第9話
幸いにして怪我人がでなかったから良かったものの、窓ガラス破損事件はその日のうちに一気に校内で騒ぎとなってしまった。結構な音がしていたし、クラス中も避難と動揺でざわついていたから、校内中に知られてもおかしくはないと思う。あれから駆け付けた何人かの先生が話し合って、とりあえずわたし達のクラスは特別に家へ帰される事になった。多分こんな不可解な事件、とても対応仕切れなかったんだろう。
一応第一発見者、もとい目撃者として誰一人窓には触っていなかった事、ひとりでに亀裂が走って割れたのだという事だけは話しておいたけど、先生達はあんまり信じてくれなかった。本当に窓に触れていないのかと念を押されて、後は窓を施工して何年だの耐久年数だの、業者側の責任だのとあんまり外聞の良くない話ばかり。それ以上はわたしには関係ない話なので、遥と一緒に大人しく家に帰る事にした。
「あーもうマジ怖かった。何なのよねあれ、ムカつく!」
しおらしく怯えていた可愛い遥はもういない。いるのは理不尽な事態に怒りの反動を抑えきれない親友だけ。
遥とわたしの家は比較的近くて、同じ住宅街の丁目違い。その大通りへと続く商店街を2人で歩いていると、彼女は納得いかないとばかりにケースに入ったラケットを振りまわす。
「何で急に割れるのよ、一歩間違えば大怪我よ。おまけにさっさと帰らされて。授業はどうでもいいけど部活は大会は明後日なのに!」
未だお昼をまわっていないような時間に解散になってしまい、数人は部活に参加してもよいかという旨を申し出ていた。けれど他の生徒への建前上やっぱり認められなくて、半ば強制的に下校となっている。
「でもみんな無事でよかったよ」
ガラスの水溜りとなった教室は、窓の取り付け云々以前に一度徹底的に掃除しないとまずいかもしれない。今日の午後にでも専門業者さんが来てくれないと、明日の授業さえ危うい。
「そうね、まあ小夜子も微妙に本調子じゃあないから練習はいいけど。明日には治しておきなさいよ」
「うん、ありがと。それじゃ気をつけてね」
お互いの帰路の分かれ道で手を振って、わたしはそのまま一人住宅の合間を歩きだす。稜介は別の友達と寄り道して帰るらしいので、きっとわたしの方が家に着くのは早い。昼間の住宅街は閑静で人通りもないので、ときたますれ違う買い物袋を持った主婦に会釈をしつつ、足をひたすらに動かした。こんな時間に一人で通学路を歩く事なんて滅多にないことなので、一人でいると頭の中が考え事で一杯になってくる。
最近わたしの周囲で起こる不思議な出来事、これは気のせいなのだろうか。油が水に変わったのも、落下する包丁が空中で停止したのも、直接遭遇したのはわたししかいない。この二件は確かに謎なんだけど、よくよく考えるとわたしに降りかかる危機を回避してくれるとも思う。熱した油をかぶったり、素足に包丁の刃を落としたら怪我は確実だし、はっきり言ってこのおかげでわたしは命拾いしているはず。だから疑問に思う事があれど、陰ながら感謝もしているのだ。本当に藤倉家に最近住みついた幽霊が家賃代わりに手助けしてくれたのかもしれないしね。うん、そろそろこの説は言い訳苦しいかな。
でも今日の窓ガラス事件は前述の二件とはあきらかに違う。何と言うか、無差別な危険がすぐ近くにあった。規模も大きいし、原因も全く不明。もちろん三件に関連性があるかどうかはわからないけれど。
緑の葉を繁らせた桜の木、夏場の別名毛虫ロードを足元に注意して進めば、自宅はもう目の前。お父さんもお母さんも仕事、弟は学校なら当然家には誰もいないはず。そう思って玄関に鍵を差し込むと、施錠はされていなかった。驚いてドアノブを掴むと、開いてる。
何て不用心。いやそれよりも、誰かいるの?
