直径60センチの笑う空
死んだ祖母が私に残してくれたのは手鏡で、なんの嫌味かと少し笑えた。
綺麗な薔薇のモチーフで装飾のされたそれはあまりに私には似合わない。
気恥ずかしさから引き出しの奥へとしまっていたけれど、それでも毎日取り出して、そっと自分の顔を映してみる。
小さくて腫れぼったい一重の目に低い鼻、口角の下がった不機嫌そうな唇に目の下には濃いクマ。ニキビが絶えない肌はボロボロで、エラまで張っていて、
「ああ、やっぱりブスだ」
呟いて頬を抓る。当然ながら痛い。美しい手鏡に映る私の顔は、何度瞬きを繰り返しても、同じだ。
手鏡を机の上に置いて大きな鏡の前に座る。両頬を叩いて気合いをいれ、化粧を開始した。まずはニキビだらけの肌をファンデで隠す。鼻が高く見えるように陰を付けて、ハイライトも。クマは念入りに消して、二重にしてつけまつげをして、目がぱっちり見えるようにラインを引いて……。
高校に入って出来た友達に教わったメイク術だった。本格的に化粧をするようになって以来、私のバイト代はほとんど全て化粧品やスキンケア用品へと変わっている。
手早く化粧を終え梅雨の湿気で広がる髪をワックスで押さえつけると、私はもう一度手鏡をのぞき込んだ。
さっきとは別人みたいな顔。にっこり鏡に微笑んで、呪文を口にする。
「可愛いね」
私にメイクを指南した友達が最後に教えてくれた、とっておきの呪文だった。毎日唱えれば本当に可愛くなれるんだよ、と彼女は笑った。本気で信じている訳じゃないけど、胡散臭い呪文にだって縋りたいのが乙女心ってものなのだ。
手鏡をしまおうと引き出しを開ける。その瞬間、手鏡が私の手から滑り落ちた。
胃が冷たくなる感覚がする。焦って拾い上げるとヒビが入っていた。落ちたのは絨毯の上だったけど、古い鏡だから仕方ないのかも。
(鏡って修理に出せるのかなあ……)
ヒビを指先でなぞる。
すると突然ヒビから光が漏れ出した。驚いて鏡を放ったけど光はみるまに強さを増して、私が悲鳴をあげる間もなく部屋中に溢れかえった。まぶしさに目がくらむ。
しばしたって恐る恐るまぶたを持ち上げると――割れた鏡の上に、変な服を着た小人が立っていた。
手のひらに乗るくらいのそれは、いつか遊園地でみたピエロみたいな格好でうやうやしく頭を下げた。見たところ男の子っぽい。
「どうも、やっと会えましたね晴香さん。僕の事は好きにお呼び下さい」
私はへたり込んで固まったまま動けなかった。なんで私の名前を知ってるのか、とりあえずそこから訊ねたらいいのかな。
派手な小人さんは金色の髪を揺らしてぴょんぴょん跳びはねながら、小さな手を私に向かって振る。
「えっとー……妖精?」
「妖精、ですか? そのまんまじゃないですか。もっと格好いい名前がいいです」
「いや、そうじゃなくて……」
言葉が通じている。幻覚かな。
小人もとい、妖精さんは私の腕をよじ登って肩までやってきた。ぺしぺしと頬を叩かれる。初対面の人間の顔を叩くなんて、礼儀知らずの妖精だ。
「晴香さん! ちょっと、大丈夫ですか」
「……たぶん」
私が答えたのを確認して絨毯の上に降り立ち、妖精はもう一度お辞儀をした。
「改めまして、僕はその鏡についていた妖精です」
割れた手鏡を指さし、続ける。
「聞いてびっくり、見てびっくり、なんと鏡を割った方の願い事をなんでも一つ叶えることが出来ます!」
「――なるほど、びっくりした」
教科書でも音読するかのように言うと、私の反応の薄さに妖精は眉根を寄せた。
「まあいいです。願い事をどうぞ」
願い事かあ……ベタだなあ。これはどう考えても夢だろう。
気付くと口が動いていた。
「美人になりたい」
「あ、そういう難しいのは却下で」
「……なんでもっていったじゃん」
失礼な奴め。思わず口を尖らせるが、妖精は偉そうに顎をしゃくって他の願いを言うように促した。
「じゃあ、大金が欲しい」
「却下です。……ああ、でも一万円くらいなら出せるかも」
「えー少ないよ。今どきお年玉だってその何倍もくれるよ」
「贅沢言わないで下さい」
妖精はやれやれと肩をすくめた。
「全く、貴方は毎日毎日僕をみてはため息を吐いて。やっと出してくれたかと思えばこれですよ。リアクションも薄いし文句ばっかりだし……」
