第2話
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学年が上がり、一ヶ月が過ぎた。
桜の花はとうに散ってしまい、しつこく残っていた冬の残滓も完全に消え去った頃、ミツのクラスはある程度の集団を複数作り上げていた。
気の合う級友達、と言われるそれである。
ミツには無縁のものだった。
ミツは誰に話しかけられても冷淡にあしらい、どの集団とも関わり合いを持たなかった。
今まで通りのはぐれ者だ。
ひとりで過ごす時間を、ミツはたいてい読書に費やす。
風景の掲載された写真集、そういった自然の場所についての紀行文、見たことのない生物を特集した雑誌などが、ミツの好む書籍だった。
人物や社会、つまり人間に関して書かれたものは読まない。
読みたくもない文章が出てきた場合、その本は古本屋で処分することにしていた。
否が応でも人間達の中にいなければならないのだから、せめて本を読んでいる時間だけは、人間のことをミツは忘れたかった。
教室で読書に集中できるときと、そうでないときがあることをミツは一ヶ月のうちに学んだ。
集中できる時間というのは、隣の席のナオジが教室にいる場合だった。
ナオジは時折、下校時間前に勝手に学校を抜け出すことがあった。
ナオジがいなくなると教室の中は解放感のようなもので蔓延し、途端にさざめき始める。
それら無遠慮に飛び交う会話の濁流が、ミツの読書を浸食した。
ナオジを見習って自分も自主的に下校してやろうか、とミツが思い始めたのはその頃である。
そしてある日、ミツは試しに気分が悪いと担任教諭へ申し出て、早退してみた。
あっさりとその申請は受理され、ミツは堂々と学校から去ることができた。
他の生徒達が教室の中にひしめき合っている中から立ち去れる事実に、ミツは爽快だった。
そんな上機嫌で通学路を下校し始めたとき、ふと背後から女性の小さな悲鳴が上がる。
ミツが反射的にその声へ振り向くと、自分に向かって男が慌てて走り込んでくるのが目に入った。
男の手には鞄。
ミツには見覚えのある鞄だ。
学校指定の通学鞄だとすぐに分かる。
その男の向こう側、彼が背を向けたところには、ミツと同じ学校の制服を着込んだ女子が二人いる。
ひとりは頬の傷を持つナオジ、もうひとりは薄茶色の長い髪をした子だった。
髪の長い子の方は鞄を持っておらず、姿勢も崩れている。
ひったくりだ、とミツが察したのと同時に、男がミツへ怒鳴る。
「どけ!」
ミツは眉根を寄せた。
彼女は男の言葉を無視する。
どかない。
逆に男を邪魔するように、その場で足を踏ん張った。
衝撃がミツに襲いかかる。
ミツの視界が激しく傾き、腰を地面に打ち付けられた。
眼鏡はその勢いでどこかへ飛ぶ。
目の前が霞む。
そんなぼやけて不確かな目で、しかしミツは自分を吹き飛ばした男が、同じく尻餅をついているのを見た。
その男の背後から、まるで野生動物のようなしなやかさで誰かが迫る。
男へ肉薄した人物は滑らかに流れる動きで身体を旋回。
勢いたっぷりに蹴りを放った。
回し蹴りは爪先の部分で的確に男の頭へ直撃し、男は全身を地面に叩き伏せられる。
これら一連の行動は一瞬のうちに完了してしまったので、ミツの手が無意識に眼鏡を探し出して顔に装着した頃には、蹴り付けた人物がミツの目の前までやって来ていた。
幸い傷の入っていなかった眼鏡は、その人物の姿をミツへ明確に教えてくれる。
ナオジだった。
憮然とした表情を作りながら、ナオジはミツへ手を差し伸ばしていた。
「立てるか?」
ナオジが聞いてくる。
ミツは初めて聞いたナオジの声にしばし逡巡し、それから頷いて見せた。
差し伸ばされたナオジの手を、ゆっくりと握り返す。
力強く引き起こされたミツは、改めて男の方を見やった。
ひったくりの男は地に伏せたまま動かない。
その男の傍らに投げ出された通学鞄を長い髪の女生徒が拾い上げ、ミツたちに近付いてくる。
「ありがとう。
大丈夫? 怪我してない?」
白に近いほど薄い茶色の髪の女子生徒は、ゆるやかに微笑みながらミツを気遣った。
今までミツが出会ってきた誰よりも、その子の肌は白かった。
透明な輝きを皮膚に纏って人の目を奪ってしまう、そんなものを彼女の笑顔は持っていた。
美しいまでに整った目鼻立ちと緑色を含んだ瞳が、いっそうその力を支えている。
「別に。
どこも何もないよ」