「――やっぱりもう限界よ」
ゆっくりと扉を開くと、リビングから玄関まで響いてきたのは母の声。
お母さん? 仕事はお休みなの?
「全てを話しても、小夜子が受け入れてくれるかしら」
中に入って扉を閉めようとして、その手が止まった。複数の人の気配。
「もう隠し通せないだろう……拒絶されればそれまでだ」
これはお父さんの声だ。重々しくて、いつもの明るい感じがない。
「兄ちゃん……全部姉ちゃんに話したら、もう一緒にはいられないかな」
それに健太郎の声まで。平日の真っ昼間からみんな何をしているの?
「稜介君、いいかい。僕たちは娘の幸せを一番に願っている。君には辛い選択になると思うが……」
「わかりました。僕が秘密を、小夜子に話します」
掌が汗で滑って、わたしはそっと扉を閉めた。
お母さんとお父さんの声がした。弟も家にいるみたい。仕事が急にお休みになって、中学校も緊急で下校になったのかな。はは、じゃあ家族揃って午後お出かけできるねぇなんて。
そんな事を考えられる程お子様ではなく、けれど現実を見つめられる程大人でもなく。
百歩譲って家族が家にいてもいい。意味不明な会話をしててもいい。だけどそこにどうして彼がいるの。
秘密を話す? 誰が、誰に? 稜介が、わたしに?
嫌だ、やめて。
聞きたくない、そんなもの。だってそれを知ったら、稜介はわたしの前からいなくなる。それが嫌だから秘密なんでしょう? どうして暴くの、どうして言うの、精一杯知らないフリをしてきたわたしは何なのよ。
お願い、やめて。
目の前が真っ暗で、治まってきていた頭痛がカーニバルのように鳴り響く。最低最悪の気分だったけれど、この場に留まる事が出来ず、わたしは元きた道を走りだした。
※
泣き喚くセミの声を聞きながら、全身に日差しを浴びる。正午辺りの直射日光は一日のうちで最も容赦がないので、セーラー服の下は汗だくだ。
マラソンには向かない季節なのに、私は一体何をしているのかしら。とりあえずマスクの装備は限界だから、新鮮な空気を求めてそれを外した。
世界中に幼馴染が宇宙人でしたって人はどのくらいいるんだろう。いや、そもそも宇宙人と深く関わった人の数の方がいいのかな。みんなこうして正体がばれたら姿を消しちゃうのかしら、だったらあんまりだ。そもそも正体がばれたら一緒にはいられないなんて三流恋愛映画みたいな設定は誰が決めたのよ、全宇宙の共通事項なの? そしたら地球は適用外でいいよ、ううん、この際彼だけ例外に。だいたいそんな狭い視野で未来の宇宙開拓時代を切り開いていけると思っているの? もっと先見の明を持つべきなのよ、つまり異星人との交流はオープン情報で始めるべき。
ああ、わたし相当動揺してるし、混乱してる。自分でも論点のずれたこんな情けない事をぐるぐる考えながら、足だけが意志を持って目的地へ進んでいる状態で。目の前で住宅街の景色が開けて、ようやくほっと息をつく。
5年前、わたしが全ての切っ掛けを作った河原。相変わらずハムスターでさえ歩けそうなくらいの浅瀬が広がり、所々に雑草が群生している。当時溺れた辺りの付近も今にしてみればやっぱり浅い。わたしの平均的なこの身長で肩より下くらいですむだろう。
あのときのわたしの馬鹿な行動が全部原因かと思うと、どうしようもないくらいの罪悪感と嫌悪感が全身を苛む。タイムマシンがあれば昔のわたしを引っ叩いてでも川になんか行かせないのに。感傷が募ってどうしようもない。
もし。もしもあのとき川に行きたいなんて言わなければ。大人しく稜介の言う事を聞いていれば。未来は変わったの?