「見てたの?」
もちろん、と首肯する妖精は妙に腹立たしい。これまでの、鏡に向かって笑顔を作っていた事も見られていたのなら、恥ずかしいどころの話じゃない。もう夢だろうが夢じゃなかろうが、どうだっていいや。
時計をちらりと確認すると、約束の時間まで三十分を切っていた。
「あーーっ!」
私は立ち上がってバッグに財布とポーチを詰め込む。もう一度鏡の前に立って、髪型をチェックした。それから、落ちている手鏡を拾い上げて机の上へ。
「どこか行くんですか?」
妖精が可愛らしく小首を傾げている。
「……デートだよ」
動きを止めて答えると、わざとらしく目を丸くして見せた。憎たらしい。私に彼氏がいるのがそんなに不思議か。私だってばっちりメイクすれば平均くらいの顔なんだからな。
足下に妖精が寄ってきた。
「付いていってもいいですか?」
「来なくていいよ」
ぞんざいにあしらってドアノブに手を掛けると引き留められた。
「言い忘れてたんですけど、僕が願い事を叶えるには鏡がなくちゃいけません。これまで入っていた鏡が割れちゃった訳ですから、代わりの鏡を用意して頂かないと……」
代わりの鏡ねえ……。私はバッグの中を漁って、三百円で買った折りたたみ式の小さな鏡を取り出した。ピンクに白い水玉のシンプルなものだ。
「これでいい?」
「えーもっと綺麗な鏡がいいです」
「贅沢言わないで下さい」
したり顔の私に、妖精は小さな小さな顔で目一杯嫌そうな表情をした。
外は雨だった。梅雨入りしてからずっと降り続けている。空から落ちてくる粒が地面を叩く音がするたび、私の心は沈んでいく。
握りしめている赤い傘は、友達の美雨に誕生日に貰ったものだ。
私に化粧やスキンケアを教えてくれたのも、この美雨だった。美雨は目を引く程の美人で、入学式のその日から誰よりも目立っていた。腰に届くような長い栗色の髪を背に垂らし、背筋をぴんと伸ばしてまっすぐ前を向く彼女の姿は、ただただ格好良くて、綺麗で、まるでそこだけ世界が止まっているみたいだった。
同じクラスになったものの、私と彼女の接点なんて何もない。眩しい彼女に話しかける勇気も私にはなくて、まともに会話する事が出来たのは、ちょうど一年前の小雨が降る日だった。
傘を忘れた私は、どうせ駅までの間だけだと走って校門を出ようとした。すると後ろから呼び止められた。それが、美雨だった。
「電車だよね? 一緒に帰ろうよ」
美雨はそう言って、自分の傘の中に私を入れる。突然のことに私は口をもごもごさせる事しか出来ずにいた。
私の態度を気にもしないで、美雨はにこにこ笑って話だした。
「晴香ちゃんは雨好き?」
首を横に振るのが、私の精一杯。なんでこんなに緊張してるのかわからない。――嘘、本当はわかっていた。
私にとっての美雨はカリスマで、私の持っていない、欲しくて堪らないものを全て持っている様に見えた。すぐそこにいるのにすごく遠くの存在みたいに。
「なんで嫌いなの?」
美雨は優雅に首を横に傾ける。私はすっかり赤面して、俯いてしまう。
「……泣いてるみたいだから。空が泣いてるとこっちまで悲しい気分になってくるから」
一呼吸分の沈黙。しまった変なことを言ってしまったと顔色を窺うと、美雨は可笑しそうに笑っていた。口角を上げて目を細めるだけの行為を、こんなに美しくする人が、いるんだなあと思った。
「じゃあ晴れてるときは笑ってるんだね」
彼女の楽しそうな声は、雨音に紛れることなくそのまま胸の奥まで入り込んできた。
次の日から私達はどうしたことか友達になり、二年生になった今ではいつも二人でいる程にまでなった。
真っ赤な傘を、美雨は「ちょっとでも雨を好きになって」と言って私に差し出した。
私はまだ、雨が嫌いなまま。
宗介とのデートは、最悪だった。つきあい始めて一ヶ月も経っていないのに、彼は終始つまらなそうにしていた。
私はそんな宗介に腹を立てるどころか、ずっとびくびくしていた。美雨に習った化粧と服で見た目を繕ったって、中身は引っ込み思案で気の弱い根暗のままだ。
だから、宗介の「急用出来たから帰る」を笑って許した。
どうしたのかな、なにか私、変なことした? 気に障るような事言った?