愛想のない口調で応えながら、ミツはナオジの手を離した。
それからナオジへ「ありがとう」と小さく言う。
ナオジは肩をすくめた。
「助かったのはこっちだ。
間抜けなヨリコのせいでひどい目に遭ったな」
「ナオちゃん、一言多いよ。
でも本当にありがとう。
大丈夫?」
ナオジにヨリコと呼ばれた子が、再び心配げに尋ねてくる。
同じことをまたも問われたので、ミツは「大丈夫だって言ったでしょ」とつい苛立たしく返してしまった。
しかしヨリコは気を悪くした様子もなく、ほっと安堵の吐息を見せる。
それから倒れた男の方へ視界を向け、
「すぐそこに交番があるから、行ってくるね。
ナオちゃんはここで待っててよ。
勝手にどこか行かないでね」
「なんで私が指図を受けなきゃならねえんだよ」
「この子にお礼しなきゃ。
いつものお店に行こ」
ヨリコはどこか嬉しげにそう言い、その場から足早に去っていった。
ナオジが上着のポケットへ手を突っ込み、溜息を吐く。
それからミツへ、すまなそうな表情で話しかけた。
「帰りたければ帰っていいぞ。
あの馬鹿のことなんか聞かなくていいから。
あいつどっかおかしいんだ」
「別に」
とミツはとりあえず言葉を作り、それからじっとナオジを見詰める。
ナオジは教室にいるときの静かな無表情ではなく、むすっとした辟易を露骨に顔へ浮かべていた。
初めて見るナオジの顔に、ミツは自分から話を振った。
「学校みたいに人の多いところじゃなきゃ、大丈夫」
「なら大丈夫だ。
私もそういうのは好きじゃない」
再びナオジは肩を上下させる。
その堂に入った仕草に、ミツはつい笑んでしまった。
それからほどなくし、警察官を数人連れたヨリコが戻ってくる。
ひったくりの男はそこでようやく地面から引き離された。
ナオジとヨリコに誘われてミツがやってきた店は、『プーワトンア』という名前だった。
ヨリコが言うには、評判の良い喫茶店なのだそうだ。
小綺麗な木造の一軒家で、窓は数こそ多いが大きさが極端に小さく、ガラス部分は掌ほどしかない。
そのため中がどうなっているのか、外からでは伺うことができなかった。
質素な木製の扉に店名のみが彫り込まれているだけということもあり、ナオジ達に喫茶店だと教わらなければここがどういった店なのかも分からなかっただろう。
「私たちの隠れ家にようこそ」
ヨリコが朗らかな笑みをミツへ向けながら、店の扉を開く。
開けるのと同時に、涼しげな鈴の音が響いた。
ナオジがミツを先に入るよう促す。
ミツは店の中へ入った。
まず目に入ったのは、額縁に納まった大きな絵だった。
痩せ細った聖人が、今まさに磔刑へ処されようとしている場面を描いた一枚の絵。
その絵の下に、小さいカウンターがある。
恰幅の良い男性の店員がカウンターの向こう側でカップを磨いていた。
飾られた絵の存在感があまりに強いため、まるで店員を仕えさせている主人のようだとミツは思う。
海外の聖者を題材としたその絵は緻密かつ大胆な筆で描かれていた。
素人のミツでさえその色合いがもたらす奥深さに目を奪われてしまう。
そうして入り口で立ち止まったミツを追い越し、ヨリコがカウンターにいる店員へ手を振る。
「この子にはブレンド。
私たちはいつもの」
ヨリコは慣れた口調で簡潔に注文し、店の奥へ進んでいった。
そしていつの間にかミツの横にナオジが並んでいる。
ナオジはミツのやや前へ進み出て無言のまま案内した。
店の奥がテーブル席になっており、席と席の間は分厚い木の衝立で仕切られている。
何人もの聖人が並ぶ図が彫り込まれたその衝立は何枚も重ねて建てられ、ずいぶんな面積を持っていた。
そのためテーブル席が個室のように使える。
だから隠れ家か、とミツは納得した。
赤漆のテーブルは長方形の四人掛けで、ヨリコはすでに腰を下ろしている。
ナオジがヨリコの対面に座った。
ミツはしばし迷い、ヨリコの隣へ腰掛ける。
ヨリコが嬉しそうに笑いかけた。
「じゃあ、あらためてご挨拶するね。
私はヨリコ。
こっちがナオちゃん」
「その呼び方で紹介してどうする。
ナオジだ」
「……ミツ」
ミツの自己紹介に、ヨリコはふうん、と首をかしげる。
「ミツちゃんって同学年でいいよね。
何組?」
「ナオジさんと同じクラス」
ぼそりとしたミツの応えに、ヨリコが驚きの声を上げた。
そして視線をミツからナオジへ勢い良く移す。
「ナオちゃん、なんで黙ってたの」
「気付かなかった」