背後から足音が聞こえてきたのはそのときで、わたしは咄嗟に岸辺へ座り込んだ。
「小夜子」
長い付き合いは靴音でも人物を判断出来るようになる。
とうとうわたしに最後の審判を下す彼がやってきたと思うと、とても顔が上げられない。裁かれる罪人の絶望と懺悔の念が脳裏を掠めて、体育座りで両腕の上に頭を伏せた。つい日焼け止めを塗り忘れた首筋を、日光が舐めるに降り注ぐ。汗が体中を巡って制服と素肌を貼り付けるのが気持ち悪い。
「……何でこの場所がわかったの?」
背後にいる稜介が足をとめ、こちらへ近づいてくるのが気配でわかった。
「昔からそう。稜介はわたしがかくれんぼでどんなに難しい場所に隠れても絶対に見つけてた。迷子になったときも迎えは稜介。どうしてわかるの」
「小夜子、話があるんだ」
判決は直球に言い渡す気らしく、背中に落ちてくる声は固い。わたしの心臓もその声にあわせて大きく鼓動する。
「き、聞きたくない」
被告人として黙聴権を主張するも、声が震えてしまうのは隠しようがなかった。
「稜介の話なんて、こ、今後一切聞かない」
なんて見苦しい悪足掻き。それでも嫌だ、聞きたくない。
でもそんな虚勢は稜介の長く伸ばされた両腕であっさりと解かされる。
稜介がわたしの頭に手を差し込んで、両頬を包み込むように力を入れた。指先まで優しい手つきで肌をうっすらなぞり、けれど顔をあげさせようとする力は強い。スーパーヒーロー並の力を持つ宇宙人相手に平凡人間の抵抗など笑止千万、わたしの顔はあっさりと持ち上げられた。
「聞いて」
眼前5センチもないところに稜介の顔がある。腹の立つくらい整った甘い顔に、がっちりと掌に掴まれた両頬の熱さが最後の反抗を許さなかった。瞳からぼたぼたと涙が零れて、彼の手をつたっていく。
ああ、もう駄目だ、限界なんだ。
「わたし……わたし稜介が宇宙人だって構わない」
一度堰を切った流れは止められない。ついにしてしまった秘密の暴露で、確実にわたし達の何かが変わる。
「だけどそのせいで離れていかれるのは嫌なの。宇宙人が人間に混じって生活するのって何かいけない事なの? 何にも悪さなんてしてないじゃない、昔からわたしを助けてくれたじゃない。正体なんてきっと周りの人は気がつかないし、もしばれてNASAとか偉い科学者達に連行されそうになったらわたしが絶対守るよ。だからずっと傍にいて、稜介がいなくなったら寂しいよ」
そう、寂しい。
わたしは稜介がいないと寂しいのだ。
「熱烈な愛の告白だね」
口元をにっこりと形作って、彼は満面の笑顔を見せる。お互いの息遣いでさえわかるこの距離で、学校の女の子達が見たらまた条約が厳しくランクアップされそうなこの微笑み。それに対して泣いて平凡以下になったひどい顔面を晒すわたし。当然宇宙人の天然タラシ成分をスルー出来るような余裕はなかった。
「こんなときに冗談言うなんて怒るよ!」
ひどい泣き顔を彼から引き剥がしたいのに、稜介は決して頬を離そうとしない。それどころか、制服のポケットからハンカチを取り出して人の涙を拭き始める始末。
「僕はいつだって本気だよ。だからありがとう小夜子、僕をそんなふうに思ってくれて」
でもはやく泣きやんでねと、わたしの目じりを親指で拭う。鼻をかすめたハンカチから我が家の洗濯物の匂いがして、それがやけに胸にきた。逆効果だよ、それ。
「けど、ちょっと勘違いしてるかな。今度こそ聞いてね」
わたしを涙で朦朧とさせておいて、宇宙人は遂に判決の鉄槌を振りおろす。
「残念ながら僕は人間。そして正真正銘の宇宙人は小夜子……君の方なんだよ」