私は彼に嫌われる恐怖で頭が真っ白だった。
帰り道は土砂降りだ。号泣する空の涙は、容赦なく私の上に降り注ぐ。赤い傘を広げて、それを防いだ。
宗介には、私から告白した。すらりと背が高くって運動神経が良く、いつでもみんなの中心にいた彼は、憧れの存在だった。
化粧をし出してから急に話すようになり、憧れは好きに変わった。彼の大きな唇の形がたまらなく好きだった。あの唇が弧を描いて、照れた風に笑う顔を間近で見ると心臓が高鳴るのだ。今まで男の子と喋ることすらほとんど無かったから、男友達が出来ただけで嬉しかったのかも。
頑張って頑張って、せっかく彼女にこぎ着けたものの、私達の関係は冷え切っていた。恋人同士って世間一般でもこんなもんなの?
「わっ!」
ぼうっと道路を歩いていたら盛大に転んだ。
飛んでいった傘が、通り過ぎた車にぶつかる。鮮やかな赤色が遠くにいってしまった。擦りむいた手のひらの痛みが鼓動と共に強くなっていく。見つめた地面には、雨の波紋が出来ては消えていく。
立ち上がって傘の前でしゃがみこんだ。指先で柄に触れると冷たくて、拾い上げてみるとずしりと重い。傘は、折れていた。
壊れた傘を広げる気にはならなかった。もうどうにでもなればいい。
ずぶ濡れで帰宅すると、妖精がいた。私のベッドで寝ている。
髪から雫がぽたりと落ちた。
嘘だ、朝のことは幻覚でも夢でもなかったなんて。だとしたら私、なんであんなに冷静だったんだろう。おかしいに決まってる。だって鏡の妖精なんて……。
「うー……」
思考に浸かっていると妖精が身じろぎした。目元を擦りながら体を起こし、辺りを見回している。あ、目があった。
「……なんですか、その格好」
第一声がそれですか。
私はなんだか力が抜けて、その場にへたり込んだ。
「あーあ、疲れた」
「そのままじゃ風邪引きますよ。嵐にでもあったんですか?」
「……まあ、大体そんな感じ」
「早く着替えてお風呂入った方がいいですよ」
「……妖精も常識的なこと言うんだねー」
妖精は渋い顔をした。妖精ってこんなに可愛くないものなのか。小さいものは可愛いっていうのが鉄板なのになあ。
口うるさい妖精はほうっておいて、私は机の上のひび割れた手鏡を手に取る。
「ぶっさいく」
化粧も何もかもを無くした私は、この世で一番不細工な気がした。
嫌になって、手鏡は奥にしまう。
「ちがいますよ。鏡を見たときの呪文は『可愛いね』でしょう?」
「……可愛くないもん。呪文まで唱えて必死になるのって、恥ずかしいよ」
「晴香さん、可愛いですよ? もっと胸張って努力していいと思います」
「美雨と同じこと言うねー」
思わず妖精に目を向けると、彼は瞬きした。
「誰です?」
「友達。すっごく美人で自信もあって、なんていうかこう、きらきらしてるの。『努力してる人を笑うのは努力してない人だから、そんな人ほっといて胸張ればいい』って言われた」
「へえ、変わったこと言いますねえ」
変わったこと、か。そうかも。美雨は変わってるのだ。だから、私は普通なんだよ。こんな風に落ち込んだって普通なんだ。
目元を袖口で拭って、ため息一つ。
「梅雨なんて早く終わればいいのに。雨なんて、振らなかったらいいのに」
このままベッドに倒れ込もうか。
ふらふらしながらベッドへ近付くと妖精が足の甲を叩いてきた。
ああ、止めてくる人がいるんだなあ。人じゃないけれど。
「駄目ですってば。雨はどうしたって降るんだから、雨が降らないように祈る暇があったら、降ったときいかに雨を楽しむか考えた方がいいんじゃないですか?」
妖精の癖に、正論を言うやつだ。
仕方なくお風呂に入った。部屋に戻ると、妖精は私のポッキーの箱を開けていた。
