第7話
家に帰ると健太郎は分厚い眼鏡をかけて、居間のテーブルを占拠していた。裸眼両眼驚異の2.0を誇る弟がなぜ視力矯正なんて必要なのか。聞かなくても長い付き合いでわかる、勉強はまず形から。インテリごっこは眼鏡から。過矯正が眼精疲労の原因なのだと、このお馬鹿な弟はわかっているのかしら。
そしてそんなテーブルには、この時間には珍しい先客がいたりする。
「おかえり小夜子」
「お父さん、今日は早いね」
読んでいた新聞の影から顔を出したお父さんはごく普通のサラリーマン。どちらかと言えば健太郎は父親似で、だから結構渋いナイスミドルではあると思う。
「今日はやっと今までの仕事が一区切りついたから。ああ、タイガー屋のどら焼き、冷蔵庫にあるよ」
「うんありがとう、2人とも食べるよね?」
台所の湯沸かしポッドに火をつけて、急須にお茶っぱをよそう。お父さんが帰ってきたから、今日の夕飯は5人分、カレーでいいかな。
「はいお茶」
程良く蒸らしたお茶をテーブルへ運べば、弟は相変わらず参考書と格闘していた。
「健太郎、勉強は進んでる?」
「参考書見てもさっぱりわかんね。兄ちゃんに聞くからいいけどさ」
どら焼きを片手に出る名前が稜介なのは、彼の頭脳が目の前にいる姉よりもずっと信頼されているからかしら。まぁわたしだって自分に聞くより稜介に聞いた方が安心だから、何も言わないけどさ。姉としての威厳が底辺なのは確かだ。
「姉ちゃん、何か顔色悪くない」
「そう?」
お茶を飲む健太郎が眉を顰める。
「あ、宇宙人戦隊ビビンジャー始まるぞ」
新聞をめくっていたお父さんの手が、テレビ欄で止まった。そして同時に健太郎のシャープペンを握る腕もストップ。
「いっけね、もうそんな時間?」
慌ててテレビのリモコンを掴めば、今年買ったばかりの新しい液晶テレビから軽快なマーチが流れてくる。そして黄色いテロップでど派手に強調されるメインタイトル。
「健太郎はこれ好きだよね、おもしろいの?」
そう、彼は意外にもアニメが大好きで、ちょくちょく流行りのものをチェックしているらしい。今のお気に入りはこのビビンジャー。
「プレアデス星団からやってきた謎の怪宇宙人達を、宇宙パトロール隊のビビンジャー・ハロルドがやっつけるんだ。毎回毎回すっごい超能力を使ってさ! 女にはこの興奮がわからないんだ、マイナーだけど今一番熱いと思う」
やたら息を巻く弟は年より随分子供に見える。黙っていればそれなりに見栄えのする子なのに。
「これが主人公? やたら格好いい人ね」
画面に映った長めのパーマがかった髪に、切れ長の瞳の青年。甘いマスクはどことなく稜介に似ている気がして、わたしはその姿を目を細めて見つめた。
「ハロルドは不慮の事故で地球に辿りついた別銀河系の宇宙人で、詳しい正体は謎。どうやって帰ろうかと模索しながらも、地球の平和のために命を懸けて戦う孤高のヒーローなんだぜ」
故郷でもない星のために戦ってくれるなんて、素晴らしいボランティア精神の持ち主ではあるまいか。さすがは主人公ね。
『ハロルド……話があるの』
『どうしたんだい、ミカ』
テレビの中ではヒロインらしき少女とハロルドが肌にフィットする派手な赤い服を着て、これまた近未来空想都市のような場所を歩いている。
『スペース・ステーションへ貴方の星から連絡が届いたわ。ハロルド、貴方やっと帰れるのよ』
『本当かい!?』
ミカちゃんは可愛い女の子で、年はわたしと同じくらいかな。アニメだからはっきりしないけど。彼女は暗い顔をして、ハロルドを見上げる。目に浮かぶのは今にもこぼれんばかりな涙で。
『ミカ……?』
