立てる。
歩調が心なしか早くなった気がした。
朝から変な気分、とミツは唇を歪ませる。
ヨリコと出会ったせいだ。
つい彼女の真似をしてしまう。
ヨリコのような心持ちになってみると、日常はどんな世界になるのだろう。
自分はヨリコではないのだから彼女のようにはなれない、と分かっていても、ふとそう考えてしまった。
その考えを頭の中で回しながら、教室に入る。
いつもの習慣で、ミツはまずナオジが登校しているのか確認した。
しかしミツが目を向けるよりも早く、肌が教室の中の機微を敏感に感じ取る。
緊張感のない浮き上がったさざめきが耳に入った。
ナオジがもし来ていれば、教室にこんな和やかさはない。
そういった情報を前もって取得してから、ミツは目でナオジの席を見る。
やはり隣人の姿はなかった。
ミツは自分の席へ着く。
鞄の中から教科書やその他の道具を取り出し、不意に周りの景色に目を配った。
ひとりの席を囲んで楽しそうに話を弾ませている女子の集団、教室の入り口で熱心に何かの話題を口にしている男子達、教室に交わされる声、声。
夏休みに行く旅行について、新進の音楽グループのこと、開かれた雑誌の中身、装具、小物、雑音。
人間たち。
ミツはそれらのことが、普段より遠くから聞こえている気がした。
いつもであれば無遠慮にミツの耳に入ってくる種々雑多な口々に、苛付きと辟易で身がよじられそうなほどの苦痛を訴えてくるというのに、今日のミツに限っては、そうではなかった。
どうでもいい。
一言で言えば、ミツは他人に無関心になっている。
ミツにとって取るに足らない他人が何を話そうと、ミツには関係ない。
自分と関係のないことへいちいち五感や意識を向けるなど、神経の無駄だ。
ミツはあっさりとした気持ちでそう思った。
これはミツに密かな、しかし大きな動揺を起こしてしまう。
あれほど、他人など目にするのも目にするのも忌々しいと感じていたはずが、今は彼らのことを忌むという感情すら湧き起こらない。
どうしてああまで他人のことなど気にしていたのだろう、と不思議に思うほどだ。
「……」
ミツはそこで、つまり今の自分はひとりなのだと確信する。
誰もミツのことに意識を向けない。
ミツも、他の誰にも興味を示さない。
何のつながりも双方にはなかった。
その孤絶が、今のミツにはあった。
これまでも、誰ひとりミツへ関心など向けなかった。
意識を向けていたのはミツの方だ。
その意識が、今はない。
こんなに簡単なことだったんだ、とミツは驚きに打ち震える。
自分の知覚の中へやってくる無粋な輩など、ミツの方が無関心になってしまえば、それはまやかしのように消えてしまった。
消えてしまったと気付いたところで、ミツはいつか話に聞いた、ある竜のことを思い出す。
人間達に敬われず、見放され、その地を去った竜。
あの竜も、こんな気持ちだったのだろうか。
人間などに興味も関心も持たなくなったので、人間の世界から消え去ってしまったのか。
そしてミツは、自分はどうなのかと自問する。
他人などどうでもいい、何も思わないことをどう思う。
人間に僅かばかりの感情も抱かなくなって、それでいいのか。
ミツは考えた。
それでいい。
これが望みだった。
そう答える。
しかし、ミツの中の誰かがどこかで呟いた。
違う、と。
ミツは人間が嫌いだ。
嫌いでなくてはならない。
そうでなければ。
嫌わなければ。
もしも、嫌いということを忘れれば。
あの言葉さえ、忘れてしまう。
「っ!」
ミツははっと我に返った。
教室を見回す。
人間達がひしめいていた。
その物理的な距離はこれまでの日常とまったく変わらないはずだが、今のミツには遙か彼方に感じられた。
薄い夏服に覆われたミツの背中が、汗をかく。
呼吸は乱れ、視線が定まらない。
動揺は続く。
もしもあの言葉さえ忘れてしまえば。
あの子のことも、いずれ自分は……。
「……ぁ」
思わず声が漏れてしまった。
その小さな声に耳を傾ける者など教室のどこにもおらず、ミツはひとりで机に伏せる。
しがみつくように身を任せ、肩を震わせた。
待ち遠しいほど待った新月の夜、ミツは息を切らせてその公衆電話へ駆け込んだ。
咳き込んで酸素を貪る肺腑に心の中で悪態をつきながら、ミツの目が古ぼけた緑色の電話機を見る。