「妖精ってポッキー食べるの?」
「食べたことないですけど、たぶん」
「ふうん」
私は妖精からポッキーを奪い取った。妖精は取り返そうと手を伸ばして跳びはねる。でも妖精の身長で届くわけがなく、頬を膨らまして私を睨み上げた。
妖精の癖に、どうやら空を飛べないようだ。
「はい、あーん」
ポッキーを一本妖精の鼻先に突き出す。妖精は肩をすくめてからそれに齧り付いた。両手で持ってもぐもぐと食べている。甘いもの好きなのかな。
ペットだと思えば問題ないような気がしてきた。
「美味しい?」
「……さあ」
不遜な態度をとり続ける妖精の、カラフルな帽子を摘み上げてみる。やっぱり小さい。着せ替え人形ってこんな感じだったなあ。
「返して下さいよ」
「ねえ。朝言ってた事からしたら、私が願い事を言ったら、君は鏡の中に戻されちゃうの?」
ポッキーを食べ終わった妖精の頭に帽子を乗せる。
「まあ、そういうことになりますね。僕は人の願いを叶えることが仕事なので、叶えてしまえばその後は新しい主人を待つことになります」
「そっかあ……叶えたら消えちゃうんだね」
「ちなみに、一度願いを叶えた人がもう一度僕の鏡を割ったらどうなるのかは知りません。万が一何かあったら嫌なので、その鏡は人にあげて下さいね」
瞬間、本当に一瞬だけ、妖精の顔が曇った。私はなんとなく、何も言えない。
私が小さく頷いたら、妖精は満足げに次のポッキーを要求してきた。
次の日、家を出ると曇り空が広がっていた。
なんでだろう、妖精にはどんなことだって話せるなあ。
「人間じゃない」という感覚が、不思議と心地いい。妖精相手なら全然緊張しないし。宗介と一緒にいるときも、こんな風に自然体でいれたらいいのに。
登校して鞄を机の上に置くと中からひょっこり妖精が顔を出した。
思わず妖精を鞄に押し込む。
「なんでいるの!」
鞄の中から弱々しい声が聞こえてくる。
「だって暇なんですもん……」
私は妖精を押さえ付ける力を弱めた。
そうだよね、今までずっと鏡の中にいたんだもん。人間とは感覚が違うんだろうけど、それでもきっとつまらなかったと思う。
「大丈夫です! 僕は晴香さん以外には見えませんから」
「まあそれならいいよ」
鞄を開けて出してあげると、妖精は肩をなで下ろした。
「あの中、すごく窮屈でした。ぐちゃぐちゃだし。ちゃんと整理した方がいいですよ」
「うるさいなあ」
妖精の言葉に私は唇を尖らせる。
すると、ふいに横から声を掛けられた。
「晴香、どうしたの?」
「うわああっ! なんでもないよ、おはよう美雨」
「そう? おはよう」
美雨は怪訝そうにしていたけど、すぐににっこり笑った。
「この人が美雨さんですか?」
「そうだよ」
「えっ? 何が?」
しまった間違えた。妖精が話しかけてきたのに普通に答えてしまった。美雨は目をぱちくりさせている。
「な、なんでもない」
「ならいいけど……。そうだ、今日一緒に帰らない? 部活休みなの」
「いいよ」
確か今日は宗介は部活だ。部活じゃなくても、宗介と帰るのは気まずいけれど。
チャイムが鳴って、美雨が自分の席に戻った。
「確かに美人ですねえ」
私は机の上の妖精を一瞥して、出来るだけ小さな声で答える。
「うん。もしかしてタイプなの?」
「いえ。僕はもっとこう、可愛い感じの人の方が……」
「あっそう」
どうせ私は、美人でも可愛くもありません。
授業中の妖精は意外に大人しかった。きょろきょろ辺りを見回したり、私の腕をよじ登ったり、飽きたら筆箱を枕に昼寝したり。
昼休みはお弁当のおかずを食べさせろって騒がしかったけど、卵焼き一個で大人しくなった。