『貴方は、やっぱりわたしを置いていくの……?』
ハロルドの困ったような表情がアップで映し出されて、メロドラマみたいな悲しいBGMが流れてくる。頬を伝うミカちゃんの涙に次第に高まる緊張、そしてその答えは――てな感じで、以下次週オチ。
「おお、遂にハロルドは星へ帰るのか」
何だかんだでお父さんも見ていたらしく、お茶を片手に興奮している。
「ミカは人間だからな、彼とは寿命が違うし。置いていくだろうなぁ」
どうやら2人は恋仲で、だけど種族の違う結ばれない運命でという悲恋モノも織り込まれたSFアニメのよう。わたしはストーリーを詳しく知らないからはっきりとは言えないけど、仮にミカちゃんの立場を思うとやっぱり切ない。
どら焼きを食べ終え切りよくアニメも終わったので、わたしはテーブルを離れて夕飯の準備に取り掛かる事にした。いつものように部活帰りに買ってきたスーパーの袋をごそごそあさっていると、背後から健太郎の声がする。
「姉ちゃん、何この手紙」
人参を握る腕の力が抜けて、そのまま床へと転がる。わたしは焦って振り返り、不思議そうに手紙を見つめる健太郎の腕からそれを全力で奪い返した。
「ちょ、何だよ!」
かなりムッとしたらしい弟は、剣呑な目つきでわたしを睨む。
「今制服のポケットから落ちたから拾ってやったのに」
「ええっと……」
あきらかにこちらに非があるので、わたしは素直に謝った。
「ごめんごめん、部活の先輩から稜介に渡すように頼まれた手紙でさ」
けれどそれがいけなかった。彼の名を出した途端健太郎の目が益々激しく吊りあがったのだ。
「兄ちゃんに渡すように? それってどんな内容かわかってるの?」
「さぁ、中身なんて見てないからわからないけど」
何処に地雷があるかなんてわからない。健太郎は一際苛立ったような表情を見せたけれど、結局何も怒鳴らずに首を振る。
「姉ちゃん……」
やたらと弱々しい声で、なのに信じられないという非難を込めた呟きだ。
「俺が口出す事じゃないけどさ。これ女の先輩からでしょ? 年頃の女が男に手紙だなんてラブレターに決まってるじゃん。何でこういうのゴキブリほいほいばりに受けてくるの」
「受けちゃまずいの?」
健太郎が何を怒っているのかわからない。それに姉を恐ろしい生物の捕獲兵器に例えるとは何事か。
「まずいに決まってんじゃんか、どんだけ鈍いんだよ! 姉ちゃんなんて100年経っても200年経っても何も気がつかないんだろ!」
「何わけのわからない事を……そもそも普通の人間が100年以上生きていられるワケないでしょ!」
わたしがガツンと思い切りテーブルを叩き、健太郎がガタンと音を立てて豪快に椅子から立ち上がる。姉弟喧嘩開始のゴングによってお互い臨戦態勢。回収した人参剣と参考書盾を装備してお互いに牽制しあう。
「姉ちゃんはどうしてそう呑気なんだよ、何もわかってないくせに!」
「だから何をわかってないのよ!?」
「兄ちゃん、本当は――」
「健太郎」
ついつい口論が激しくなって、さすがにお父さんが口を挟んできた。
「こちらが口を出す事ではないだろう。いいんだ、全部稜介君に任せるから」
目ぼしい記事を読み終えたのか、新聞を折りたたむ。まだ喚いている健太郎を宥めながら、わたしを向いて笑いかける。
「ここはいいから小夜子、夕飯を頼むよ」
わたしは頷いて、人参を持ったまま台所へと戻っていった。
※
健太郎とはしょっちゅう喧嘩をしているけれど、大抵お父さんか稜介の仲裁で終わってしまう。今日みたいにヒートアップする事も少なくないのは、もしかしてわたしの精神年齢が健太郎と同レベルなのかしら?
