第8話
「37度4分。うーん微熱ね」
お母さんが目の前で体温計を凝視する姿が見える。
「まったく、具合が悪いならはやく言いなさいね」
見慣れた電球の丸い形の光が虹色の輪っかのようで目に眩しく、わたしは頭から布団を被った。瞼の裏がチカチカと明暗に揺れて変な感じ。
「あんまり心配させないで頂戴」
「ん……」
ごめんなさいと口を開こうとしたけれど、それがあまりに億劫に感じて言葉にならい。ベッドに身を横たえていると、体中にじんわりと熱が広がるのがわかって、ああ本当に風邪引いていたんだなと思う。
「夕飯は稜介君が作ってくれたから食べなさいね」
「あ」
「あ?」
お母さんが怪訝そうな顔でわたしを見る。
「えと……何でも、ない」
まさかの包丁浮遊事件を母に告げるかどうかは躊躇いが大きかった。だってあり得ないし、それこそ具合が悪くて見た幻覚かもしれないし。
本当にあれは何だったんだろう。軽く30秒くらいは空中停止してたと思うんだけど。
「とりあえずこれはお水。飲めるようなら飲みなさい」
ベッドサイドボードにお母さんがコップを置いてくれる。喉がからからに乾いていた事に今更ながら気がついて、わたしは身体を起こした。結構汗をかいているらしく、全身の肌がじっとりと湿っている。
そのとき丁度、ドアがノックされた。
「稜介君?」
わたしが水を飲み干すのと同時にやってきた彼は、お盆に小さな器をのせて持っている。
「小夜子のご飯です」
「ああ、ありがとね」
お母さんはもう一度わたしの額をさすって熱を確かめると、飲み終わったコップを持って出て行った。スーツ姿のままだったから、家に帰って真っ先にわたしのところに来てくれたのかもしれない。普段はわかり辛い母の愛情をちょっぴり心の奥でかみしめて、わたしはベッドの横に腰掛ける稜介に向き直った。
潤いを取り戻した喉はなんとか話す気力も与えてくれて、彼の手の中にある白いお粥は魅力的な匂いを漂わせている。
「ほら、これ」
手渡されたそれはシンプルな芋粥で、昔から藤倉家の病人食王道メニュー。少量口に含めば優しい味が口内に広がった。
「稜介、料理出来たのね」
「小夜子程上手くは出来ないよ。いつもこっちでご飯食べてるしさ。でも、たまには作るかな」
一人で暮らすなら、多少の料理の腕は必要だもの。うちはわたし以外誰もお粥すら作れないから、立派だと思う。そういえばこの間のコロッケも結局揚げていたのは彼だった。
わたしに唯一誇れる事があるのなら、それは料理の心得だったのに。ないとは思うけど、稜介が本気でこの道を目指す事だけは遠慮して貰いたい。
「そういえば部活は?」
思えば稜介の帰宅には少しばかり早い時間だった。何の連絡もなかったけれど、どうかしたのかな。
「早退してきた、健太郎からメールで連絡きて」
弟は何時の間にそんなスパイ行為をはたらいていたのか。いやそれよりもそんな事で早退したの? 稜介はわたしと違って全国区の選手なんだよ?