放課後、帰ろうとすると先生に呼び止められた。どうも今日は図書委員会があるらしい。
「そんなのすっかり忘れてた」
顔を顰めると隣の美雨が長い髪を揺らして首を傾げた。
「ちゃんと行かないと駄目だよ?」
「……美雨、先帰ってていいよ」
「ううん。そんなにかからないだろうし、待ってるね」
待ってくれるという美雨にお礼を言ってから図書室へ向かう。
私の肩に乗っている妖精は、感心したとばかりに大きく嘆息した。
「美雨さん、美人な上に性格もいいとは完璧ですねえ」
「なにそれ嫌味?」
「晴香さんの心が歪んでるから嫌味に聞こえるんですよ」
肩から落っことしてやろうかと思った。
図書委員会は思ったより長引いて、私は教室の美雨の元へ走って戻った。
すると、教室の方から話し声がした。声の主には聞き覚えがある。美雨と――宗介、だ。
たぶんびっくりするくらいの低確率で、嫌な偶然と偶然が重なって、本来見なくてもいいものを見てしまうことがある。一生そんなものを見る事なく過ごせる人も必ずいて、それなのに私には、そういう偶然と偶然を最低な瞬間に重ねる力がある。こんな力、なければよかったのにね。
「やめてよ」
これは美雨の声。
「最初から、美雨が好きだったんだ。それなのにおまけの方に告白されて、仕方なく付き合ったんだ」
この低くて少し掠れてるのは、宗介の声。こんな必死な声色、初めて聞いたよ。
美雨が声を荒げた。
「なにそれ、最低!」
「だってお前、晴香と仲良いから。断ったら絶対印象悪くなると思ったんだよ」
そっか、そうだよね。当たり前だよ。人気者の宗介が、私のことなんか好きになってくれる訳ないもん。
おまけだから、私なんかと喋ってくれたんだ。おまけだから、仲良くしてくれてたんだね。美雨の、おまけだから。
宗介は美雨の腕を掴み、さらさらした髪を一房手に取った。
私が好きな彼の唇が、美雨の栗色の髪に触れる。宗介の唇はいつもより赤く見えた。
息を飲んだら、こぼれそうなくらいに目を見開いた美雨と目があった。
「晴香……違うの」
そんな台詞、吐かないでよ。まるで私、浮気現場に遭遇したみたいじゃない。
宗介は何も言わない。こっちを見ることすらしない。言い訳すらないんだね。
私は全速力で駆け出した。妖精は小さな手で私の肩にしがみつく。
美雨が宗介に向かって怒鳴るのが、背後で聞こえた。
「晴香の事、おまけなんて言わないで!」
涙が止まらなくなった。
今日も雨だ。今日も雨。
私は、傘がない。
妖精がずっと私の名前を呼んでいる。全部無視した。
階段を駆け下りて急いで靴を履き替え、下足を出る。
校門を出るより早く、追いかけて来た美雨に捕まった。美雨は足まで速いんだね。
「晴香、大丈夫?」
大丈夫ってなにが? って訊きそうになるのを飲み込む。答えを聞きたくなかった。
何も言わない私に、美雨の白く長い指が伸びる。それを私は振り払った。
「……もういいよ。美雨みたいな綺麗な人に慰められたらよけいみじめになるよ。ほっといて」
美雨の大きな目に涙が滲んだ。美雨が泣きそうになるのを初めて見た気がする。こんなに綺麗な顔を歪ませているのは、私だ。
「ほっとけないよ」
「――これ以上みじめな思いさせないで。ほっとけって言ってるじゃない!」
言い放つと、美雨は私に背を向けた。小さくなっていく美雨の後ろ姿を見ていられなくて私は俯いて膝を抱えた。何人かの生徒が訝しがりながら前を通り過ぎて行く。それでも、立ち上がろうとは思えなかった。