この問題を深く考えるのはよくない、気を取り直して夕飯はカレーだ。各野菜や肉を切って、玉ねぎと炒めて、あとは市販のルーで煮込めばおしまい。隠し味にはチョコレートを入れて、ご飯は昨日の残りで済ませよう。
手際良くリズミカルな包丁裁きはわたしの密かな自慢。無心でじゃがいもを切っていると、不意にまた心が曖昧なもやもやに包まれてくる。とってもとっても嫌な感じ。
まったく健太郎め、誰が鈍いって? これがラブレターだなんて、わたしだって薄々気がついてたもの。
片桐部長、稜介が好きなんだろうな……そんな事が更に心中浮かび上がってきて、わたしは首を何度も振った。けれど靄は晴れなくて、握る包丁にもつい無駄な力が入ってしまう。
どうしてこんな気持ちになるんだろう、別に稜介が誰と付き合おうと構わないのに。そんな事をぶつぶつ考えながら3つ目のじゃがいもに手を伸ばした瞬間。気を張り詰めたせいなのか、右手から包丁がすり抜けた。
あ。
刃はわたしの左指をかすめ、そのまま真っすぐ落下していこうとしている。黒光りするステンレスの予想着地点は右足の甲だけど、今から脳に避けろと命令した所で間に合わない。よく研いだ刃は野菜も肉も魚も筋まで切れると自負する程。スリッパも履いていないし、靴下も脱いでしまった素足だから、それなりのダメージは覚悟しないと。
痛みに備えて目を瞑る。ああ、何だか今日って散々だわ。
けれど予期した衝撃は数秒経ってもこなくって、わたしはゆっくり瞳を開けた。恐々と足元を覗きこめば、果たしてそこに包丁はあった。そう、確かにそこにあるんだけれど。
甲の上、5センチ程度。そのわずかな上空に刃を下にした包丁。紐も糸も付いていないけど、それは空中で静止している。
「え?」
まさか自分の足の上でこんな事がおこるとは思わなかった。わたしがゆっくり右足をその場から引き抜くと、台所マットの上に包丁の静止画という実にシュールな絵面が完成。
な、な、何これ!?
「お、父さん……健太郎……」
視線を離さず後ずさるように距離をとると、うわごとのように2人の名を呼んでみる。このまま振り返ってダッシュしようかと思ったそのとき、ゴツンという音をたてて包丁はマットへ落下した。今度こそ重力に反発せず、予想通り先程わたしの右足があった場所へ。
そうっと近寄って手にとってみれば、いつもと何も変わらない包丁で。近くのショッピングセンターで買った有名メーカーのそれが、実は某映画の飛行石で出来てましたなんてびっくり展開もあるわけない。わたしは包丁の柄を抱えて思わずその場にへたり込んだ。その拍子に背後にあった食器棚へ後頭部が軽くぶつかる。
ええっと、何時から藤倉家にはこんな怪奇現象が起こるようになったの?
「小夜子、何か音がしたけど?」
「稜介?」
気がつけば居間との仕切りドアに帰ってきた稜介が立っていた。
「どうしたの、包丁抱えて……それに顔色悪いよ」
「あ、うん、えっと」
何だか上手く口がまわらない。それにあまりに混乱していて、今起こった事が伝えられる自信がない。
おかしい。絶対におかしい。しかも何だか変なところを打ち付けたのか物凄く頭がズキズキする。もしかしてこの間の水油事件の霊の仕業なの? ちゃんとお供え物をしたのにどれだけ了見の狭い霊なのよ、こんなにビビらす事ないじゃない。
「……それともこれ夢? わたし寝てるの?」
真剣な顔で稜介に尋ねてみると、彼はわたしの手から包丁を取り上げてまな板の上に置いた。
「やっぱり随分疲れてるんだよ。早く寝なって」
「うん……」
確かに頭痛がするし、今日は身体も本調子ではない気がする。でもだからと言ってそれで納得ですませられるレベルじゃあない。
「稜介、今その包丁が――」
「ほらいくよ」
ぐいっと意外なくらい強い力で腕を引っ張られ、わたしは思わず中腰になる。
「ちょ、ちょっと!」
「ん? 抱っこで運んで欲しいの?」
いやいやいや、そうじゃないでしょ!?
けれど有無を許さない笑顔が降ってきて、わたしは何も言い返せず自分の部屋へと向かうはめになった。余裕な態度があまりに悔しいので、宇宙人は無駄にフェロモン全開、と心のメモ帳に赤ペンで追記しておく。