ちょっと半眼で彼を睨んでみると、稜介はゆっくり首を振る。
「いいんだよ、小夜子の方が大事だから」
あっさりと穏やかな表情でそう答えられれば、わたしの非難の言葉は脳から吹き飛んでしまった。
このタイミングで、それがくるなんて。
「ずるい」
そうだ卑怯だ、不意打ちだ、不公平だ。
「何でそんなに優しいの、どうしてそんなに完璧なの」
ますます完全無欠に近づいて、どんどんわたしから遠くなる。ますます得体の知れない宇宙人になる。
ああ何だろう、この感じ。やっぱり心の底がもやもやする。
「僕は完璧じゃあないよ」
稜介は苦笑して、わたしが長年愛用している枕元のクマのぬいぐるみを手にとった。幼い頃に両親から誕生日プレゼントとして貰ったもので、名前はクマ吉。実に安直なネーミングセンスだ。
「小夜子の知らない所で、欠点と矛盾だらけなんだから」
「どこにそんな弱点があるのよ」
その2つに苦しんでるのはわたしだ。彼にそれがあるのなら是非教えて欲しい。
「それは秘密。もう少し寝てなよ、頭は痛くない? 寒気は?」
「ちょっと頭痛がする。寒いよりは熱くて」
「わかった、マヤさんに着替えを用意してもらうように言っておくよ」
わたしがお粥を食べ終えた事を確認すると、稜介は立ち上がった。
「待って」
差しだされたクマ吉を押しのけて、わたしはサイドボードの鞄を指差す。熱さで頭がぼうっとして、その距離を歩く事が出来ない。
「そこの鞄の中に手紙が入ってるの。知り合いの先輩から稜介にって頼まれたものだから、持っていって」
稜介は一瞬眉を顰めたけれど、何も言わず片桐部長の手紙を取り出した。ちらりとわたしに視線を投げかけて、でもこの場で手紙を開く事はない。段々身体が辛くなってきたので、わたしはいそいそと布団の中へ身を沈めた。
「おやすみ」
閉まる扉の外から掛けられた言葉がやけに耳に残って、これで約束を果たしたという安堵感なんてまるでなかった。わたしはクマ吉をぎゅっと抱きしめて、はやく夢の世界が訪れるよう無理矢理目を瞑る。でも瞼を閉じても頭痛がひどく響いていて、穏やかな眠りは明け方近くまで許されなかった。
※
「おはよう小夜子……って、どうしたのそのマスク」
教室に入るなり、本を読んでいた遥は驚いた声をあげた。
「ん、風邪引いたみたいで」
わたしは顔の下半分を丸々と覆うマスクを身に着けていたので、答える声も若干くぐもっている。お粥と薬のダブル効果はそこそこ発揮されたのか、一応朝には平熱まで下がっていた。頭と喉は痛いけれど咳はそれほどでもない。マスクはだから、念のため。遥にうつしたら嫌だしさ。
よろよろと自分の座席へ向かうと、前の席には友人と談笑している上原君の姿があった。
「あれ、藤倉具合悪いの?」
「少しね。でも薬飲んだから結構楽になったよ」
「夏風邪か? 無理するなよ」
相変わらず彼は気さくな人だ。そういえばサッカー部もそろそろ試合が近かった気がする。
「部活出れそう?」
遥が隣から声をかける。眼鏡の奥の瞳で眉が顰められて、心配かけてるんだなとわかった。
「放課後まで様子見て考えるね、大会近いし出たいんだけど」
「体調崩されちゃあ話になんないでしょ。いいから休みなさいよ」
それももっともなご意見で、わたしとしても悩みどころ。もう日にちがないし、熱がないならなるべく練習しておきたいんだけどな。
まだ朝のホームルームが始まるまで時間は結構あるのに、教室は登校してきた生徒達が半数以上。うちの高校はごく普通のレベルだけど、割合真面目な校風で生徒もそういう傾向がある気がする。ただ陸上部員の子達は全員姿が見えないから、朝練の最中なんだろう。稜介もきっとグラウンドを走っているに違いない。ふと窓の外に目を向ければ、ジョギングの規則的な掛け声とともに走っている野球部の一団がいた。今日は風もなくて暑いから、さぞかし大変だろうに。
公立高校にも全国統一でクーラーをつけるべき、と何時だったか怒っていたのは遥だったかな。確かに隣町の学校は冷暖房完備でウチには一切の設備がないとは如何なものか。健太郎の通う中学にさえ設置されているらしいのに。
「あれ。あそこにいるのって稜介か?」
上原君が窓枠に両手をついて、外を見下ろしている。ここは4階だから校庭が一望出来るんだけど、彼が見つめているのはグラウンドの隅。かなり距離のある、南門にある雑木林だ。
「本当、佐川君ね。隣にいるのは片桐部長じゃない」
遥も席を立って彼の隣へやってきた。野次馬根性とでも言うべきか、心なしか声が弾んで嬉しそう。
「こんな朝から人気のない校庭の奥で……やっぱりね、部長も佐川君が好きだったんだわ」
「テニス部の部長さん? さすが稜介、年上からもあるんだな」
上原君も、もしかしたら遥と同族かしら。会話の声に好奇心が滲んでいる。
「そりゃ松の上不可侵条約の君だもんね。小夜子、今日は旦那を観察しなくていいの?」
いつの間にか締結されていた稜介ファンクラブの条約。そうか、3年生じゃないと単独で彼と接触出来ないんだっけ。
「うん、今日はいいや」
だって今、片桐部長と一緒でしょ? 何か悪い気がして、そう視線を逸らそうとしたとき稜介がゆっくりとこちらを向いた。遠目で距離があってもはっきりわかる。でもその表情まではわからない。
何だかとても気まずくて、わたしはぱっと顔をそむけた。向こうはわたしが見てた事をわかってしまっただろうか。
稜介と部長。そもそも面識があるのかどうかさえ知らないけれど、話していたのは――手紙の件?