その視線を受けたのと同時に、電話機から呼び出し音が鳴る。
反射的にミツの手が受話器へ伸びた。
自分の動きの鈍さをもどかしく感じながらミツは叫ぶ。
「魔物ッ!」
途切れ途切れの雑音が応じた。
男のような、女のような、または彼らが一斉に喋っているような魔物の声をミツは聞く。
『苦しいか、人間』
ミツの胸の中身を見透かしたかの如く、どこまでも尊大な口調だった。
『貴様は自身の苦しみが何処から生まれ出るものであるか、理解しているか?』
「私は、どうなってるの? なんで、こんなになっちゃうの?」
ミツは電話ボックスの壁面に体を寄りかからせ、そのまま頽れる。
体のどこにも力が入らない。
声を出すたびに筋肉を司る部位が弱っていく気がした。
「どうして忘れちゃうの? 答えて、魔物。
なんで私は変わってしまうの?」
『貴様が人界に存在する故だ』
嘲笑の色合いが雑音から漏れ出す。
受話器から流れてくる音量は次第に大きさを増し、魔物の声がミツの脳髄を鷲掴みにする。
神経や血管を見えない魔手の指先で弄ばれているとミツは思った。
『人界故に時が流れる。
人間である故に貴様は時と云う大河に流され、川底で摩耗される。
故に貴様は変わる』
笑声混じりの言葉がミツの肋骨をすり抜け、心臓を射貫く。
鼓動は跳ね上がり、血の流れを強くした。
血管の浮き出たミツの手が震える。
魔物はミツへ言い放った。
『時が貴様を変える。
時が貴様を苦しめる。
其れが人界に定められし法なのだ』
しまりのない大声で魔物がせせら笑う。
あからさまに虐する口調は何を対象としたものなのか、ミツには分からない。
それよりも、ミツは魔物へ問いたかった。
知っているのかどうか、訊かずにはいられないことがあった。
「あんたは、私の苦しみをなくす方法を知ってるの?」
魔物は即答する。
『我が領分へ参るが良い』
雑音がさらに強さを増した。
あまりに大きな音に鼓膜が悲鳴を上げる。
しかしミツの体は何者かにいつの間にか縛り付けられているように、受話器を握る手を離さなかった。
耳にとっては不快なはずの雑音が、どうしてか妙に甘くミツの頭蓋をほだす。
それが魔物の声だった。
『然すれば時さえ凍える、魔性の法を与えよう』
人間の目では捉えることのできない何かが、ミツの顔を上げさせる。
薄く弱い電灯に照らされた、桜の幹が見えた。
それを網膜に映しながら、ミツは受話器の向こう側へ問いかける。
「それは、どんなところ?」
発問すると同時に。
雑音が唐突に消えた。
それまで大量の音を浴びせられていたミツの耳は突然の静寂に鼻白む。
ミツは視線に意識を乗せた。
透明な壁の向こうに、桜の木。
夜桜。
その木が、音もなく立体感を喪失する。
黒い壁に描かされた精緻な絵でのようになった桜へ、ミツの目は混乱した。
なんだと思ってさらに凝視すると、木には白く細かい罅が走っていることに気付く。
その罅割れは桜だけでなく、その周囲の暗闇の中にも伸びており、気付けばミツのいる公衆電話を取り囲んでいた。
硬く薄いものが割れる音を、ミツは聞く。
罅が破裂したのだ。
桜は視界から消えていた。
代わりに目に飛び込んできたのは、月だ。
金色と銀色を白で溶かし合わせた奇跡的な光が、夜の中に降臨する。
月齢は十五に達しようかという見事な望の月だ。
「……」
ミツは我が目を疑った。
今夜は新月のはずである。
それを確認してからここへやってきたのだ。
月など、それも満月が現れるわけがない。
ミツの狼狽をよそに、たおやかな明かりを降り注ぐ月の周囲で、輝く砂塵が踊っている。
非常に細かいその粒子は粉末化した月光によく似ており、あまりにも小さなそれら一個一個が生きているかのように結合と拡散を繰り返しては、月にほど近い夜の中を舞い散っている。
おかしい、とミツは感じる。
これほど冴え渡った月明かりだというのに雲の輪郭を捉えられなかった。
夜空は快晴だ。
にもかかわらず、空に座す星がひとつたりとも見当たらない。
ここまで晴れ渡っているのなら、他の天体を目にしてもいいはずだった。
しかし、空には満月しかいない。
まるで夜の版図全てを自分のものとした君臨者だった。
煌めく砂塵の流れの一部が、地上へ落下する。
ミツはその動きを追う。
追って初めて、自分の位置の奇妙さに気付いた。
眼下に町が見える。