宗介が私を好きじゃなかったとか、騙されていたとか、そんなことはいい。なによりも「美雨のおまけ」だった事実が胸を締め付ける。美雨と一緒にいるようになって、変われたと勘違いしてた自分が恥ずかしくてたまらない。今まで宗介に言ったことやしてあげたこと、全部なかったことにしてしましたい。舞い上がって、馬鹿じゃないか。
雨が冷たい。空も私も、泣きやみそうにない。真っ赤な傘は壊れてしまった。
地面を激しく打つ雨の音が不愉快だ。
妖精は私の肩から飛び降りた。
「晴香さん、風邪引いちゃいますよ」
スカートの裾を引っ張って、妖精が足下で上目遣いに私を見上げている。
「傘が欲しい」
私の声は震えている。
「へ?」
「願い事。……なんでも叶えてくれるんでしょ?」
悲しそうな顔をする妖精を気にもしないで、私は鞄から鏡を取り出す。折りたたみ小さな鏡に自分の顔を映してみた。
雨に打たれた私は今、世界最高にブスだ。こんな汚い心じゃ、一生綺麗になんてなれないよ。
化けの皮がはがれていく。懸命に隠した醜い自分が、鏡の向こうからこっちを見ている。
「傘をちょうだい。なにからも私を守ってくれる、傘をちょうだい」
止まない雨にはもううんざりだった。
「それはちょっと……」
「――結局なにも出来ないんじゃない。妖精なんて言って、なにも出来ない癖に」
違う、なにも出来ないのは私だ。
はっとして口元を押さえると妖精は淡く微笑んだ。
そしてもう一度瞬きをした瞬間、消えた。
――叶えたら消えちゃうんだね。
こう言ったのは私だった。私だったのに。
妖精がいたところには、代わりに一本傘があった。
開いてみる。青空色した傘だった。
傘は私の上に青い空を作る。まるでここだけ晴れているみたいに。
胸の中の鏡を抱きしめたら、ほんの少し温かく感じた。
立ち上がって空を見上げる。灰色の空を割るように広がる青空は、眩しいくらいに鮮やかだ。
深呼吸して湿った空気を嚥下する。真っ直ぐ前を向くと美雨が駆け寄ってくるのが見えた。
「ごめん、やっぱりほっとけない……ってあれ? どうしたの?」
私は傘を持ったままずぶ濡れの美雨に抱きついた。あの美雨が、髪もぼさぼさで息も切らしている。私はずっと美雨の善意に甘えてた。美雨だって、普通の高校生なのに。
「私、酷いこと言っちゃった。美雨にも、妖精にも」
美雨は私の背中をとんとんと叩く。
「気にしてないよそんなの。……妖精って?」
「友達だったの。すっごく大事な友達だったのに、酷いこと言っちゃった。そしたら、消えちゃった」
嗚咽で、美雨にちゃんと伝わったのか分からない。それでも美雨は大丈夫だよ、とささやいた。
「大丈夫、晴香が本気で言ったんじゃないって、その子だって分かってるよ」
私が落ち着くまで、美雨はずっと側にいてくれた。
「美雨ありがとう」
一瞬きょとんとしてから、美雨は照れくさそうに笑った。相変わらず綺麗に笑うなあ。
「帰ろっか」
「あ、まって。これ貰って欲しいの」
私は鏡を美雨に渡した。妖精が入っている鏡だ。
もっと豪華な鏡にしてあげればよかったな。
美雨は理由を訊かずに受け取ってくれた。
「大切にするね」
「ありがと。でもあんまり大切にし過ぎないでね」
「どうして?」
「割るのが美雨じゃなきゃ、意味ないから」
私の言葉に美雨は眉根を寄せたけど、それ以上言わないことにした。
不服そうな美雨と相合い傘をして歩き出す。
「……ごめんね、美雨に貰った傘、壊れちゃった」
「いいよそんなの。新しい傘、綺麗な色だね」
「うん、すっごく気に入ってるの。美雨の傘と同じくらいに」
「なにそれ」
美雨が楽しそうに笑うから、私も微笑みで返す。
水たまりを踏んだら水が跳ねた。濡れても、今更だ。気にしない。
今日は雨だ。今日も雨。
でも私達の上には、青空が広がっている。