「ほら、そろそろ一限始まるよ」
折よく予鈴チャイムが鳴ったので、教室がばたばたと騒がしくなってきた。遅刻ギリギリで駆け込む者や、隣のクラスへ遊びに行っていた者、部活の朝練組が次々と教室へ入ってくる。おかげで一気に熱気が溢れてきて、あきらかに教室の温度が上がった。そしてそのざわめきが頭に響く。
幸いにして窓際の席なのに、今日はあまり風が吹いていない。ああ、涼しい風が吹かないかな。分厚い窓に遮られるわずかな清涼感を求めて視線が泳いだ。すると上原君と目があって、暑いというジェスチャーと苦笑を交わしあう。せめて半開きになった窓を全てスライドさせようと片手を上げたとき、それは起こった。
まず聞こえてきたのは、ピシ、ピシリ、という微かな音。
何、と思う間もなく。目の前で突然窓ガラスの1枚に亀裂が走った。白い線が生き物のように透明な板を這いまわり、その軌跡を縦横無尽に広げながら、物凄いスピードで一面を覆い尽くす。ほんの数秒で不均等な白い筋だらけになったそれに最初に気がついたのは多分わたしで、次に二つ前の席の女の子が悲鳴をあげて席から立ち上がった。そしてその行動に目を動かしたクラスメイト全員が、ようやく事態を目の当りにする。
「きゃあああああっ!?」
「おわっ、あぶねぇっ!」
浸食をさらに隣の窓にまで及ぼして、あっと言う間に校庭に面した窓全てにヒビが入り、耐えきれなくなった部分が一気に決壊した。ガシャガシャンという硬質な音に窓際の席の子達はみんな一斉に飛びのいて、教室は騒然。わたしも慌てて廊下側へ避難して、青い顔をして震える遥と手を繋ぐ。
な、何なのこれ!?
一度割れ出したガラスはもろく、見る見るうちに派手な音を立てて教室の床と外側へと破片が散っていく。わたしの机の上にも欠片がきらきらと光っていて、ここからだと反射で綺麗に見えるのがひどく滑稽だ。今日まで特別意識した事もなかった教室の窓は、今や青空を映すその枠組みだけを残して、無残な姿を晒していた。
「……やだ、怖い」
「嘘だろ、何で急に割れたんだ?」
「つーか危ねえ、どうすんだこれは」
突然の惨事にみんな思考が停止して、出来るだけ窓から離れて固まっている。わたしだって遥の肩から手が離せない。そんな中上原君が恐る恐る窓へと近づいて、散らばった破片を手にとった。
「うわ、マジで粉々だよ」
先程まで求めていた風が入りこんできたけれど、きっとみんな暑さなんて忘れている。嫌な汗が背中一杯に流れていて、むしろこの風でガラスの欠片が飛んでしまうの事の方が危険だった。
「小夜子っ」
不意に肩を叩かれると、背後の入り口に稜介が立っていた。陸上部のユニフォーム姿に、珍しく肩を大きく上下させて、額には汗が浮かんでいる。
「――片瀬さんも、怪我はない? 今隣のクラスの先生が職員室に連絡行ってくれてるから」
もしかして校庭の端から走ってきたのだろうか。いつになく髪が乱れているし、息も荒い。心なしかわたしと遥を見つめる顔も何だか強張っている。
非常事態だからなのか、でも稜介のこんな顔って珍しい。だって目つきがすごく厳しい気がするのだ。
「ありがとう、わたしも遥も大丈夫だけど……一体何が起こったのか」
窓ガラスが割れた。それも唐突に全部。
「わからない」
混乱の続く教室の中、鋭利に割れたガラスを一欠片手にして、稜介はそれを指先で弾いた。
「わからないけど、君が無事でよかった」