隣の席なんですけどね、とミツは心の中だけで呟いた。
ナオジは悪びれた様子もなく、伏し目がちにミツへ目を向ける。
「ヨリコのおごりだから、好きなもの頼んでいい」
「ナオちゃんが払ったことって一回もないけどね」
「あぶく銭を持ってるやつから金の無心をして何が悪い」
「それだと私がお金持ちだと勘違いされちゃうでしょ。
ミッちゃん、違うからね。
私お金あんまり持ってないよ」
いつの間にかミツへの呼び方を「ミッちゃん」にしてしまったヨリコが、慌てたように取り繕う。
ヨリコの貧富に興味はないが、自分に馴れ馴れしくあだ名を付ける同学年の子へ、ミツは眉根を寄せた。
するとナオジがミツへ黒い瞳を向け、
「変な呼び方ばかりするやつなんだ。
気に障ったのなら直させる」
と言った。
不思議なことにナオジにそう言われると、特段、ヨリコから妙な呼ばれ方を相手も不愉快に思わなくなった。
それよりも、ナオジがミツのそうした表情の変化を見て取ったことの方がミツには驚きだ。
ミツはナオジの視線を受け止め、首を横に振りながら応える。
「ううん、大丈夫」
ナオジは何も言わず、視線を手元のメニュー表に落とした。
そうしている間に、注文していたものが届く。
ミツにはブレンドのコーヒー、ヨリコはミルクティー、ナオジはジンジャーエールだ。
ヨリコは茶色の液体が注がれた温かな器を手に寄せ、微笑みながらミツに言う。
「ここのブレンドはおいしいの。
でも私達は一杯目はこれ、って決めてるからお先にどうぞ」
奇妙な促され方にミツはなんと返事して良いか迷い、結局何も言わず、コーヒーを口にした。
豊かな香りが鼻と口を撫でる。
舌先に複雑な味わいの波が押し寄せ、喉元へ通り抜けた。
それらを嚥下すると、頭や肩から力を抜けさせる、落ち着きのある感覚が生まれる。
おいしかった。
ミツはそう思った。
言葉に出すことは出来ない。
どう言って表現すればいいのか分からなかったからだ。
しかしヨリコはミツの様子に笑みを深くし、子供のそれに近い明るさを顔に出す。
「このお店を知ってることが、私達の小さな自慢なの」
ヨリコが言う。
ふん、とナオジは鼻を鳴らしながらグラスを傾けた。
同意しているのか反発しているのか、ミツには分かりかねる。
しかし自分が手にしたコーヒーは確かに上品な甘さと苦さが調和された見事なものであることに変わりなく、芳醇でありながら素朴なこの飲み物をミツは気に入ってしまった。
美味いからといって一気に飲み干してはもったいないとミツは思い、ゆっくり、ちびちびちと飲む。
その間、ヨリコがひたすら口を開いては喋り続けていた。
話しかける相手はナオジであったり、ミツであったり、気ままに変化する。
ナオジは適当にあしらうが、ミツはそうはいかなかった。
話題は学校の教師や、近々行われる行事、駅前に出来た大型服飾店、流行の化粧品、等々。
ミツはその何にも返事を返すことが出来ない。
こういった会話を打ち切る方法を、ミツは知っていた。
いつもの台詞を言えば済む。「私には関係ないよ」と言えばいい。
コーヒーの最後の一滴を飲み終え、ついにミツはその言葉を吐こうと口を開きかけた。
そのとき、別の言葉がミツを遮る。
「ヨリコ、うるさい」
ナオジだ。
雑誌を開いていたナオジは目線をあげず、切り裂くような鋭い言葉を発した。
「私は本を読みたい気分なんだ」
ナオジに言われ、ヨリコは不服そうに頬を膨らませる。
その仕草は本当に子供に近かった。
そしてねこのように上半身に伸びをさせ、ヨリコは自分も鞄の中から教科書とノートを取り出す。
その様子を見ていたミツは、自分に視線がやってくるのを感じた。
対面に座るナオジが、ミツを静かに見やっている。
「邪魔しないから、好きなの読めよ」
言って、ナオジは雑誌に目線を戻す。
ミツは驚いた。
ちょうどミツも、この静かな店の中で静かに読書が出来たらな、と思っていたところだったのだ。
「うん」
とミツは小さく返す。
その言葉はあまりに小さすぎて、きっとナオジには届かなかっただろう。
誰かとこういう遣り取りをすることに、ミツは慣れていなかった。
しかしナオジは気にしていない。
好きにすればいい、という風に泰然としている。
ミツはそれに甘え、自分も本を取り出した。
ゆるやかな感情がミツの中に浮かび、広がる。
静謐さを尊ぶこの店の時間は、やはり穏やかで清涼としていた。