平地から高台に公衆電話が移動したかのように、下方を眺めることができた。
その夜の町並みはミツの知らない、どこか別の城郭都市だ。
真っ黒な大地を区切る巨大な城壁がまず目に入る。
分厚い石壁が何重にも町の中に張り巡らされ、尖塔状の物見櫓がその壁から天へ突き出ていた。
ひどく大きな壁と壁の隙間に、町は無数の家屋を詰め込んでいる。
家々の高さは統一感がなく、何層にもなったものから平屋まで様々だ。
しかしどれほど高い建築物でも、城壁の半分にも届かないでいる。
屋舎の連なりを隔てる路地には街灯が並び、蜘蛛の巣のように仄かな灯りを広がらせていた。
町はどこまでも続いている。
少なくともミツの視界全ての地面が、石造りの巨壁と家居に埋め尽くされていた。
しかし均一に統制された高さを持つ壁ではあったが、その壁の敷かれ方には法則性がなかった。
直線的に建てられている箇所もあれば、複雑に曲がりくねった場所もある。
枝分かれをして迷路を形成している部分や、独立して円形になっている城壁もあった。
そしてこれらの長壁の中心部と思われるところを、ミツは発見できなかった。
ただひたすら無作為に壁と町が拡張され、いくつもの大通りが交差している。
ミツには見えないだけで、どこかに重要施設が置かれているのか。
それとも中枢区域など存在せず、都市自体が果てしなく増殖してるのか、ミツには分からなかった。
目をこらして町を見つめているそのとき、ミツの耳に擦れた音が聞こえてくる。
虫の羽音のような小さな音だった。
その音がどこから来るのか、ミツは周囲を探ろうとする。
すぐに分かった。
ミツが手にしている受話器からだ。
雑音は途切れている。
代わりに流れているのは、生物的な鳴き声と非生物的な動作音が融合した、なんとも形容しがたい怪奇な音だ。
さらにそこへ、弦楽器の響きに近い音色が混じる。
それらの音は不可思議な協調によって、まるで人間の声のように聞こえ始めた。
あらゆる音をかき集め、それを無理矢理こね回して意味のある言葉にしているような不自然さをミツは抱く。
その音が声となって、ミツに囁いた。
『―――よウコそ。コこガ、魔界』
声と呼べるのかも怪しい音はミツの肌を戦慄させる。
人間としての直感を生み出す器官が激しく警告していた。
危険だとミツが思うよりも先に、突如、強烈な閃光がミツの目を灼く。
あまりにも強い光の炸裂に目蓋を強く閉ざすが、それでもなお遮光しきれず、目が異常を訴えた。
謎の烈光で苦鳴をあげるミツに、謎の音声が途切れることなく浴びせられる。
『キさマののゾみをカナえるトチであル』
低い轟音が遠くからやってきた。
雷鼓のそれだ。
その雷鳴がミツの神経をさらに苛む。
怯懦に泣きわめく頭の中、ミツは目を瞑りながら叫んだ。
「なんなんだ、あんたは一体なんなんだ」
応えがあった。
『わガハいは、魔物。ひトではナい』
ぶうん、とした不快な高音が一際強さを増す。
人間の恐怖心を揺さぶるためだけに生み出されたような高純度の不気味さに、ミツは意識の基部を穿たれかけた。
それでも彼女はなんとか正気を取り戻し、目をわずかに開けて周りを見ようとする。
気付けば、何かが公衆電話を取り巻いていた。
巨体だ。
ミツのいる電話ボックスよりも大きな体が黒い闇の中に細長く伸び、ゆるやかな塒を巻いている。
体の先端部分、頭部と思しき場所に鹿のような鋭い角が生えていた。
頭のさらに先からは細やかな触手を泳がせている。
その頭に付いた眼――犬や猫、鳥、そして人間、そういったものとは似ても似つかない眸だ――が、ミツを見据えていた。
ミツは、それと目を合わせてしまう。
たったそれだけで首根が阿鼻叫喚に落とされた。
ミツの心はついに防波堤を突き破られ、底なしの恐怖で蹂躙される。
ミツは叫び声を口から放った。
しかしその絶叫も、空間をまるごと破砕できるほどの閃耀に呑み込まれる。
空さえ割れるのではないかという迅雷の大音声の中で、人外の声が嗤う。
愉悦に塗れたその声を引き金に、ミツの本能が体を動かした。
受話器を放り投げ、恐怖に惑いながら電話ボックスを転がり出る。
温い夜気が鼻に入った。
地面がある。
ミツは何も考えられず、ひたすら全力で走り出す。
ただただ怖かった。
心地よかったはずの闇の中から、彼女はそうして逃げ続けた。




